So-net無料ブログ作成

「「医療用医薬品の添付文書情報」記載を求める運動」の成果が出ました! [Anti-psychotropic drugs]

今から2年以上前にこのブログで「処方薬局の「お薬情報」に「医療用医薬品の添付文書情報」記載を求める運動を!」という記事を書き、多くの方から共感や賛同をいただきました。(http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2014-08-18)私はその後も、新しい処方薬局へ行くたびに、この「ひとり運動」を実践してきましたが、どこも話は丁重に聞いてくれるものの、その後、私の意見を取り入れ、「お薬情報」に「医療用医薬品の添付文書情報」について記載してくれる薬局はありませんでした。唯一嬉しかったのは、ある薬局で薬をもらうとき、いつものように「お薬情報」の紙を見ながら要望を述べようとしたところ、すでに「医療用医薬品の添付文書情報」についての記載がURLとともに載っていたことがあったことです。薬局の主人に尋ねると、「岡山県の薬局では、どこでも載せていると思いますけど」と言うので、「いや、私の知る限り、ここで2件目です」という話になり、主人は「明日、用があって県の薬剤師会に行く予定なので、確かめてみましょう」ということになりました。
その薬局へはその後行っていないので、薬剤師会の方がどうなったかは分かりませんが、私の知る限り、状況は変わっていません。
そんな中、事情があって、いつも向精神薬をもらっていた薬局を別の薬局に変えたので、新しく行った薬局でいつものように申し入れをしようとしました。その薬局はチェーン店なので、薬剤師に、できれば本社の責任部署に話をしたいと言ったところ、薬局長という人が出てきて、「私から申し伝えましょう」と言うので、自分が薬害被害者で、現在も薬を完全に止められずにいること、もし16年前にこのような情報が提供されていれば、私は薬害に遭わずに済んだだろうこと、「医療用医薬品の添付文書情報」を提供することは処方薬局としての最低限の情報提供義務だというようなことを述べると、いたく納得した様子で、「さっそく担当部署に伝えましょう。その結果は必ずお伝えします。」という回答を得ました。
そして、その翌日さっそく薬局長から電話があり、「確かに本社の方に要望を伝え、自分からも善処を求めました。また連絡します」と言うので、「いえ、来月もまた薬局へうかがいますから、その時に聞かせていただければ結構です」と答えた次第でした。
そして今日、4週間ぶりに処方箋を持ってその薬局を訪ねると、薬局長は不在だったものの、別の薬剤師が新しい「お薬情報」を示したのでした。私は感激し、「薬局長さんにもぜひお礼を言っておいてください」と言って店を後にしました。

お薬情報.jpg

近いうちに、私は、今度は要望書を携えて、岡山市と岡山県の薬剤師会の責任者に面会を求め、正式な申し入れをしようと思っています。皆さんも、ぜひこの「ひとり運動」の輪を広げましょう!
ちなみに、この薬局は、岡山県に21店舗、広島県に2店舗、香川県に4店舗、兵庫県に1店舗、あわせて28店舗(うち4店舗は調剤専門)で調剤部門を開設しているザグザグ(ZAG ZAG)です。[http://www.zagzag.co.jp/



精神科、心療内科という言葉自体のいかがわしさ [Anti-psychotropic drugs]

