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人を雑巾のように使い捨てる奴らに対して、卑屈になるな!人間としての誇りと自信を持とう! [Post capitalism]

最近、取引のある翻訳会社との間でこんなやりとりがあった。
チェックの依頼なのだが、枚数は4枚で単価が150円、用語の統一等にも注意とある。4×150=600円! 前処理、後処理も含めれば1時間近く潰れてもおかしくはない。私はさっそく以下のようなメールを送った。
いつもお世話になっております。
チェック料金、安くてお話になりません。
一式2千円ならお引き受けします。
それに対して一式1,000円でどうかという返事が来たので、私は次のように答えた。
一式1,200円でならお引き受けしましょう。これ以下では無理です。
お断りしておきますが、私は韓国語の翻訳をたばこ銭稼ぎ(私はたばこを吸いませんが)の内職でやっているわけではありませんので、勘違いしないでください。
どんな小さな仕事でも、中学生のお遣いじゃあるまいし、たばこ1箱でお願いしますは失礼じゃありませんか?
逆に、こちらは、1、2単語、ワンフレーズの翻訳だったら、サービスでただでやることもありますが……。
私はこの道20年、常に最高品質の翻訳をモットーに仕事をしてきました。その相手に、くれぐれも失礼のないようにお願いします。
腹立たしくてならなかった。

人を雑巾のように使い捨てる奴らに対して、卑屈になるな!
生きづらいのはあなたのせいじゃない。今の社会が狂っているのだ。そうして、あなたが卑屈になればなるほど、奴らはつけあがる。やれ解雇特区サービス残業特区だと、やりたい放題の無法地帯さえつくろうとする!
人間は1日24時間のうち8時間は眠って、8時間は働いて、8時間は自由に過ごす権利があるのだ。その貴重な権利をタダで人に譲り渡すのか? 毎月100時間もタダで奴らに与えた末に、体も心もおかしくなって使い捨てか? そうしてあなたはうつと診断され、今度は薬漬けにさせられて、挙げ句の果てに精神医療ムラの餌食にされるのがオチだ。
どうしても食えなくなったら、かなり自由を制限されるけど、生活保護を申請すればいいのだ。国は生活保護費抑制だというが、冗談じゃない。この国には生活保護水準以下で生活している人々が受給者の4倍、国民の10人に1人はいるのだ。国の生活保護費への支出は2兆8224億円、自治体の負担分を加えた事業費総額は3兆7632億円。受給資格者が全員保護を申請すれば、国費14兆円、総事業費ベースで19兆円。アベノミクスと称して10兆、20兆と大企業に大盤振る舞いできるのだから、これくらいどうってことない。もし仮に、健康で文化的な最低限度の生活を国民に保障できない国だというなら、国家としての意味がないってことじゃないのか? そんな国はいらない。こちらから願い下げだ。
社員が生活できる賃金を払えない企業もいらない。社員の人として生きる8時間の自由を奪わなけりゃやっていけない会社もいらない。こちらから願い下げだ。
会社がなくなって、国が成り立たなくなって、困るのは国民か? それとも、人が人間らしく生きられる当然の権利を正々堂々と主張して困るのは誰か? みんな、ようく考えてみよう!

ひとり一人の知恵と行動だけが資本主義に引導を渡すことができる [Post capitalism]

数日前のニュースで、眼鏡型ウェアラブルデバイスを装着したAmazonと覚しき倉庫で仕分け作業に従事する労働者の様子が映し出されていた。彼らはそれを掛けることにより、商品の仕分け先が間違いなく読み取れ、よりいっそうの作業の効率化が図られる。
そこでは人間が完全にコンピュータの道具と化している。もちろん資本主義の生産システムで人間が機械化・オートメーション化の手足となる姿は、早くも1936年にチャールズ・チャップリンが「モダン・タイムス」によって見事に描き出したが、それにもかかわらず、20世紀末にIT革命の時代に突入するまでは、人間労働は生産過程になくてはならない存在であり続けた。人間が機械のように働かされることはあっても、人間が機械に完全に代替されることはなかったのだ。

