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2016年7月10日、「戦後民主主義」息を引き取る [Politics]

教育とマスコミを支配下に置いた家父長制的・軍国主義的旧支配層の亡霊
2016年7月10日、「戦後民主主義」が71年目の真夏を目前に息を引き取った。「戦後民主主義」は疑似民主主義だった。第1に、敗戦後、日本人民自らが起ち上がってたたかい勝ち取ったものではなく、アメリカ占領軍によってもたらされたというその出自故に。第2に、政権交代がほとんどない、事実上の「官僚・1党独裁政治」の隠れ蓑に過ぎなかった故に。そして第3に、その結果として国民意識に根付くことのない「お任せ民主主義」、〈ある共同利益によって結ばれ、組織員に組織への無私の絶対的服従を課し、組織員の内発的思考と自発的行動を抑制し、そのムラ独特の「空気」に馴染みそれを「読む」ことを暗黙の了解事項とし、集団的規律から逸脱した者は徹底して排除し抹殺する非民主的システムである〉ムラ社会の裏返しの表の表現形態に過ぎなかった故に。
しかしこのシステムは同時に、事実上のアメリカの植民地支配のもと、戦後の復興から高度経済成長を経て大衆消費社会を謳歌する日本経済の絶頂期までは、これ以上都合のいいシステムはないほどうまく機能してきた。だから、国民の多くは、戦後の平和な社会とともに、この戦後民主主義が永遠に続くものと錯覚し続けてきたのだ。
しかし、戦後民主主義が人民がたたかいとった真の民主主義でなかった故にこそ、敗戦後すぐさま復活することができてしまった戦前の家父長制的で軍国主義的な支配層の生き残りたちにとっては、怨嗟と打倒の対象以外のなにものでもなかった。そして彼らにとっては、平和憲法こそ戦後民主主義の象徴であり、改憲=「自主憲法の制定」こそ憎き戦後民主主義を葬り去る最終目標に他ならなかった。
そうした家父長制的・軍国主義的旧支配層の亡霊らにとって、「当面の敵」は日教組朝日新聞であった。とりわけ「子どもたちを再び戦場へ送るな!」と児童・生徒に平和教育を行う日教組はすぐさま打倒すべき対象として、60~70年代に集中攻撃を繰り返し、とうとう80年代には事実上壊滅状態へと追い込むことに成功したのだった。
60~70年代に小中高時代を送った私は、その12年間に尊敬すべき教師にはたった1人しか出会えなかったし、時に場面緘黙症という「障がい」を抱え学校に居場所を見いだせなかった私にとっては、学校も教師もある意味「敵」でしかなかったのだが、それでも、当時の教師たちの世界を取り巻く空気は戦後民主主義のトーンで貫かれていたし、今よりずっとまともな社会科教育も受けられ、今では信じがたいことだが、「時間内職場集会=時限スト」という制限がつくものの、教職員のストライキで授業が自習になることもよくあった。だからその頃、学校は今よりいじめは少なかったし、政治も今よりタブーでなかったし、少しは自分で考え発言し行動する生徒たちもいた。
しかし、日教組が事実上解体させられて以降、児童・生徒のみならず、教師までが校長・教頭らによって管理される対象となり、部活指導をはじめ労働強化がなされ、30人学級など夢と消えた。そして、歴史教科書はどんどん書き換えられ、戦前の家父長制的・軍国主義的社会と彼ら支配層が行った犯罪行為を美化し正当化する教科書まで登場し流布されるに至った。
それでも家父長制的・軍国主義的旧支配層とその子や孫その同調者らも、朝日新聞をはじめとするマスコミにまではあまり露骨な介入は行わなかった。アメリカに公認された戦後民主主義に、それは反する行為であり、また、すべてがうまくいっていた時代に、そのような強権的手法は必要とされなかった。教育さえ支配下に収めれば、「人」の支配ができる。現在40代半ば以下の人々は、もはや戦後民主教育世代とはいえない。そして2006年、第1次安倍政権下に行われた教育基本法の改悪がその支配を完成させた。

日教組叩きから朝日新聞叩きへ
家父長制的・軍国主義的旧支配層の亡霊の意志は、その子と孫、同調者らによって連綿と引き継がれ、今や日本会議という形をとって隠然たる勢力を誇るに至った。折しも世界的な資本主義終焉期の危機的状況という時代状況と不幸にもシンクロしてしまった亡霊どもは、単なるアナクロニズムから一転して、時代の寵児にすら祭り上げられかねない存在に変貌を遂げた。事実、3・11後のカオスの中で生まれた第2次安倍政権は、自民党という衣をまといつつ権力を簒奪した復活した亡霊であり、アメリカのトランプ現象やヨーロッパの極右勢力台頭に先駆ける急先鋒となった。
捲土重来、憎き戦後民主主義を打ち倒し、自主憲法制定の秋とみた彼らは、このとき念願の朝日新聞打倒に打って出た。2014年、東電福島原発事故と従軍慰安婦問題を巡るふたつの「吉田証言」事件をきっかけに、朝日新聞の牙を抜き萎縮させた彼らは、すっかり味をしめて、彼らの気にくわない報道機関や番組に圧力をかけ、黙らせることにいともたやすく成功してしまった。それもそのはず、この国の「ジャーナリスト」は国民同様、今までただの一度も、報道の自由、表現の自由を勝ち取り守るために、組織的に権力に楯を突き、命がけでたたかった経験などない、単なるマスコミムラの住民に過ぎなかったからだ。
教育とマスコミを支配下においた彼らに、もはや恐れるべき敵は存在しない。不正選挙など行うまでもなく、選挙結果さえ自由自在に操れる。戦後民主主義が機能していたとき、「無党派層」は「反自民」と同義であり、投票率の増加は与党に不利というのが常識だったが、今やその常識も通用しない。森喜朗は「寝た子を起こすな」と言って物議を醸したが、今や選挙棄権層は「寝た子」ですらない、単なるでくの坊に過ぎない。昨夜の選挙特番の街頭インタビューでこんな場面を目にした。おいしいパンケーキの店に列をつくる20歳の女性。「選挙、関心ありません。3分の2? 何それ。おいしいパンケーキが食べられれば幸せ!」