病医院には看板に掲げる標榜科というものがある。以前は内科、外科、眼科、皮膚科など比較的単純だったが、2008年に法律が改正され、少し複雑になった。それによると、①上記のように単独で標榜できるもの、②内科、外科、歯科に以下の4つの属性を組み合わせて標榜するもの(1.臓器や身体の部位、2.対象とする患者の特性、3.診療方法、4.症状、疾患)、③ ①、②のいずれも可能なもの(精神科、アレルギー科、リウマチ科、小児科等々の場合)
②の1.は例えば胃腸外科、心臓内科等であり、2.は小児外科、女性内科等、3.は漢方内科、臓器移植外科等、4.は感染症内科、糖尿病内科等、といった具合だ。
いずれにしろ、②の「内科」「外科」という大きな括りの下の4つの属性はある程度合理的であり、大部分の標榜科はその名を見れば何を治療する医療機関かがおおよそ見当がつくだろう。
しかし、してみると、精神科心療内科だけは、②の4つの属性のいずれにも当てはまらないように思われる。そもそも精神とは何か? 心療とは何か? 精神という言葉は辞書に載っているが、心療という言葉は「心療内科」という複合語以外に、単独では意味さえなさない。そして、どちらも臓器でも身体の部位でもなければ、診療方法でも、症状でも疾患でもなく、ましてや患者の特性ではありえない。
「精神」とは「肉体」とか「物質」の反対語であり、「心療」の「心」も精神と同様で、実体のないものである。つまり、現代医療の対象ではないのではないか、という根本的疑念がわき起こる

精神分析学派と生物学的精神医学
ここで、精神医学あるいは精神医療の歴史を簡単に振り返ってみよう。
近代西洋医学が成立して以降も、「心の病」は一般的に理解不能なもの、治療困難なものとして、医療の対象というよりも、社会防衛治安維持の対象-つまり、何を考えているか、何をするか分からない危険な対象なので、社会から隔離して施設に収容する対象と捉えられてきた。明治時代の瘋癲病院、精神病院も、まさにそのようなものとして存在し、欧米先進国を中心に、第二次世界大戦後、患者の人権擁護の観点から精神科病棟の開放化が図られて以降も、日本だけは異常に多い精神科病床と異常に長い在院日数が今日に至るまで継続している。そして、その多くを占める統合失調症患者は、未だ「一生直らない病気」という神話のもとに、治す対象としてではなく、管理しやすいように拘束したり、おとなしくしておく目的のために薬を投与されている。医療従事者のみならず、社会一般の「精神障がい者」への差別と偏見がそうした人権侵害を許しているのだ。例えば、今年7月に起きた相模原事件では、容疑者が「精神障がい者」かどうかの検証もなしに、措置入院制度の強化が、あたかも事件の再発防止策であるかのように語られ、検討されている。あんな凶悪で異常な犯罪を起こすのは「精神障がい者」に違いないから、隔離・収容を強化しなければならないという偏見・差別が、アプリオリの前提となっているのだ。
一方、精神医学、精神医療の歴史には、これとは異なる流れ、つまりフロイトによって創始された精神分析に始まる精神療法、心理療法というアプローチが存在する。つまり、精神や心理、心のあり方を分析し、患者の傷ついたり偏ったり弱ったりした心の有り様を改善して、治していこうという方法論である。しかしこれは、病気の原因を特定し、対症療法であれ根本療法であれ、物理的にそれを治していこうという西洋医学の方法論とは根本的に異なり、むしろ文系の心理学の系譜に属する方法論だ。
アメリカを中心に、20世紀末まで、精神分析派の精神医学が一定の勢力を占め、日本でも戦前から精神分析以外にも、森田療法の神経症治療など、独自の精神療法も編み出され、影響力を持ってきた。
ところが、第二次大戦後、アメリカを起源として、精神疾患を「脳の病気」と捉え、身体疾患と同様に薬物療法中心にアプローチする生物学的精神医学が勢いを増し、今日、日本の精神医療も完全にこの生物学的精神医学が席巻している。
