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まず検証すべきは衆院議長宛犯行予告への対処ーみたび相模原事件について [etc.]

問われるべき警察、そして政府の責任
1ヶ月を迎えた相模原事件は、厚労省による措置入院制度の強化・見直しへと収斂しつつある。そしてそれに対する真っ向からの反論は、マスコミ報道にもほとんど見られない。このことに関してはこのブログでも1度述べたように(http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2016-07-31)、全くお門違いの安倍政権と厚労省による事件の政治利用にほかならない。
事件直後から、植松聖が今年2月15日、大島衆議院議長に宛てた手紙の内容が公開されている。真っ先に検証すべきはこの一件を巡る関係者・関係機関の対処についてであると思うのだが、それについてのマスコミ報道は、寡聞にして一切目にしていない。
「障害者470名を抹殺することができる」といい、惨劇の現場となった施設を含め2つの施設の名前を挙げ、具体的に犯行の手口を詳述しつつ犯行予告をしているのだ(そして、実際にそれに沿って犯行がなされた)。植松聖は議長公邸へ赴き議長に手紙を渡そうとしたというが、実際に誰がその手紙を受け取り、大島議長はそれを見たのか? あるいは手紙で相談するように名指しされた安倍首相はその事実を知らされたのか? 当然、警察へは届けられ、警視庁を通して神奈川県警なり地元相模原署へも通知されたために、19日の退職・措置入院となったようだが、警察は具体的にどう対処したのか? 明らかに脅迫罪や威力業務妨害罪が成立するはずで、その時点で植松を逮捕していれば、事件は防げただろう。
もしこれが、「障害者470名を抹殺」でなく、「国民の税金を無駄遣いしている安倍晋三総理をはじめとする衆議院議員475名を抹殺」だったら、その日のうちに植松は逮捕され、事件は大々的にマスコミに報じられていただろう。首相官邸にドローン1機が落ちただけでも、犯人がすぐに逮捕され、それどころかドローンに対する規制がすぐさま強化されたくらいなのだから。
いや、そうでなくても、「○○小学校児童470名を抹殺する」でも、同様の措置がとられたであろう。それどころか、「近日中に人が大勢集まる場所にトラックで突っ込み何十人もひき殺す」といったような抽象的な犯行予告であっても、警察はすぐ犯人逮捕に動いたに違いない。
要するに、植松聖が殺人対象にあげたのが、「一般市民」ではなく、ましてや政府要人でもなく、「障害者」だったから、警察は動かなかったとしか考えようがない。そして、衆院議長宛てに「安倍晋三様にご相談を」と届けられた手紙だったにも関わらず、政府も一切無視できたのだろう。
マスコミは「人の命の重みに違いはない」とか「障害者差別は許されない」といいながら、なぜこのいちばん重大な事実に目を向けようとしないのか?
相模原事件で真っ先に責任を問われなければならないのは、2月の犯行予告に何ら対処しなかった警視庁・神奈川県警・相模原署の不作為であり、この手紙を無視した大島衆院議長と安倍内閣だ。

やまゆり園のふたつの責任
第2に問われるべきは、津久井やまゆり園の責任であり、それはふたつある。
ひとつは、植松聖が正職員として働くようになって数ヶ月後(2013年後半~14年初め)には「障害者って、生きていても無駄じゃないですか?」とか「安楽死させた方がいいっすよね」などと言い始めたにもかかわらず、彼を解雇しなかった点だ。解雇権の乱用は労働者の人権侵害になりかねないので慎重を期すべきだが、少なくとも2年近く彼をそのまま雇い続けてきた園の責任は決して小さくないだろう。もし、「末期がん患者って、生きていても無駄じゃないですか?」とか「安楽死させた方がいいですよね」などと言う看護師がいたら、病院はその看護師を放置しておくだろうか? 万一のことがあったら、病院の責任問題に発展しかねないので、病院経営者はすぐに解雇するのではないだろうか? そこにも「普通の市民」と「知的障害者」の「命の重み」の差を感じてしまうといったら考えすぎだろうか?
ふたつめは、「犯行予告」の手紙の通告を受けて植松聖が考えを変えなかったので「自主退職」としたのはいいとして、警察に通報し措置入院させたことだ。職員としてあるまじき言葉を発しながらも彼を2年間も雇ってきた園は、彼を説得して考えを改めさせられると思っていたのだろうが、それが無理と判断するや、掌を返すように警察に渡し「精神障がい者」として措置入院することを許した。ほかでもない知的障がい者の施設だ。措置入院制度の問題点や、日本の精神科医療の実情に疎かったとしたら、それこそ問題だ。
植松は入院後、医師をだまして退院したということだが、そこにこそ精神医療のいい加減さがよく現れている。私の知人に、原因不明の肩の痛みから精神科を受診することになり薬漬け状態となり、どんどん症状が悪化して自殺未遂の末、「統合失調症」として医療保護入院させられた人がいる。その人も、最初執拗に「出してくれ」と病院側に迫ったところ相手にされず、従順を装って「改心」を誓ったところ退院を許されたという。このように、精神科病院というのは医療施設ではない。「困った人間」の隔離収容施設であり、いったん収容したら出すも出さないも医師のさじ加減でどうにでもなる超法規的な恐ろしい所なのだ。
そもそも精神医療が医療の名に値しないものであることは、向精神薬被害者である私がいやというほど身にしみて体験してきたことだ。(のむな、危険!: 抗うつ薬・睡眠薬・安定剤・抗精神病薬の罠)もし睡眠薬が欲しければ、精神科へ行って「このところ眠れなくって仕事にも影響が出て困るんです」と言えば、精神科医は喜んで睡眠薬を処方してくれる。「ここ2、3週間気分が落ち込んで何もかもやる気が起こらず、食欲もなく、寝付きも悪い」と訴えれば、抗うつ薬をはじめ、安定剤やら抗精神病薬やら何種類もの薬を出してくれる。
私は若い頃、慢性じんましんで薬を飲まないと体中痒くてたまらず、20年ほど抗ヒスタミン剤や抗アレルギー剤を飲み続けていた。あるとき、恋人と長旅をしたのだが、途中で薬が切れてしまった。そこで旅先で皮膚科を見つけ受診しようとしたのだが、保険証を持っていないことに気づき、保険証を持っていた恋人に身代わり受診を頼んだ。ところが、恋人は私が教えたとおりのことを医師に話したのに、すぐさま詐病を見抜かれてしまった。医師は彼女の腕を掴んで軽く爪でなぞったそうだ。慢性じんましんならすぐさま赤いミミズ腫れのような症状が出るはずなのだが、彼女にそんな症状が出るはずがない。事情を話すと、本当は自費で薬をもらわなければならないところ、医師は、違法かも知れないが、彼女の名前で処方箋を書いてくれた。
医療とは、本来こういうものだろう。患者の言うことを検査もせず鵜呑みにしたりしない。困ったやつだから入院させてくれという家族の申し出を素直に受け入れ、病気でもない人間を入院させたりしない(政治家の権力を用いた要請でもない限り)。一方、精神医療は「患者」や家族の言葉で判断し、医師の主観に基づいて病名や処方や入退院が決められる。精神鑑定で鑑定医の見解や病名が分かれるのも当然だ。
だから、そもそも植松聖が「精神障がい者」かどうか、薬物中毒者かどうかさえはっきりしないのに、措置入院制度を見直すなどとは、議論のすり替え以外の何ものでもないのだ。