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ここが完全無人化される日もそう遠くない

IT革命のみがそれを可能にした。ウェアラブルデバイスを装着した労働者による作業はあくまで完全機械化への過渡的形態に過ぎない。Amazonの倉庫が無人化し、ロボットがより効率的に商品管理から出荷までを受け持つようになるのも時間の問題だろう。
その時、多国籍企業は世界中の富を吸い上げ、しかし、その過程に労働者が介在しないがゆえに、吸い上げられた富は多国籍企業の1%の経営者と株主のもとに蓄積され続け、99%に分配されることは決してない。

私が韓国語の翻訳者になったのは約20年前だが、当時パソコンはワープロ代わりの文字の入出力装置に過ぎなかった。その後、インターネットが普及し、原稿を紙の出力物の郵便や宅配便を通してやりとりするリアルな形態から、次第にメール(最初はNIFTYに始まり、じきにEメールが普及した)というバーチャルな手段に置き換わった。それと並行して韓国語の翻訳ソフトが商品化され、バージョンアップするにしたがい翻訳支援ツールとして使えるようになり、翻訳作業が効率化された。しかし、進化した翻訳ソフトが普及するにつれ、それは翻訳者の支援ツールであるとともに、クライアントの経費削減=合理化手段として用いられ始める。従来、翻訳会社に高い翻訳料を払って外注に出していた仕事は、安価な翻訳ソフトを導入することによってそれ以降の経費をゼロにすることが可能になった。もちろん、翻訳ソフトは未だ完璧なものでないので、公式文書の作成には人の手が必要になるが、簡単な内部文書ならば、十分間に合う。
かくして最初の合理化の波は2005年に突然訪れ、韓国語翻訳で飯を食っていた翻訳者の大半が職を失い、かろうじて生き残った私のような者も、仕事の絶対量の減少と単価の引き下げにより収入が4割方減った。そして、合理化の第2の波は2013年に訪れた。今年になって、仕事が昨年までの3分の1に減ってしまったのだ。ここ2、3年のうちに、恐らく韓国語翻訳者は壊滅状態に陥るだろう。(英語をはじめ、他言語の翻訳も時期と程度の差はあれ、同じような過程を辿っている。)
それでも私の場合は、高度成長が終わり安定成長と呼ばれる時期に大学を出て、バブル経済のおこぼれに与って、バブル崩壊後も幸い翻訳という職業に就いて今日まで食いつないできた。だが、例えば私の姪のひとりは、いわゆるロスジェネ世代で、90年代末に某一流大学を卒業してから一度も正規職に就くことができず、出版関係の非正規雇用を転々として、キャリアは積んでも低賃金と不安定な労働しかありつけずに、未婚のままそろそろ中年の域に達しようとしている。彼らには、この国で今後も健康で文化的で、夢を持ち充実感を得ることのできる生活を送っていける保障は一切ないといっても過言でないだろう。資本主義のシステムに絡め取られて、その枠の中で生きていこうとする限りは……。
終末期を迎えた資本主義がその矛盾をいくら糊塗しようとしても、それには限りがある。いまやこの国で雇用を創出しようとするならば、消費税を引き上げて、その税収を手っ取り早く公共投資に充てるか、法人税減税に回して、その分を少しでも企業が内部留保とせずに雇用や賃上げに回すことを期待するか、お願いする以外にない。いずれにせよ、景気回復も人為的につくり出されたものであり、雇用創出、賃上げはさらに財政出動なしにはなしえないが故に、一時的現象に終わるしかないのが実情だ。
だが、この期に至っても、この国の男性正社員を中心とした多くの人々は“あの夢よもう一度!”とばかりに、半沢直樹に夢を託してうつつを抜かしている。あるいは東京オリンピックリニア新幹線による経済効果に儚い希望をつなごうとする。さもなくば、経済にのみ生きてきたこの国の凋落を目の当たりにし、今やその経済で日本に追いつき追い抜こうとしている中国や韓国に、負け犬の遠吠えを吠え続けることで鬱憤を晴らすしかないかのごとくだ。
今こそ頭を働かせる秋だ。理性を持って感性を研ぎ澄まし、まずは自分自身と家族の5年後、10年後の未来を考え、新しい明日をひとり一人が切り拓いていかなければならない。