もちろん、精神疾患が脳の病気として病気の原因が特定され、その病因に対する、対症療法であれ根本療法であれ、有効な治療法が確立され、患者が完治するなら、なんら問題はない。ところが実際には、いかなる精神疾患も、未だその原因が特定されず、推定の域を出ていないにもかかわらず、何故か結論部分の薬物療法だけが絶対的治療手段を装って患者に施されている。その結果は、一時的な改善は見られても、中長期的にはむしろ症状が悪化し、様々な副作用を招来している。
もし精神医療が本当に「脳の病気」と確信を持って断定できるなら、精神科とか心療内科などという胡散臭い名称を捨て、はっきり脳内科を標榜すればいいだろうが、彼らにその自信は微塵もない。
一方の精神療法、心理療法はといえば、精神科に通院すると「精神療法費」が点数にカウントされるが、それは精神分析とか認知行動療法とか呼べるようなしろものでは全くなく、「どうでしたか?」と問い、「変わりありません」と答えれば、「じゃあ、今のお薬を続けましょう」、「ちょっと具合が悪いです」と言えば、「じゃあ、お薬を増やして様子を見ましょう」と、オウムでも答えられそうな「療法」で何千円も稼ぐという、医者にのみおいしい話に過ぎない。精神科医、心療内科医の大半は、きちんと精神療法を学んでもいないので、まともなカウンセリングができるはずもない。なかには、医師自ら、あるいは臨床心理士等を使ってカウンセリングを併用している医院もあるが、あくまで薬物療法が主であることに変わりはない。
精神医療を否定する人の中には、精神療法まで完全否定する人も少なくないが、私は自身の経験からも、精神療法の効果は認める。昨年、公認心理師法が成立し、「公認心理師」が国家資格となり、今後、公認心理師が心理検査、カウンセリング、心理療法などを行うようになる。理系の医学とは異なり、文系の心理学の系譜に属する。
公認心理師は、臨床心理士等の民間資格に代わるものだ。しかし、公認心理師法第42条2項には「公認心理師は、その業務を行うに当たって心理に関する支援を要する者に当該支援に係る主治の医師があるときは、その指示を受けなければならない。」とある。これは、精神科や心療内科に通院中の患者が、独立した公認心理師の機関を訪れた場合にも、精神科医や心療内科医の治療方針に背くことができないというとんでもない条項だ。また、現状では、精神科、心療内科に雇われて行う「医療行為」には保険が適用されるが、独立機関の場合は保険適用外となる可能性が高い。私はこの42条2項を撤廃すると同時に、鍼灸治療への保険適用のように、独立した機関でも保険適用が受けられるようにすべきだと思う。ただし、同意書を受ける医療機関は精神科、心療内科に限らず、内科等、広く認められるべきだ。
私は、「心の病」はこれから、(精神)医療から独立した公認心理師が支援していくべきだと思う。確かに、私の経験からいって、向精神薬の中にはパニック状態の患者に対症療法的に即効性を持って効く薬もあるので、頓服的に、例えばパニック状態の患者の沈静化、統合失調症の患者の急性期の症状の緩和などに用いることを全面的に否定しようとは思わない。あるいは、重篤な統合失調症患者や大うつ病患者などの診断に長けた小数の「精神科医」の存在は当面必要かもしれない。(大多数の精神科医や心療内科医は的確な診断が下せず、誤診が日常茶飯だ。)そうした医師も、全国の総合病院にひとりふたりずつは必要だろう。
だが、大部分の「心の病」を抱えた患者は、国家資格を持つ公認心理師法の心理検査、カウンセリング、心理療法などで十分回復が可能なはずだ。あるいは、不十分な面は漢方医や漢方薬局、栄養士などとの連携で解決していけばいい。
そして、医療の分野からは、精神科、心療内科といういかがわし名称の標榜科をなくすべきだ。精神医療の根本的解決法、最終目標は、精神医療という概念を医療の分野からなくすことだ。