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朝日新聞7月11日付より

そして選挙に行った有権者も、若い世代ほど与党支持者の比率が増していく。ポスト戦後教育世代だ。「中立」の名の下における偏向教育の大いなる果実だ。もちろん「パケーキの幸せ」もその成果に他ならない。

三宅洋平と「パンケーキの幸せ」との絶望的断絶
私はこのブログでも、再三再四、「安倍政権を倒せるのは市民連合ではなく市民新党だ」と訴えてきたが、不幸にしてその懸念を裏付ける結果になってしまった。市民連合主導による野党共闘の成果は一定程度現れたが、それは野党支持層の単純な足し算によってもたらされたものという側面が強く、少なくとも無党派層を強く引きつけ、無関心層の投票行動を強力に促すことはできなかった。
一人区の統一候補だけでなく比例区の統一名簿を主張して果たせなかった小林節氏がひとり決起し国民怒りの声をつくって起ち上がったことは大いに評価されるが、問題は「この指止まれ」と氏が叫んでも止まる知識人がひとりもいなかったことだ。当初小林氏は10人の候補の半分は著名人を予定していたが、結局名前の知れた既成政治家ふたり以外、無名の市民しか結集しなかった。この国の知識人もまた、言論、表現、学問の自由を守るために血を流してたたかい、取り戻した経験をほとんど持たないのだった。むしろ、先の戦争では積極的に侵略戦争に荷担していった拭いがたい過去を持つ。そして、そうした先の戦争の本質を鋭く抉り出した気鋭の学者も、国民怒りの声の支援に駆けつけはしたものの、自ら起つことは決してなかった。
そうしたなか、今回の選挙で唯一期待を抱かせたのは選挙フェスの三宅洋平だったが、残念ながら期待は願望に過ぎないという現実が突きつけられた。彼が国会に入り、山本太郎と日本版ポデモスを結成し、次期衆院選以降、多くの頼もしい同志とともに起ち上がれば、この国にもポスト安倍の明るい展望を拓くこともできただろうが、それは幻想と消えた。
3・11で年齢・階層を問わずに覚醒し、起ち上がった自覚した市民たちと、従順なムラ社会の住民との絶望的な断絶を感じざるを得ない。選挙フェスに集まった1万、2万の市民と、257,000票という現実との落差。3年前に彼もその推薦候補となりひとり票を集めた緑の党が泡沫政党として消えたのは、ひとえに彼らに「政治力」がなかったからと片づけられるが、三宅洋平のような山本太郎に勝るとも劣らない政治家力を持つ候補が落選せざるを得ないのが、その日とともに死んだ戦後民主主義の限界そのものだった気がする。
2012年年末の総選挙で安倍政権が登場したとき、私は今後少なくとも10年は、政治の力で脱原発を実現することはできないだろうと述べたが、この国の苦難はさらに果てしなく続くだろう。滅びて消え去るか、滅亡的危機を経て再生するか、もし再生の道が残されているのだとしたら、そのときこそ、それは私たち市民ひとりひとりが決死の思いで起ち上がり、たたかって未来を切り開いていく以外に方法はないだろう。



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コメント 3

とし兵衛

ご意見におおむね同感です。

一方で、鹿児島県知事に原発に反対の意を表明する三反園訓氏が当選したことは、地方レベルでは、国政与党の力にも限りがあるということでしょう。

戦後の擬似民主主義が虫の息になっている今こそ、それを真の民主主義に成熟させるための草の根の努力が問われるところかと思います。
by とし兵衛 (2016-07-11 20:44) 

北野慶

三反園氏の勝利は、彼の著名人としての知名度に負うところが大きかったと思います。また、伊藤知事は女性差別発言など「失言」問題で評判が悪く、また多選批判もあったことから、「敵失」もありました。熊本地震による原発への不安が後押ししただろうことは、2012年の知事選では、反原発派の候補が大敗していることからも言えるとは思います。ただ、今回の三反園氏の勝利は、保守的な鹿児島県で、上述したような様々な要因が重なったうえでの「椿事」と私は捉えています。
by 北野慶 (2016-07-11 22:51) 

とし兵衛

「椿事」とのご意見、確かにそうかもしれません。また、「知名度」の点は本当に大きなことと思います。
これが、たった一つの「椿事」に終わらず、小さくてもなんらかの流れとしてつながっていくことを祈るものです。
by とし兵衛 (2016-07-12 11:27) 

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