ないのは仕事で、カネやモノではない。仕事がなくても生きていける社会の創造を! [Post capitalism]

22日投票のドイツ下院選では野党・社会民主党が全国一律時給8.5ユーロ(約1,100円)の最低賃金導入を訴え、社民党との連立を目指す緑の党もそれに同調し、最賃制導入の是非が争点のひとつになっているという。雇用・労働環境をめぐる問題は今やグローバルな問題だ。
20世紀末からのグローバリゼーションを伴ったIT革命は、雇用の絶対的減少をもたらした。とりわけ資本主義先進国においては、産業の空洞化、途上国へのアウトソーシングにより職を失った国内の労働者を、時間的にも質的にも薄められた不安定低賃金労働によって何とかカバーしようとして、失業とともに労働条件の質の低下を招き、新しい貧困問題を生み出した。
しかし、21世紀の労働問題を根本的に解決するのは、非正規雇用の正規雇用化でも、最低賃金の引き上げでもない。
21世紀の世界は途上国も含めて、①すべての人々が生活していくに十分な富が存在する、②すべての労働力人口に供給すべき十分な仕事がなく、それはますます少なくなっていく、③その結果、富がますます偏在し、貧困問題が深刻化する――という特徴を示している。マルクス主義は、有史以来、常に5%の支配階級と95%の被支配階級という階級対立構造が存在してきたと主張してきたが、今やそれは1%対99%、それどころか途上国では0.1%対99.9%の対立へと極端化している。
この問題を根本的に解決するには、ごく少数の者の手に集中した富を無条件に(つまり労働とその結果得られる賃金という媒介を通さずに)99%の人々に分配すればいいだけの話である。20世紀中頃までは、先進国も含めて、労働と賃金という媒介を通してさえ、すべての人々が十分に生きていけるだけの富は存在しなかった(絶対的貧困の存在)。社会主義の敗北の原因のひとつも、恐らくそこにあっただろう。しかし今や、マルクスの言葉を借りれば、世界中のすべての人々が、「労働に応じて」どころか、「必要(欲望)に応じて」モノを消費するだけの十分な富が存在している
しかし同時に、資本主義はその現実を決して認めることはできない。なぜなら、資本主義とは資本と労働の関係においてのみ成り立つものであり、「働かざる者食うべからず」の社会であるからだ。その前提を崩した瞬間に、資本主義そのものが崩壊してしまうだろう。
だがしかし、IT革命という文字通り革命的なイノベーションが進めば進むほど、資本主義の建前は崩れていく。今現在においてさえ、少なくとも資本主義先進諸国においては、その気にさえなれば、すべての人々が働かなくともそれなりの生活を維持していけるに十分な物質的富を生産する技術があるはずだ。現在、労働者の多数派になりつつある非正規雇用労働者が担っている生産ラインの単純労働、医療介護等を含むサービス業の様々な仕事等々は、機械化・自動化・ロボット化によって大部分置き換えが可能なはずだ。もちろん初期投資にかなりの費用が必要だろうが、そうした設備が汎用化すればするほど、それに要する費用は非正規雇用労働者の低賃金よりも安上がりになるだろう。
しかし、彼らがそれを急がないのは、これ以上急激に機械化・自動化・ロボット化を進めれば、雇用問題という現代のアポリアをさらに深刻化させ、自縄自縛に陥ることを知っているからだ。