さようなら、朝日新聞。45年間、どうもありがとう! [etc.]

僕は小学校4年生頃から、毎日、新聞を読むことが習慣になった。新聞は僕にとって知識の源泉であり、同時に社会や世界に対する関心や批判精神を育んでくれた。うちの父親は保守的な人間だったので、当時取っていた新聞は読売だった。それを、高校生になった時、僕が朝日に代えさせた。以来45年間、学生時代は地元紙となった北海道新聞と代わる代わる取ったり、3年間の海外生活中はご無沙汰したり、すごく恐ろしげな勧誘員に欺されて半年間読売を取る羽目になったりしたことはあったけれど、残りの期間は休刊日を除いて、日々、朝日抜きの生活は考えられないほど、朝日新聞は僕の日常生活に溶け込んでいた。もしかしたら、期間の長さからいって、長年連れ添った連れ合いよりも、実の親よりも、朝日新聞は私にとって身近な存在だったかもしれない。
2011年3月11日の東京電力福島第1原子力発電所の放射能爆発事故の時、Twitter上ではさかんに「東京新聞を読もう!」とつぶやかれていたが、僕の気持ちに変わりはなかった。それはひとつには、その年の8月からデジタル朝日に変えたばかりで、再び紙の新聞を読む気にはなれなかったこともあったが、それ以上に、僕にとって新聞は、情報源であり、それをどう自分に活かすかは読み方の問題という、メディアリテラシーに基づく確固とした考えがあってのことだっだ。東京新聞とて朝日と同じ商業紙である以上、「脱原発機関紙」などと言われた東京新聞を有り難く拝読する風潮には、むしろメディア妄信という危うさを感じもしていた。もちろん僕とて、読売のように、3・11以降も原発推進の立場に固執する新聞など、お金を出して読む気は毛頭なかった。だが、朝日、毎日はそれまでの報道姿勢を自己批判し、その後「脱原発」の姿勢を打ち出していたのだから。中でも朝日では、その後数年間続いた「プロメテウスの罠」の連載は、その反省の真摯さが感じられたものだ。
2年前に福島原発の吉田調書と慰安婦問題の吉田証言という2つの「吉田問題」で政権にはめられて謝罪に追い込まれた時は、もっと強気に対応しないと潰されると危惧しながらも、何とか持ちこたえたかに見えた朝日を応援したいとも思った。
しかし、今から考えてみると、やはりこの攻撃を攻撃ととらえず、不用意に対処したことが命取りになったのだろう。その後、朝日の政権批判の姿勢は徐々にトーンダウンしていった。
いや、そもそも3・11で「脱原発」の姿勢を打ち出しながらも、放射能問題では徹底して権力=原子力ムラ・国際原子力マフィアの論理に立った報道に徹したこと(その典型例が同じく2014年の「美味しんぼ問題」の報道姿勢)に、朝日の限界と今日の体たらくの萌芽を見てとれる。
だが、2年前には朝日も、政権の不祥事にはけっこうストレートな批判を展開していたものだ。高市早苗、麻生太郎、石破茂、石原伸晃らの「失言」を大きく報じて、厳しい姿勢を示していたのだから。もっとも、この年には松島法相が「うちわ問題」で辞任しているから、まだ政権の「自浄作用」(小渕優子もそうだったが、ウルトラ右翼の安倍の子飼い以外は、場合によっては切って捨てるというに過ぎないが)がはたらいていたともいえる。この時、松島みどりが法をいっそう遵守すべき立場の法相であったがゆえに、「うちわ」がよけい問題にされたという面があったが、だったら責任部署の大臣である高市早苗の今回の領収書偽造と総務大臣としてのデタラメ答弁はもっと許されないレッドカードものであるはずだ。
そもそも、歴代政権で辞任や罷免に追い込まれた大臣は枚挙に暇ないが、今回の白紙領収書偽造問題ほど分かりやすく、責任逃れできないスキャンダルもそう多くはないだろう。しかも、全く同様の問題が富山市議会で起きており、そちらは一地方議会の問題であるにもかかわらず、連日マスコミが報じ、議員の大量辞職、補欠選挙という事態に発展しているのだ。2012年以前の戦後のいかなる内閣に照らしても、新聞・テレビが、内閣のこの不祥事を連日取り上げれば、規模の大きさからいって、単なる数名の大臣辞職にとどまらず、内閣総辞職へと発展してしかるべき問題だ。
それが、昨年の官邸による一斉「ローラー作戦」で壊滅させられたテレビ各局はもちろん、主要紙でも一面で取り上げたのは東京新聞のみというていたらく。朝日も政治面ですらない、いちばん最終の社会面トップの扱いだ。
蛇に睨まれたカエルか、官邸の何がそんなに恐ろしいのか知らないが、権力の暴走をチェックする機能、権力批判の役割を放棄した新聞には一文の価値もない。良きにつけ悪しきにつけ、マスコミは世論をリードする役割を果たしてきた。そのマスコミがひたすら政権の顔色ばかりうかがい、忖度した記事しか書かなくなったら、権力は独裁化するばかりで、その独裁者が自壊するまで、政権は長期化するしかなかろう。