めざすべきノーマライゼーション
宮城県知事で知的障害者の地域移行を進めた実績のある浅野史郎氏は、本日付の朝日新聞で次のように述べている。
 今回の事件を受けて、施設に防犯カメラを増やしたり、塀を設けたりといった警備の強化を進める動きがあります。しかし、これはまったく反対の方向だと思います。施設を一種の「要塞(ようさい)」にしてしまえば、「特異な場所に住む特異な人」という認識を再生産しかねません。
 なぜ、40人以上もの人が、わずか1時間足らずで傷つけられたのか。施設によって確保される安全もあると思うが、GH(グループホーム)でばらばらに暮らしていれば、いっぺんに襲われることはなかったはずです。集団的で、ともすれば閉鎖的になりがちな施設の住まい方を変えるため、入所者の地域移行を今後も着実に進めていく必要があると思います。
障がい者に限らず、高齢者なども含め、ノーマライゼーション(施設に隔離せず、健常者と一緒に助け合いながら暮らしていくのが正常な社会のあり方であるとする考え方。また、それに基づく社会福祉政策)が、北欧をはじめヨーロッパのスタンダードになっている。やまゆり園も閉ざされた大規模知的障害者施設ではなく、小規模なグループホームだったら、そこで働く植松聖は、あるいは今回のような事件を起こすことはおろか、そもそも「障害者は生きている意味がない」などという優生思想を抱くことなどなかったのではないか?
障がい者の隔離だけでなく、たとえばLGBTをカミングアウトしにくい社会、貧困の見えにくい社会……等々が、差別と偏見を生み、憎悪や怒り、妄想を増幅し、ヘイトクライムやテロを生んでいくのではないか?
その社会的根幹を問うことなく、措置入院制度をいくら強化しても、「植松聖」は決して特殊な犯罪者としていつか忘れ去られることはなく、これからも第2、第3の「植松聖」が生まれてくるだろう。

『ジニのパズル』の謎 [Korea]

在日朝鮮人文学との出会い
学生時代に出会った在日2世の友人(父が韓国人で母は日本人)との出会いを通して在日問題や韓国・朝鮮に関心を抱いた私は、20代を通して、金達寿(キム・ダルス)、金石範(キム・ソクポム)、李恢成(イ・フェソン)らに代表される1世・2世の在日朝鮮人文学に深い共鳴を覚えて耽読した。しかし、その後、李良枝(イ・ヤンジ)や柳美里(ユ・ミリ)ら第2世代の在日作家らが登場すると、そこにある種の違和感を覚え、その後、在日文学からは遠ざかることになった。
その後私はニューカマーの韓国人と結婚し、韓国にも3年間住んでみて、私が在日朝鮮人文学を通して知った在日家庭に共通する特徴―父母を敬い、親族のつながりを大切にし、先祖の供養を怠らないといった儒教的風習はもとより、酒飲みで妻や子どもに暴力的な父親像、それに対して「アイゴー、アイゴー」とただ嘆くだけしかなすすべを知らない母親像―といったものは、実は植民地時代の遺物、少なくとも南の韓国ではタイムカプセルの中に閉じ込められた過去の家族像であることを知るに至った。
もっとも、在日家庭も3世、4世の世代になれば多分に日本人化し、そのうえ、この四半世紀のうちにも多くに人々が日本に「帰化」した。
在日韓国・朝鮮人という歴史的に特別な過程をたどって形成された人々も、戦後70年も経てばその様相は大きく変化して当然だ。それは例えば、在米日本人、ブラジル移民3世・4世・5世といった人々、さらにいえば、アメリカのアフリカンや世界中の難民や移民のたどる歴史と共通するものがあるだろう。民族的風習が失われ同化するのも無理はない、言語に至っては、2世以降どんどん失われていくのは防ぎようがない。