資本主義は労働者に労働の対価として彼が生きることができるだけの賃金を与え、労働者はそれをモノと交換することによって生きる糧を得ることができる。しかし、世の中には障碍者、老人、失業者等々、自ら生きるに足る(資本主義的)労働を生み出せない人々が存在し、そこから生じる社会矛盾を解決し、そうした人々の生存を保障する仕組みとして社会福祉を生み出した。つまり、「働かざる者」に「食わせる」ことはあくまで社会規則の例外であり、本質的には「施し」の域を出ないものでなければならなかった。
ベーシックインカムの思想は、そうした資本主義の根本的枠組みをはみ出すものである故に、一部のネオリベラリストを除いて、資本主義擁護派にそれを認める者は存在しないどころか、彼らの多くが、それが資本主義の綻びをますます広げる赤い糸であることを知っているが故に、それに命がけで反対する。(BIを認める一部ネオリベラリストは、解決策のない21世紀の雇用問題の弥縫策として、逆に不十分なBIによってお茶をにごそうとしているのだ。)
このように、1対99、0.1対99.9の対立がますます先鋭化するにしたがい、99%のプレカリアートにとっては資本とカネのからくりがよりよく見えてくる。1%の富の独占者たちがますます貪欲になり、資本と労働の原則をはみ出してマネーゲームという「錬金術」に突き進めば突き進むほど、プレカリアートにの目には金(カネ)のメッキが剥がれてその本質が顕わになるわけだ。彼らがウォール街を占拠して富の公正な分配を主張したのもその現れである。また、日本においてついに1千兆円を超えた財政赤字もしかり。個人や一企業ならとっくに破産しているはずのこの天文学的「借金」が、ますます雪だるま式に増えても、いっこうに国家財政が破綻しないどころか、毎年無尽蔵に新たな「借金」が増えていく現実に、さしものお人好しな日本人さえ、そろそろ気づき始めているはずだ、カネというのは実態のない幻なのだと。
だから、99%のプレカリアートのスローガンは、「仕事をよこせ!」でも、「カネをよこせ!」でも、「賃上げを!」でもなく、「生きる権利を!」だ。万人が十分に食べ、居心地のいい場所に住み、着心地のいいものを身にまとい、子どもをつくり、楽しみ、遊び、交流し、創造し、想像し、休み、癒し……人間らしく生き、生き抜き、自然に死んでいく、人としての自然の営みを返せ! ということに尽きる。
そのためには、資本と労働、つまり、生きるために働き、労働の対価として賃金を得、そのカネによって商品を購入し、その商品を消費することによって生きるというシステム自体をやめなければならない。
そのシステムを崩すのに、正面突破を企てれば、1%の彼らは命がけで抵抗してくるだろう。何百年も続いたこのシステムを崩すのはそれほどたやすいことではない。だが、ひとり一人がこのシステムを降りることによって、システムの機能不全=自壊をもたらすことは、よりたやすいことかもしれない。人々が生まれてから必死に登ってきた何十段もの階段を一気に駆け下りることは厳しいかもしれないが、一段でも降りることは明日にでもできる。そうして、無理なく一段一段降りていけばいいのだ。なぜなら、1%の者の富を維持するためには、99%の人々が彼らのシステムにがっちり組み込まれていなければならないからだ。彼らの富は99%の存在なくしては成り立たないのだ。