閣僚10名.jpg

白紙領収書疑惑の10人の現役閣僚と同じく菅官房長官、並びに任命権者の安倍首相


菅、安倍.jpg

朝日新聞には個人的にも知っている記者がおり、また、いい記事を書いている記者もたくさんいる。彼らには今後も頑張っていい記事を書き続けてほしい。だが、その記事を握りつぶされたり、意に沿わない記事を書かされる羽目になったら、むしろ外に出てでもたたかってほしいものだ。
僕は45年愛読してきた朝日新聞を、これ以上、毎月3,800円の購読料を払ってまで読み続ける価値がないものと判断して、今月いっぱいでの解約を申し出た。本当に残念なことだ。今後、まだ希望の持てる他紙があれば購読するか、あるいは各メデイアのネット上の無料配信記事の渉猟で満足するか、これからよく考えてみるつもりだ。
商業新聞にとってはスポンサー=広告料が第一で、その出稿元である大企業をスポンサーにする政権の意に背くことは即経営問題にも響くことかもしれないが、私のような長年の顧客をどんどん失っていくならば、中長期的に読者数の減少になり、それはそのまま広告単価の引き下げを招いて、結局、経営の根幹を揺るがすことになる。その時に後悔しても、もう立て直しは難しいだろう。そこまで考えて、朝日新聞の経営陣、編集権者には、賢明な判断を是非とも望みたいところだ。
今日の「天声人語」(83年前の曲がり角)を興味深く読んだ。1933年「ドイツではヒトラーが独裁の足場を固める。目はなぜかうつろで暗い。隣国フランスでは市民が防毒マスクの試着に追われる。」「同じ12月には「天皇家に男児誕生」の報。祝砲が鳴り、二重橋前に万歳の声が響いた。街には戦争の影があるにはあるのだが、人々は少しも深刻に見えない。鈍感なのか。あるいは政府から目隠しをされたのか。」この言葉を、朝日新聞の、いや、日本のすべての記者諸君に捧げる。


「70歳以上が高齢者」、「働けるうちはいつまでも」働き続ける「労働奴隷」 [Basic income]