朝鮮人学校の特殊性
そうしたなかで、日本の朝鮮人学校が守ってきたものは、戦後史の中でかつて日本の植民地支配によって奪われたものを取り戻し守っていくという1世たちの強い民族意識に支えられてきたとはいえ、今となってはそれは歴史遺産的存在になったといってもいい。
私が長らく疑問に思ってきたのは、例えば制服としてのチマ・チョゴリだ。日本の和服同様70年前までは日常服として珍しいものではなかったチマ・チョゴリも、北朝鮮も含めて、今ではそれは日本同様、特別の日にしか身につけるものではない。また、女子だけがチマ・チョゴリで、なぜ男子生徒はパジ・チョゴリでないのかも不思議だ。現に、韓国系の数少ない民族学校の制服は、日本の私立学校同様、男女ともブレザーのところがほとんどだ。
また、朝鮮語を第1言語とするといいながらも、教師自身が2世・3世なので、その発音ははなはだ怪しいもので、朝鮮学校出身者でも何不自由なく朝鮮語が話せる人はそう多くはないようだし、話せる人も日本訛りがひどい人がほとんどだ。つまり、それは生きた朝鮮語とはいいがたい。
その点、上述した韓国系の学校では英語も含めて言語教育に力を入れていて、本国派遣の教師も多いようなので、生きた言語を身につけることができるようだ。民族教育の観点というよりも、より実用的観点に立脚しているのだろう。
70年代以降、金日成独裁への反発と日韓国交回復を受けて朝鮮籍から韓国籍へ移る人が増加したが、前述したように、今ではさらにそこから日本への「帰化」者が多数派になっている。だからといって、彼らのすべてが自分の出自を捨てて、完全に日本人化しているわけではない。80年代に李良枝が日韓の狭間で在日としてのアイデンティティーに苦悩した時期を通過して、今、多くの在日韓国・朝鮮人あるいは韓国・朝鮮系日本人は、アフリカン系アメリカ人、ヒスパニック系アメリカ人、日系アメリカ人、韓国系アメリカ人といった人々と変わらぬ、韓国系日本人、朝鮮系日本人としてのアイデンティティーを確立しているのではなかろうか。

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ピースがはまらないパズル
『ジニのパズル』という第59回群像新人文学賞受賞作で芥川賞候補作にもなった作品が注目されているというので、これは読まざるを得ないと思い読んでみた。
作者の崔実(チェ・シル)の経歴は1985年生まれの東京在住ということ以外未だ詳らかにされていないので想像に任せる以外にないのだが、作品に書かれている時代背景から考えて、主人公のジニは作者の分身と考えて間違いなかろう。どこまで作者が実際に体験したことなのか、どこからがフィクションなのかは定かでないが、ジニの朝鮮学校での体験を記した部分は、恐らく作者が10年以上暖め続け、何度も書き直して推敲を重ねてきた部分と思われる。金父子の肖像画をめぐる事件の記述は確かに圧巻だ。一方、ジニのアメリカ留学の部分は後から付け足したフィクションなのか、文体も少し違っていて、明らかに異質なパズルのピースという気がする。私も昔は純文学指向で、尊敬する大作家の文体を無理に真似ようとした時期もあったが、名だたる芥川賞受賞者の作品の珠玉のような文体は、詩人の紡ぎ出す言葉にも似て天性のもののようで、私のような者にはとうてい真似できないことを悟って以来、自然体を心がけるようになった。この作品も芥川賞候補になったそうだが、文体のみならず、構成を含む作品の完成度や掘り下げの浅さからいって、そこまで芥川賞の値打ちは下がっていないだろうと思った。
それはさておき、小説のサビの部分では確かに圧倒されはしたものの、この作品にはいくつもの謎が残る。
まず、ジニはなぜ日本の小学校に通いながら、中学校から朝鮮学校に通うことになったのか? 日本人の友だちもたくさんいたのに、たった1人の同級生の心ない言葉だけでは、朝鮮学校への転学を決意させる動機としては弱すぎる。また、小学6年生の少女の気まぐれとするにはあまりに突飛な選択のように思われる。
しかも、いざ自ら選択して入った朝鮮学校なのに、そこで朝鮮語を積極的に学んだり、チャング(太鼓)や民族舞踊などを積極的に習おうというのでもない。「누구?」(ヌグ:誰)という朝鮮語を「脱ぐ」という日本語と勘違いするくだりでは、正直笑う気にもなれなかった。なぜなら、音は確かに同じ「ぬぐ」なのだが、イントネーションが「脱ぐ」を「脱ぐ?」と疑問形にしても「누구?」とは全く異なるので、日韓(朝)両国語に通じている人だったら絶対に勘違いするような言葉ではないからだ。これが実際に作者が体験したことであろうとなかろうと、作者の朝鮮語力は未だにその程度のものなのだろう。
といって、私は作者を非難したり上から目線で見下すつもりはない。先ほども述べたように、3世、4世ともなれば、言語が失われない方がおかしいからだ。私がここでいいたいのは、こうした記述ひとつひとつが、前述した謎を深めるからなのだ。
テポドンが日本上空を飛んで太平洋に落下した翌日、ジニはチマ・チョゴリを着て登校しようとして酷い目に遭う。同様のことが当時実際に各地で起こり、人権問題化した。そう、これは民族問題というより、明確に人権侵害問題だ。80年代の第1次日韓ブームを経て、00年代の韓流ブームへと続く端境期にあって、戦後連綿と続いてきた在日差別の底流が一時的に吹き出した時期であり、その底流が今のヘイトスピーチへもつながっているわけだが、ジニの怒りはそうした日本社会の差別構造へと向かうのではなく、朝鮮学校へ、しかも、上述したような歴史遺産的な諸側面のなかでも最も象徴的な金父子の肖像画へのみ向かうのだ。一方で、私が常々違和感を抱いてきた女子のみのチマ・チョゴリは、唯一の親友のニナの民族舞踊を通して全肯定される。
朝鮮学校への入学とヘイトクライムまがいの被害、そこから金父子肖像画事件へと至る葛藤が、いくら中学1年生の少女だからといって、30歳を超えた作者の視点を通しても、納得いくような脈絡で描かれていない。それはとりもなおさず、そのことが作者自身にとっても、未だに完全に消化され理性的に整理がついていないからに他ならないのだろうか、とも思ってみる。
数年前に、ヤン・ヨンヒ監督の「かぞくのくに」という映画を観た。北へ渡った兄が25年ぶりに監視員を伴って家族の下へ一時帰国する話だ。すごくリアルな話だった。
また、それと前後して「アジアの純真」という映画も観た。こちらは方嶋一貴という日本人監督の作品で、ジニのようにチマ・チョゴリを着ていた朝鮮高校の生徒がヘイトクライムによって殺され、その双子の姉妹がテロリストになって日本社会全体に復讐するという物騒な話だが、ある意味説得力のある作品だった。
ジニは自らを「革命家の卵」と規定するのだが、日本の地における金父子への反乱は、あくまでバーチャルなたたかい、それは極端な話、ゲームソフトの中のたたかいと変わらないかもしれない。ハリウッドでの金正恩の首が飛ぶエンタメ映画が物議を醸したが、それほどまでに現実にコミットすることもない。
ジニは現実には学校側によって処分―退学、そして精神科への入院も学校側の手配によるものかもしれない―は受けたのだが、本国なら間違いなく公開処刑だから、この落差は大きすぎる。
そして、「事件後」の顛末も述べられなければ、ジニのその後の精神的葛藤の変遷も述べられない。
突如としてアメリカへ飛ぶ。そして具体性のない記述の果てに、ある種の「救済」を得る。
パズルを解く唯一の手がかりといえば、断片的に挿入される北朝鮮へ「帰国」して死んだジニの祖父からの幾通かの手紙だが、それこそばらけたピースのままだ。