国家とは支配の道具であることの再確認 [Post capitalism]

物事の本質を捉えようとする際に必要なことのひとつは、その歴史を知り考えることだ。
例えば、原発の歴史をひもとけば、「原子力の平和利用」といいつつ、元々大量殺人兵器として開発された核兵器のさらなる開発・保持のために、アメリカをはじめとした核保有国がその隠れ蓑に利用してきたものであることが分かる。したがって、そのようなものが「クリーンなエネルギー」や「経済的なエネルギー」であるわけがないのである。
また、精神医療の歴史をひもとけば、優性思想に基づいて社会防衛的な見地から、「社会に役立たない人間」を強制隔離・強制収容してきた歴史を見ることができる。そうした歴史を知れば、現在の精神医療の主流をなしている薬物療法も、患者の病を治癒することを目的とするものでなく、かつての目に見える鎖と檻に代えて患者を一生薬という鎖と檻につなぎ止める手段であることが理解できる。
では、国家とは何か? それは私たちが義務教育の歴史の時間に学んだように、農耕社会が発展し、貧富の差が生じることにより、一部の富める者たちが自身の富と財を守るために「発明」した支配の道具であることは、明白だ。
資本主義社会における国家は、民主主義を建前として「三権分立」の権力によって国民を支配する。したがって、立法も行政も、そして司法も、つまるところ一部の支配者(=資本家階級)が「99パーセント」の人々を支配する道具にすぎない。
もちろん“道具も使いよう”なので、民主主義という建前を利用して、99パーセントの人々が積極的に権力機関、とりわけ立法府たる国会に関わりを持ち、政権に参画することによって、1パーセントの人間が、99パーセントの人々にとっても有益な政策を実行することが自らの支配に有利であると判断することはあり得る。このように、資本主義国家でもっとも民主主義のシステムが、支配される側にとっても有利な形で機能してきた国家形態は、北欧に代表される福祉国家であろう。
欧米諸国に後れて資本主義国家の仲間入りをした日本は、その当初から民主主義という建前さえ前面に掲げることがなかったし、敗戦後の再建期においても、戦勝国(=アメリカ)から強制され、いやいや表看板にそれを掲げたに過ぎない。したがって、この70年近く、その民主主義の建前は99パーセントの人々の利益になるように機能することは欧米諸国と比べてきわめて少なく、支配者らは「本音と建前」を常におおっぴらに使い分けてきたし、99パーセントの人々もそれが当然と受け止めてきた。かくて、国会には政治家ならぬ「政治屋」ばかりが跋扈し、政府は財界の顔色ばかりうかがい、お役所は地方末端までいかに住民を効率的に支配するかばかりを追求し、実質的に中央の立法・行政を取り仕切ってきたのは官僚機構であった。また、司法の独立も名ばかりで、立法・行政の利害に真っ向から反する判決は、常にエピソードとして語られるに過ぎなかった。
20世紀に当時の被支配階級=労働者の解放を掲げて登場した社会主義国家も、国家の本質を明瞭に分析していたにも関わらず、資本家に対する「プロレタリアート独裁」の必要性を説くことによって、自ら国家権力の陥穽に囚われていった。実際には99パーセントである労働者や農民が権力を手にすることはなく、共産主義思想で武装したエリートテクノクラートが社会主義の看板を掲げた資本主義国家を再建したに過ぎない。
では、99パーセントの人々が国家権力を手にすることは可能か? 答えは不可能である。国家が国家である限り、それは少数の支配者が自らの富や財を守るために多数の人々を暴力的または非暴力的・民主的等あらゆる手段を使って支配を貫徹するという本質が変わることはないからである。
しかし、資本主義はその終局段階で、すべての国民が飢えることのない十分な富を生み出すようになり、一方、ITの発達が99パーセントの人々に支配イデオロギーの洗脳から覚醒し、支配システムから離脱する手段を与えた。認知資本主義という言葉は本質的に形容矛盾だ。資本主義はモノの生産、それもたえず成長を続ける生産活動を本質とし、資本主義が成長を止めた時、それは崩壊する。
また、グローバリゼーションは国家の「超国家化」をもたらしたが、それは半面で「脱国家化」を促進する役割を果たす。
その時こそ、99パーセントの人々が「国家」という呪縛から真に解放される時であろう。なぜなら、精神的に自立した市民は何ものからの支配も必要としないであろうし、何ものかに従属することもなく「食べていける」手段を身につけているだろうから。そうした自立した市民は、支配という縦のシステムでなく、ネットワークという横のシステムによって社会を構成することを可能にするだろう。

金のない社会を想像(創造)してみよう! [Post capitalism]