「働かざるを得ない」→「働きたい」へのすり替え
 厚労省は2月にインターネットを通じて、40歳以上の男女計3千人を対象に調査を実施した。何歳から高齢者になると思うか聞いたところ、「70歳以上」が最も多い41・1%で、「65歳以上」が20・2%、「75歳以上」が16・0%、「60歳以上」が9・8%と続いた。
 65歳以上で働いている人は増え続けており、15年には744万人いた。労働者の総数に占める割合は11・3%で、1970年と比べて約2・5倍になった。厚労白書に記された内閣府の13年の調査では、働きたい年齢について最も多かったのは「働けるうちはいつまでも」の29・5%で、「70歳ぐらいまで」の23・6%が次に多かった。(朝日新聞 10月4日)
厚労省のこの調査結果が信頼に値するなら、日本人は要するに、世界にも類を見ない、死ぬまで働き続ける「労働奴隷」なのだろう。高度経済成長時代に、日本人は「エコノミックアニマル」だ「働きバチ」だと言われ続けたが、その頃の日本人(主に男)は、現役時代は家族のため、子どものために会社にすべてを捧げても、60歳で定年を迎えれば、あとは優雅に海外旅行にも出かけ、悠々自適な余生を送る人が多かった。それが証拠に、日本には昔から「隠居」という言葉があって、歳をとれば家業を息子に譲り、ジジババは孫に囲まれて子どもたちから大切にされてあの世へ旅立った。
日本経済新聞2015年8月28日付の記事によると、日本人の健康寿命は平均寿命より10年ほど短く、男は71.1歳、女75.5歳だという。仮に上述の朝日の記事に従って、70歳以上が老人で、「働けるうちはいつまでも」「70歳くらいまで」働き続けるとしたら、日本人には隠居して悠々自適な余生を過ごす時間はほとんど残されないことになる。本当に、多くの日本人がこんな一生の終わり方を望んでいるのだろうか? いくら勤勉な日本人のことといっても、私にはとても信じられない。そうだとしたら、狂気の沙汰としか思えない。
本当のところは、「働きたい年齢」ではなく、「働かざるを得ない年齢」、つまり、この国の社会保障が貧弱で老後の生活が保障されていないから働かざるを得ないという現実を表現しているに過ぎないのだろう。
そして、4割以上の人が「70歳以上」を高齢者と考えるのも、65歳定年制(実際は60歳で低賃金条件への雇用延長)が定着し、「70歳定年制」まで言われる一方、年金支給年齢が65歳に引き伸ばされ、さらに70歳への引き上げが言われているお寒い現実に誘導されてのことに過ぎないのだろう。
私も65歳になっても、生活保護水準にも満たない額しか年金が支給されないので、「働けるうちはいつまでも」働かざるを得ない境遇にあるが、死ぬまで食うに困らぬお金の蓄えがあれば、今すぐにでも金稼ぎのための仕事なんかやめてしまいたい。そして、書きたいこと、書くべきことだけを書いて暮らしたいし、旅行にも行きたい、好きなJazのライブにも出かけたい…
だって、もう十分働いてきたし、子どもも一人前になるまで育てたので、残りの人生はこれまで以上に悔いのない生き方をしたいじゃないか。これって、わがままですか?
同じく朝日の9月30日付「急に打ち切られた生活保護「また路上生活か」」という記事には、生活保護を受けていた60代の男性が「就労意欲が消極的」という理由で保護を打ち切られた話が載っている。この男性の場合は弁護士に相談して事実誤認が確認されたため保護が復活されたのだが、そうでなくても、60代(この男性の場合、持病が悪化して働けなくなった)の高齢者に「働けるうちは働け」と、最後のセーフティーネットまで締め上げる行為はあまりに非情だ。

月額12万円のBIが可能だ!
安倍政権は財政危機の原因を膨らむ社会保障費のせいにし、年金や生活保護費の削減を進める一方、アベノミクスの名の下に大規模な公共事業を行ったり、社会保障費に充てるはずの消費増税分をそっくりそのまま企業減税に使う(形式的には違うが帳尻を合わせればそういうこと)等、国民の目を欺き続けている。
だが、考えてみればいい。結婚したくても結婚できない社会、子どもをつくりたくてもつくる余裕のない社会、老人が死ぬまで働き続け隠居のできない社会は、この国の歴史を遡っても、あの狂気の戦争時代を除いてかつてなかったのではないか? 欧米の経済先進国と比べても、日本は異常過ぎる。
ヨーロッパの福祉国家では、60歳を過ぎると早期退職を自由に選べるのが普通だ。そうしても、一生心配せずに暮らしていける年金が支給される。生活保護の捕捉率が1~2割というのも異常な低さだ。それでもなおかつ認定基準を厳しくするというのだから、呆れるばかりだ。
「失われた四半世紀」によって経済的凋落の一途をたどるばかりの日本だが、まだ1人当たりGDPが世界で20位台にある。私の試算によれば、1千兆円を超える財政赤字の「積極的デフォルト」による解消と革命的に大胆な税制改革と財政改革によって、すべての国民に月額12万円のベーシックインカムの支給が可能だ。そうすれば、すべての若者が望む教育を受けられ、結婚したいときに結婚し、子どもをつくりたいときにつくれ、隠居したいときに隠居し、そして何より、夢や希望をかなえるために望みの仕事をすることができるようになるだろう。
だが、そんな希望の未来を手に入れるためには、国民の多くが、国の欺瞞に気づき、「労働奴隷」であることをやめなければならない。そして、ひとり一人が〈自分は何のために生きているのか?〉という人間としての根源的な問いかけを、自分自身に対してしてみよう!