日韓、日朝を超えて羽ばたく
日本人の父親とニューカマー韓国人の母親の間に生まれた私の娘は、作者とひと世代も歳が離れていないが、作者とは全く異なる人生を歩んできた。彼女も幼少期から自分に韓国人の血が流れることを隠すことなく日本社会で生きながらも、それと意識するような差別を受けることもなく育ち、2年半の韓国生活で韓国語も身に付け、おまけに英語も韓国語以上に堪能になった。日本語で母親と話すときはママだが、韓国語で話すときは自然にオンマとなる。サッカー日韓戦ではいつも熱烈に日本チームを応援するが、竹島問題では日韓共同管理にして仲よく資源を分け合えばいいではないかと小学生の時、新聞に投書した。
私自身も、若い頃は「贖罪派」に近い意識を持っていたが、3年間韓国に暮らし、韓国のおかしいところはおかしいとはっきり言える日韓関係を築かなければならないと思うようになった。そして、娘の成長を通して、今や韓国だ日本だとこだわる時代でないと思うようになった。
もちろん、在特会等のヘイトスピーチは人権問題として絶対許されないと強く思っている。歴史から目を背けてはならないとも思っている。北朝鮮の独裁体制が一刻も早く崩壊して北の住民たちに自由と豊かな生活が訪れることも願っている。
そんな私にとっても、ジニのパズルは謎が多すぎてちっともピースが埋まらない。
そういえば、娘は小さい頃ジグソーパズルが大好きで、ひとりで難なく完成させたトトロの絵は今でも額縁に飾ってある。今度娘に会ったら、ジニのパズルを解いてもらおうか。

金と労働、ロボットとAI、そしてベーシックインカムについての覚え書き [Basic income]

資本主義社会において価値を測る絶対尺度は金だ。そしてそこから、労働は義務であり善であるという倫理観が導き出され、その両者が結びついて「働かざる者食うべからず」の規範が絶対化される。
しかし、詳しく分析すると、金と労働との関係は必ずしも整合性があるわけではない。世の中では、働いて得た金だけが尊ばれるわけではなく、詐欺や恐喝など犯罪によって得られたものでない限り、どんな手段によって得られたものであれ、金を得て経済的に自立している者が「一人前の社会人」として認められる。たとえそれが親の遺産であっても、それを管理する会社の代表取締役にでも納まれば、彼は非難されない。
一方、同じ労働であっても、ある場合は金と交換され、他の場合は無償労働とされることもある。寝たきり老人の介護であっても、介護士の資格のある者が他人の介護をすれば賃金を得られるが、実の子どもや息子の妻の介護は無償だ。だからといって、必ずしも介護士の介護が身内の介護より被介護者にとって心地よいものとは限らない。
あるいは、プロの作家の作品は出版社から原稿料や印税を得ることができるが、アマチュア作家の作品は無償で同人誌に掲載され、作者がその雑誌の同人なら制作費さえ負担しなければならないだろう。だからといって、プロの作家の作品がいつもアマチュア作家の作品よりいいとは限らず、アマチュア作家の作品がより多くの読者の感動を呼び起こすこともあるだろう。
単に善意で砂浜のゴミ拾いをしても1円の得にもならないが、「きれいな砂浜プロジェクト」を立ち上げて個人の寄付や企業の賛助金を募れば、ゴミ拾いも金になる。
その国でプロ興行のあるメジャーなスポーツに子どもの頃から打ち込み実力を磨いた選手は、大人になってもプロの選手として金を稼いでスポーツを全うできるだろうが、その国でマイナーなスポーツに取り憑かれた子どもは、大人になってそのスポーツを続けようとすれば、アルバイトでお金を稼ぎながらでなければそれを全うできない。たとえプロ選手が二流で、アマ選手が世界に通用する一流アスリートであったとしても。
そんな社会で、無償の労働がいちおう労働として評価され敬意を表されうるのは、家事労働くらいかもしれない。
また、朝から晩までパチンコ屋に入り浸ってお金を浪費する者は、社会から白い目で見られ指弾されるが、彼らから年間20兆円も巻き上げているパチンコ産業は”立派な”産業であり、そこで働く従業員が非難されることもない。
あるいは、特定の土建業者に公共事業がいくように斡旋することを仕事と心得ているような議員が、世間から「先生、先生」と崇められ、高額の報酬を得ている。
一方で、基幹産業の製造業の生産ラインで流れ作業に携わる派遣労働者は、毎月生きていくのが精一杯の金しか稼げず、基幹産業の孫請け企業の労働者は、世界に誇る職人の腕前でも、親会社の景気や為替に左右され賃金遅配も珍しくなく、たまにボーナスが出ればラッキーな状態だ。