「地獄の沙汰も金次第」「時は金なり」「いつまでもあると思うな親と金」――金にまつわる諺や格言は古今東西少なくない。確かに、人類が人間になった時から、貨幣はモノを得る交換手段として社会に定着してきた。しかし、金なしには誰でも生活していけないようになったのは、資本主義社会になってからのことで、たかだかこの二百数十年間のことに過ぎない。それまでは、大多数の人々にとって、貨幣は補助的な役割しか果たさず、日々の生活は半自給自足的に営まれ、月に何度か立つ市では物々交換も普通に行われていた。また、国家権力が人民を収奪する手段としての税制も、日本では1873年の地租改正によって、初めて物納から税金への転換が図られた。
マルクスは、人と人との関係が物と物との関係として現れることを物象化といったが、資本主義社会でそれはもっぱら貨幣物神という形で現れる。つまり、本来人間は、自分たちが生き、健康に暮らし、幸福を追求するために物を生産してきたはずだが、金が自己目的化された倒錯した資本主義社会では、お金を生むことを目的に生産活動が営まれるようになった。そして、本来生産の目的であった人々の生活、健康、幸福は、生産ための手段に貶められてしまったのだ。
本来自動車は、人や物を速く、大量に、遠くまで運ぶ便利な乗り物として発明されたものだが、自動車産業は自動車の大量生産(フォードシステム)のために、自動車社会がもたらす負の側面――交通事故、大気汚染など――を犠牲にして発展してきた。自動車事故によって死亡した人の数は、第一次世界大戦の戦死者を優に上回っている。
よく、国際原子力マフィアの代弁人たちが原発の正当化のために、自動車や飛行機の利便性と事故という副産物の対比を持ち出すが、もちろん、原発事故がもたらす影響の範囲が自動車や飛行機のそれと比較にならないことは論を待たないとしても、より本質的にとらえた時、彼らの論理にも一理あるといわざるを得ない。原発が事故の危険性を孕む以上、許されてはならないのと同様に、自動車や飛行機も、人々の生活、健康、幸福を犠牲にしては、本来あってはならないはずのものなのだ。
3.11によって暴かれた「原子力ムラ」の実態は、私たちに金によって歪んだ日本社会の隠れた構造をまざまざと見せつけてくれた。なるほど資本主義は、正常的には経済整合性経済合理主義によって動かされるものではあるが、それは(日本に限らず)時として、特に政治と結びついた時、経済整合性、経済合理主義から外れた利権主義に侵され、金のためなら人々の生活、健康、幸福を犠牲にしてでも、一部の利権に群がる者たちの利己的利益を実現する不健全な構造へと容易に転化する。
こうした合理主義からの逸脱は、生産活動のあらゆる分野に普遍的に現れる。
人々の健康といえば、本来それを守るための医学でさえ、資本主義社会では金儲けが目的とされ、人々の健康はないがしろにされ、時として医学は人々の健康を損ねさえしている。どんどん新しい病名をつくりだして人々を病人に仕立てて一生薬漬けにし、あるいは生産活動に役立たないからといって本人の意思を無視して強制的に閉鎖病棟に閉じ込めて自由を奪うような精神医療はいうに及ばず、「早期発見、早期治療」「予防医療」のかけ声の下、国を挙げて人々に疾病への恐怖心を煽り立て、病院を受診させ、病人に仕立て、薬を大量に押しつけ、あるいは効果の疑わしい予防接種を受けさせるのが今日の医療の実態だ。その背後にあるものといえば、医師・病院、製薬会社、厚労省官僚からなる「医療ムラ」だ。