そんななか、今後10~20年以内に、ロボットやAIが人間労働の半分を代替するともいわれている。そうなったら、生半可な失業対策では対処できない。いや、ロボットによる労働の代替はますます進んでいくのだから、もはや街に溢れる失業者を防ぐ手立てなどはない。
生産されたものは流通して消費されてこそ経済が成り立つ。とくに消費財は人口の圧倒的多数を占める労働者が消費することで経済が回る。その労働者の大半が失業してお金を持たなくなったら、経済は成り立たなくなる。
人間に取って代わったロボットは、人間のように労働の対価=賃金を要求しない。労働者のもとへ行っていたお金は、ますます企業=資本のもとへ集中し、金詰まり現象を起こすだろう。
その金を、何らかの形で”失業者”へ環流させない限り、経済は窒息死するしかなくなるだろう。そのためのベストなシステムがベーシックインカムであることに、富の独占者たちも気づかざるを得なくなるだろう。

もはや、「働かざる者食うべからず」の規範は放棄せざるをえなくなるだろう。それと同時に、人々は「労働とは何か?」という根源的な問いにあらためて直面することになるだろう。それは今まで、食うための手段に過ぎなかった。だが、ベーシックインカムのある社会では、それは手段から目的に転化するだろう。
金を稼げるかどうかが労働か否かを測る尺度であることをやめるだろう。ベーシックインカムのある社会では、労働の定義は自己実現とイコールになるだろう。
ある学生が卒論を書くために日本とスイスで行った意識調査によると、生活するに十二分なベーシックインカムが支給されたら何に使いたいかとの質問に、両国ともに目についた回答は「旅行」だった。今は旅行といえばレジャーか趣味としか認められないが、ベーシックインカムのある社会では、旅行は立派な仕事、旅人は立派な肩書きになるかもしれない。
思えば江戸の昔、松尾芭蕉の仕事は旅だった。ただ彼は、旅をしながら俳句を詠み、それが人口に膾炙したため、彼の名は後世に伝えられることになった。ベーシックインカムのある社会では、無数の旅人たちの中から、後世に残る画家や写真家、エッセイスト、小説家等が生まれることだろう。

だが、ベーシックインカムのある社会で重要なのは、人が優れた仕事をするかどうか、多くの人々に認められる仕事を残すかどうかにあるのではない。人はただ、生まれてくるだけで生きる意味がある。現在では価値を生まない=労働のできない「福祉の対象」、「社会のお荷物」とまで蔑まれている人々も、生きているだけで意味があり、それどころか何らかの労働をなすだろう。その労働は、家族を和ませることかもしれないし、誰かに愛され、あるいは誰かを愛することかもしれない。いや、周囲の人々を怒らせたり、反発を引き起こし、そのことによって何らかの問題を提起することかもしれない。
ベーシックインカムのある社会では、今までとうてい労働と思われなかったようなことが労働になる代わりに、今では立派な労働であり、その労働によって成り立っているいくつかの「産業」が、消えていくか、規模を大幅に縮小することだろう。毎年のようにモデルチェンジする商品。ゴミとして捨てられるほど生産される食品。ただ時間を埋め広告収入を得るためにだけ制作されるテレビ番組。毎日雨後の竹の子のように登場するゲームソフト。年々増えていく新たな「病名」とそれを”治す”新薬。保険業。教育産業。そして「公共事業」……手段と目的が逆転し、成長のため、金のために無理矢理つくりだされてきた仕事と産業自体が、もはやゴミ箱行きだ。
その最たるものが原発だろう。だが、こればかりはゴミ処理に何百年もの歳月を要することだろうが……。
そして、ベーシックインカムが世界的規模で実現したとき、テロという仕事、戦争という産業も消滅することだろ。

スイス・ベーシックインカム国民投票の成果と課題 [Basic income]

無条件ベーシックインカムに向けた世界的な一歩:ありがとう、スイス!

(原題: La marche mondiale vers le revenu de base : merci à la Suisse !)


「国民投票は失敗に終わったが、この無条件ベーシックインカムに向けたスイスのイニシアチブは、その実現に向けた避けられない展開の中で重要な前進であったととらえられなければならない。」と、BIEN(Basic Income Earth Network)の創始者フィリップ・ヴァン・パリースは明言する。
フィリップ・ヴァン・パリースはUCLouvain(ルーヴァン・カトリック大学)の経済と社会倫理学の正教授だ。BIEN国際委員会の一員でもある。

 2016年6月5日は、無条件ベーシックインカム制度の実施に向けた展開の前進を刻印することになるだろう。
 すべてのスイス国民は次の提案に賛成するか、反対するかの意を示すことが求められた。
1.スイス連邦は無条件ベーシックインカムを導入する。
2.無条件ベーシックインカムはすべての人が受ける資格が与えられなければならない。
3.無条件ベーシックインカムの財源調達と総額は、法の定めるところによる。
この提案は、76.9%の反対票と23.1%の賛成票で否決された。どうしてこの否決という結果は前もって予測可能であったのか? また、どうしてこれが前進といえるのか?

0から23%に
 これらの疑問に答えるために、それまでの簡単な流れの説明が不可欠である。2008年に、ドイツ人映画監督であるEnno Schmidtとスイス人実業家Daniel Häni(2人ともバーゼルに拠点を置いている)が、Grundeinkommen: ein Kulturimpuls という試験的映画を制作し、無条件ベーシックインカムの単純で魅力的なヴィジョンの紹介を可能にした。この映画のインターネット上での普及は、2012年4月に始まった上記の提案のイニシアチブのための土俵を用意するという意味で役立った。
 2010年5月には、また別のイニシアチブが提案されていた。再生不可能エネルギーへの税金のみによって財源調達された無条件ベーシックインカムについてのイニシアチブであったが、必要数の署名を集めることに失敗していた。2012年のイニシアチブの創始者も、初めは映画でも説明されていたようにTVA(付加価値税)による財源での無条件ベーシックインカムを提案することを考えていたが、支持者が減ってしまうことを恐れてその考えを放棄した。彼らは同時にはっきりとした支給額についても投票を行わないことを選んだ。しかしながら、彼らのインターネットサイトでは、「尊厳をもって生活し、社会活動に参加するため」にスイスで必要な額として、成人一人当たり2500CHF(約2280€)、未成年一人当たり625CHF(約570€)を最も適切な解釈であるとしている。もし、イニシアチブが18か月で10万人分以上の署名を集めることができれば、連邦議会とスイス政府は国規模での投票を行うことが義務付けられる。もし過半数の賛成票が得られれば、国の決定機関は3年以内にその文書を適用するか、創始者たちと対案の交渉をしなければならない。
 2013年10月4日、(イニシアチブ)のリーダーたちは、内閣事務所に12万6,404の目を見張るような署名を提出した。2014年8月27日、署名の認定と主張の審査の後、連邦議会はこれの反対案を出さないままこのイニシアチブを却下した。彼らの見解によると、「無条件ベーシックインカムは経済、社会保障制度、そして社会の団結力に悪影響を及ぼすであろう。特に、このような制度への支出は国税負担の著しい増加を引き起こすことになるだろう。」ということであった。
 この提案は、続いてスイス国会の両院に委ねられた。2015年5月29日、国民議会(Conseil National )の社会委員会(Commission Sociale )は、19票の反対票と1票の賛成票、そして5票の棄権票をもって、無条件ベーシックインカムは却下されるべきであると勧告した。全員出席の会議でのより突っ込んだ議論の後に、2015年9月23日、国民議会は予備投票にとりかかり、146票の反対票、14票の賛成票および12の棄権票をもって、その否定的な推奨を認可した。2015年12月18日、今度は全州会議(conseil d’État)(各州の代表によって構成されるスイスの上院)がこのイニシアチブについて検討し、40票の反対票、1票の賛成票と3票の棄権票でそれを却下した。これと同じ日に、この提案は国民議会で、二度目で最後の投票の対象となり、157票の反対票、19票の賛成票と16票の棄権票を得た。
 これらのすべての場合において、極右政党、中道右派及び中道政党のすべての代表はこの提案に対して反対票を投じた。賛成票と棄権票は、社会民主党と緑の党によるものであったが、これらふたつの党は内部で意見が大きく分かれている。国民議会の最終投票では、15人の社会主義者たちが賛成、13人が反対、13人が棄権すると同時に、緑の党のうち4票が賛成、5票が反対、3票が棄権票に投じられた。このようにして支持率は、連邦議会で0%、全州議会(上院)で4%、国民議会で4%、8%、10%(それぞれ、審議会、1回目、最終投票)という具合に変動した。
 2016年6月5日の国民投票に関しては、(社会主義政党を含む)ほとんどすべての政党の国民の指導者たちは、投票で「反対」することを推奨した。賛成票を投じることを勧めていた政党の例は、3つの言語地域に分散した一定数の社会主義政党と、州と統合した緑の党と、(ほとんど議席のない)海賊党だけであった。

 この文脈からいうと、「反対派」が勝つことは完全に予測可能であった。4票に対し約1票の「賛成票」が集まった実際の結果(最も多かったところの代表例を挙げると、ジュネーブが35%、バーゼルStadt州で36%、ベルンの市街地で40%、そしてチューリッヒの中央地区では54%であった)は、スイス国会での(事前)投票結果から推測できたものとはかけ離れたものであった。
 また、スイスはヨーロッパの中でも無条件ベーシックインカムの支持を得られる可能性が最も低い国であるかもしれないということを、われわれは忘れてはならない。それは、この地でカルヴァン主義的な労働倫理が深く根付いているからという理由のみならず、特に他のヨーロッパの国々に比べて失業率や貧困率が低いことを考慮に入れたうえでのことである。

スイスで、そしてスイスを越えて:集い、経験を得る
 このイニシアチブは最初の段階で署名をした人々の分よりわずか2.5%増の票を得ることしかできなかったが、リーダーたちの忍耐力と彼らの非常に印象的な伝達能力のおかげで、これが絶大な成果をあげたということに、今やみんなが気づいている。スイス国民は、ここ4年内でどこの国民よりもこの提案の利点と欠点を調べ、広く議論した。
 その効果はスイス国内にとどまらなかった。国民投票の前日、「エコノミスト」、「ウォールストリートジャーナル」、「フィナンシャルタイムズ」、「ニューヨークタイムズ」、「ガーディアン」、そして世界中の数えきれないほどの新聞が、無条件ベーシックインカムがいったい何であってこれが何を象徴するのかを述べる記事を載せていた。それまではおそらく、ベーシックインカムに関してメディアがこれほどの時間とページを割いたことはなかっただろう。そしてこのスイスのイニシアチブは、この考えの流布に大きな拍車をかけたばかりでなく、この考えに関する議論の成熟にも大きく貢献しただろう。
 この経験からひとつの教訓が浮かびあがる。もしひとつの提案が、財源調達について詳しく述べることなくベーシックインカムの高い支給額を規定すれば、その提案は簡単に国民投票にこぎつけるために必要な署名数を集めることができる。しかし、大多数の投票者(今回の場合は46%の有権者)はある日意見を変えてしまう可能性がある。そしてそんな彼らを再び集めるために骨の折れる作業をするしかなくなる。最初の段階の方向を示すための輝く星は足りているが、すべてうまくいくためには、地上に見える標識と道しるべと安心できる交通路が必要であるのだ。
 ともかく、私はスイスの議論に加わるよう招待され、そこで私は手短に、2500CHF(約2280€)、あるいは一人当たりGDPの38%の額の個人へのベーシックインカムは政治的に無責任であるということを主張した。もちろん、このクラスの無条件ベーシックインカムが財政的に実現不可能であるとは誰も証明できないことは確かだ。しかし、証明できないほどに実現性がない。
 さらに、このレベルの無条件ベーシックインカムの経済的持続性が、現在満足のいっていない多くの前提条件、中でも新しい形の税金の導入―例えば、eペイメントへの小規模課税など―を想定に入れるであろうと考えることは的外れなことではない。同様に、脱税に対する国際的な協力もスイスでの議論のおもしろい争点になり得る。脱税に対するたたかいはスイスの弱点でもあるからだ。
 この提案はささやかではなく象徴的な進歩を意味するということをよく理解しなければならないが、同時にこの提案は近い将来、より学ばれ、討論されるであろうし、されるべきである。より弱いレベルでの無条件ベーシックインカム(例えば一人当たりGDPの15または20%ほどのもの)を適用することは、収入条件付きの手当金や住宅補助をそのまま残すことを意味する。それは無条件ベーシックインカムがそれ自体だけでは「すべての人口が尊厳を持って生活できる」基準に満たないからではなく、むしろ無条件ベーシックインカムが安心感と交渉権、そして選択の自由を私たちの中でも最も弱い人々に与えることになるからだ。
 短く言えば、このようなベーシックインカムを導入することは決定的に経済的に実現可能である。これを政治的に実現可能にできるかどうかはわれわれにかかっている。
 前代未聞のスイスでのイニシアチブは、21世紀に直面しなければならない挑戦の特徴とその規模、そしてそれらとたたかうためにベーシックインカムがどのように助けになるかということに、多くの人々の関心を高めたばかりではない。時に素朴で時に的確な反論を引き起こしながらも、このイニシアチブはベーシックインカムの擁護者が彼らの主張を磨き上げ、より現実的な次のステップを描くための助けにもなった。
 これらすべての理由から、多くの時間とエネルギー、そして賛成促進キャンペーンのための想像力などを費やしてきたスイス国民は、ベーシックインカムへの世界的な運動からだけでなく、より広く、自由な社会と健全な経済の実現のためのすべてのたたかいから、熱烈な感謝を受けるに値する。
フィリップ・ヴァン・パリース(Philippe Van Parijs)
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Adaptation française : Barbara Carnevale
フランス語翻案:Barbara Carnevale
翻訳:ami.s
原文↓
http://revenudebase.info/2016/06/14/marche-mondiale-revenu-base-merci-suisse/

民進党 蓮舫代表、山尾志桜里幹事長に期待する! [Politics]

9月の民進党代表選に蓮舫氏が出馬を表明した。先の都知事選で名前が挙がり、もし出馬していたら小池百合子を破って都知事になっていた確率が高かったろうが、それを蹴って満を持しての代表選出馬と思われる。

無残な野党の敗北
私は先の参院選に先立ち、野党共闘では改憲勢力の3分の2は阻止できない、安倍を倒すことができるのは市民新党の結成だけだと主張してきたが、不幸にもその予測の前半は的中してしまった。後半については、小林節氏が孤軍奮闘して「国民怒りの声」を立ち上げたが、笛吹けど踊らず、不発のまま期待外れの結果に終わった。そして、唯一希望の星であった三宅洋平の選挙フェスも、覚醒した市民の動員力こそピカイチだったが、サイレントマジョリティとの断絶甚だしく、残念な結末を迎えた。彼が山本太郎と夢見た日本版ポデモスの結成も露と消え果てた。
そして迎えた都知事選は、野党共闘の無残な敗北をもたらした。鳥越俊太郎は遠くサンダースの足下にも及ばず、対する小池百合子はカネの汚さだけはヒラリーばりだが、内実は日本のトランプに近い。海外の右翼ポピュリストは正直に自分の思想・意見を吐露し、大衆を扇動するが、日本のそれは本心をひた隠し、もっぱらイメージで勝負し、有権者はそれに踊らされる。
恐らく安倍晋三は、18年末までの衆議院の任期を最大限に引き延ばして、その間に緊急事態条項の”お試し”改憲に打って出てくるだろう。そしてそれが通れば、維新の道州制や公明の環境権とかを取り込みつつ、自民改憲案も妥協するふりをしつつ、国防軍創設家族条項など、押さえるところはしっかり押さえた全面改定案を提示し、乗り切る作戦だろう。
その間、時間との勝負で、勝てると踏めば任期途中での衆議院解散を仕掛けることも十分ありうる。

選挙は祭りだ
そうしたとき、次の衆議院選で野党が勝利し、安倍を退陣に追い込む可能性は1%でもあるのだろうか? 改憲は安倍が目論むほどスムースにいくとは限らない。”お試し改憲”以前の総選挙も考えられる。いずれにしろ、次の総選挙で野党が惨敗すれば、日本の議会制民主主義はその時点でシャットダウン、強制終了を迎えることになると覚悟を決めなければならない。次の総選挙が今までのように自由にたたかえる最後のチャンスということだ。
野党共闘もダメ、市民新党もだめ、日本版ポデモスも、三宅洋平が100人、山本太郎が200人起てば可能だろうが、残念ながら彼らは1人ずつしかいない。だったら、残るはいくら色褪せ手垢にまみれていようと、野党第一党の民進党に期待する以外、現実的な道はなかろう。
ただ、今までのようなやり方では絶対に選挙に勝てない。野党共闘に統一名簿をプラスしても勝てない。発想そのものを変えなければならない。
三宅洋平がいう「選挙は祭り」というのは確かに正しい。日本に限らず、世界共通に、選挙は祭りだ。いくら政策だ、有権者の冷静な判断だなどと宣っても、選挙の帰趨を決するのは、政治家の扇動とそれになびく国民の情念だ。2009年の民主党の政権交代だって、「漢字の読めない首相」、「自民党賞味期限切れ」というマスコミの煽りがあり、その流れに乗った民主党が、マニフェスト政権交代というイメージ選挙に勝利しただけだ。そして、その各党のマニフェストをまともに読んだ国民が、果たしてどれだけいただろうか?
選挙はしょせん祭りだ。立派な神輿、派手な山車をしつらえ、そこに見栄えのいい御仁が担がれる。それを多くの人々が担いだり引いたりして神輿同士、山車同士が激しくぶつかり合う。それを見物する観衆が興奮のるつぼに包まれ、ひいきの神輿や山車に加勢する。
中にはリオのカーニバルのように、国中が興奮のるつぼに包まれる祭りもあるが、このところ日本の祭りはずっと低調を極めている。魅力的な神輿や山車がめっきり減ったからだ。祭りじゃなくてまるで葬列のようだ。こんな祭り、誰も見に来やしない。一部の祭り好きは一生懸命神輿を担いで盛り上がるが、一般の人々は家にこもってシラけているだけだ。

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国政へ女性の大量進出を!
民進党の代表選に蓮舫氏が起つという。またとない民進党再生のチャンスだ。なんせ、彼女は都知事選に立候補していたら小池百合子に勝ち得た唯一の人物だ。これ以上の神輿はいない。前原誠司氏は「時流が私を求めているかどうかも踏まえ判断」するなどと言っているが、誰もあなたを求めていない。リベラルの枝野幸男氏もダメ。官房長官時代の「直ちに影響はない」があなたに一生ついて回るだろう。ここは蓮舫擁立で党内がまとまるべきだ。
そして、幹事長には是非とも山尾志桜里氏を大胆に起用してもらいたい。これで国民の民進党に対するイメージが180度変わるだろう。
次は選挙戦略だ。まず是非ともやってほしいのが、候補者の4割は女性にすること。もちろん女なら誰でもいいわけじゃないのは、新内閣の閣僚を見れば一目瞭然。擁立過程で、思想・信条、政治へかける情熱等、しっかり見極めなければならない。そして、選挙公約にクォーター制の導入を掲げること。有権者の半数は女性だ。これで彼女らを味方につけよう。
それから、当然思想・信条、政治へかける情熱が前提になるが、著名人も積極的に擁立してもらい、比例区に立てて集票マシーンになってもらう。この国の著名人は、自ら新党の下に立ち上がる意気地などないが、既成政党から声がかかればホイホイ応じる人はけっこういるだろう。ましてや民進党執行部が腹をくくり、必死で出馬を要請すればなおのこと。そういう人も、当選したらそれなりの役割を果たしてくれるだろう。少なくとも、どこかの党の頭空っぽタレント議員たちより、よほどよい仕事をしてくれると思う。
さて、これで見栄えのいい神輿と担がれ役たちが整った。そうしたら、この間の国会内外のデモや選挙で培ってきたコアな市民を結集して担いでもらう。
あとは威勢のいいかけ声だ。シンプルなほどいい。蓮舫! 蓮舫! 多くの女性を国会へ! 蓮舫! 蓮舫! 庶民の手に政治を取り戻せ!
踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損、損! 選挙に行かなきゃ損、損! そうして祭りを最高に盛り上げよう。
その結果、議員に占める女性の割合が劇的に増加すれば、自ずと政治もいい方向へ変わっていくだろう。なんせ、日本の国会議員に占める女性議員の比率ランキングは100位をはるかに下回り、報道の自由度ランキングどころの騒ぎではない。日本の政治の腐敗、堕落、政治家の質低下、国会の幼稚園化の主な原因も、まさにここにこそあるのだから。