資本主義の発展と医学の進歩ともに、確かに人間の平均寿命は右肩上がりに伸びてきたが、実際はそれと引き換えに、平均して晩年の10年前後は「要介護」状態で送ることを余儀なくされている。そこに介護ビジネスが生まれ、老人の生活や健康、幸福とは無関係に金儲け主義がまかり通る。そしていざ臨終の間際になっても、「延命治療」によって本人の生前の意思とは関わりなく、強制的に生きさせられたうえに殺される。
私の子どもが小さい頃、テレビカネボウ化粧品のCMを見て、「金儲け商品」と長いこと思い込んでいたが、カネボウ化粧品の商品だけでなく、この世のすべての商品は「金儲け商品」である。
かくのごとく、金というものが、社会にどれだけの害悪を与え、人々の心を歪ませ、倒錯させていることか? 殺人を筆頭とする犯罪のかなりの部分が、金をめぐって、あるいは金を目的になされている。日本だけで、毎日何十人という人々が、金のために自ら命を絶っている。金があるとないとでは、すべてにおいてスタート地点から異なる。「法の下の平等」はあっても、人々は金によって全き不平等を強いられている。
挙げ句の果てに資本主義は、人類が本来持っていた闘争本能や縄張り意識から発展した戦争をも金儲けの手段とした。アメリカをはじめとした巨大軍事産業は、金儲けのために不必要なばかりでなく、必然性のない戦争をも引き起こし、たくさんの人々の命を奪ってきた。
日本の場合、「ムラ社会」が人々から理性的、合理的、主体的に物事を考える力を奪っているため、人々の多くはこうした現実を不条理と疑うこともなく、アプリオリな現実として肯定的に受け入れている。3.11はごく一部の人々を覚醒させ、不条理に気づかせたが、むしろ大勢としては現状肯定派を増大させる結果をもたらしている。
お金第一主義の社会からはじかれたたくさんの人々が、路頭に迷い、ホームレスになり、ネットカフェ難民になり、マック難民になり、運よく生活保護を受けられても、今度はそのことでムラ社会からバッシングを受けた挙げ句に、貧困ビジネスの食い物にされる……
私は言いたい。若者よ、農村に行こう! そして、田を耕し、畑を起こし、自らの食を自ら得よ、と。幸いこの国には、農村部にはいくらでも耕す田畑が有り余っており、空き家もたくさんあるから、住む家も都会の十分の1くらいで買うなり借りることができる。考えてもみよう。暑さ寒さを防げぬ路上、窮屈なネットカフェ空間、マックの固い椅子、やっとありつけるコンビニ弁当や100円マックと、農村の澄んだ空気に広い土地、広すぎる居住空間、新鮮な野菜とご飯……のどちらが自然で人間的な生活を保障してくれるかを。
資本主義がその昔、農村の自給自足経済を破壊して、生活できなくなった農民を都市へと追いやって賃金労働者に仕立て賃金奴隷にしたのと逆の過程を、今こそ都市生活者たちは自ら主体的に行うべき時がきたのだ。
都会にいるから食えないのであって、田舎へ行けば仕事(農業)はいくらでもできる。そうすれば、自分たちが半自給自足生活ができるだけでなく、日本の食糧自給率を高めることにも貢献できる。それで困るのは、一部大資本とアメリカだけだ。
もちろん、そうすることによっても、完全自給自足生活はなかなか難しいだろう。私が3.11以前から支持しているベーシックインカムは、その溝を埋めるためにはうってつけのものだろう。ベーシックインカムが保障されれば、若者ならずとも、多くの人々が都市から農村への移住が容易になり、この国はポスト資本主義社会へ向けて再生が可能になるであろう。
しかし、その時を待っていることはできない。目覚めた志あるものたちが、先遣隊となって事をなせばいい。本当に金の呪縛から自由になるために。

『脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし―』という本 [Post capitalism]

脱資本主義.jpg鶴見著のすでに旧刊に属する本書が年末にkindle版で出たので読んだ。「資本主義終焉論者」の私としては大いに共感を持って読めたが、著者は資本主義の経済成長の異常さ、その限界性を、具体的な例、データを駆使して、説得力を持って分かりやすく解説している。私もとても勉強になった。
例えば、必要でもないのに買われ、まだ使えるのに捨てられる服の自給率が日本ではわずか4%であること。それは、時代後れを生み出しては新たに買わせるという「計画的陳腐化」の戦略に基づいており、その戦略はすべての商品を貫くものであること。日本(あるいは「北」の国々)に住む我々には、「大量生産→大量消費」としか見えないプロセスも、本当は「(資源の)大量採取→大量生産→大量消費→(ゴミの)大量廃棄」という一連の流れなのだといった指摘。(TPP参加問題がオバマ・安倍会談でにわかに緊迫化しているが、)かつてアメリカから自由化を迫られて市場を開放したために、国内の大豆農家が壊滅し、また、日本人にコーヒー飲む習慣ができたこと、等々……。
グローバル資本主義の最後のフロンティアは、「公共物」あるいは「共有物(コモンズ)」だ。……今では、水や種子といった自然界に属する共有財産、あるいは教育や医療といった公共サービスが狙われている。もしかしたら、「空気」の商品化まで狙われているかもしれないといった指摘も、昨今の中国のPM2・5 問題を見ているとにわかに現実味を帯びてきて空恐ろしい。
著者は主に北と南の関係を見ながら、南の貧困が北の250年間の資本主義の「成長」によって構造的につくり出されてきた問題であることを明らかにしつつ、北の中の貧困も含め、問題の解決は成長というパイを大きくすることではなく、分配、つまりピースの分け方にあることを完膚なきまでに暴き出す。
著者は「脱資本主義」を宣言しながら、具体的な「ポスト資本主義像」をあえて提示してはいないが、その代わり、各章の最後にコラムを設け、脱原発をはじめとした普遍的な不満の表現手段としてのデモ、メキシコのサパティスタ民族解放軍の自治区の取り組み、ラテンアメリカ革命、宮下公園ナイキ化反対運動、自身が取り組む素人の農業を紹介している。
原発事故以降この社会は、この場所なりの脱資本主義に向かい始めていると思う。それに関しては願ってもない、いい傾向だという著者の楽観主義に見習い、私も脱資本主義のささやかな実践を積み重ねていきたいと思う。私が最近強く思うことは、資本主義は政治によって終わらせることはできず、ひとり一人の市民が脱資本主義を実践して資本主義を無化していく以外にないということだから。

脱原発は「反経済(学)」の未来への道を拓く [Post capitalism]

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秋風が肌寒さを感じさせる16日夕、首都圏反原連呼びかけの2回目の経団連抗議行動があった。「脱原発」を求める国民の声に対して「経済優先」を掲げる経団連・米倉の言動は、3.11を経た日本の市民に、経済が「経世済民」などという語源とはほど遠い、支配階級のエゴイズムであることをまざまざと感じさせてくれる。
今日「経済」という時、それは「市場経済」すなわち資本主義のシステムそのものをさすことがほとんどである。そして、その資本主義市場経済を分析する学問として、18世紀に「経済学」が生まれた。資本主義経済学に対抗する学問として、19世紀にK・マルクスによって「社会主義経済学」が提唱されたが、それは本質的に広い意味の資本主義経済システムを前提としたその亜種に過ぎなかった。そして、市場経済は利潤追求を第一として、人間労働を労働力商品として物象化し、利潤を生む機械の一部と化した。
私たちは生まれたときから「労働(=資本主義的生産労働)」こそが人間にとっての唯一の価値であるというイデオロギーをたたき込まれ、学校教育を通して労働予備軍に仕立て上げられ、卒業後、賃金奴隷としての生涯を送ることになる。少なくともつい最近まで、私たちはそのような「労働=仕事中心」の生活を何の疑問もなく受け入れてきた。
しかし、20世紀末から(日本ではバブル経済がはじけた頃から)、IT革命とそれに伴うグローバル化の中で、仕事の絶対量が減り、大学を出ても正規雇用に就けない状況が生まれ、同時に、資本主義の生き残りをかけたネオリベラリズムの嵐が吹き荒れる中で、世界中(少なくとも先進資本主義諸国)の多くの人々が、そうした「労働絶対価値観」「経済(成長)中心主義」への疑問、その破綻に薄々気つき始めていた。
3.11は、世の中を、実は「表社会」とは別の「裏社会」=原子力・核マフィアがほしいままに支配していた現実を白日の下にさらけ出すことによって、「労働絶対価値観」「経済(成長)中心主義」の欺瞞性をも、同時に人々にはっきりと認識させることとなった。
人々はまず、「経済活動」が人々の命や健康の維持と両立し得ない、つまり人々の生活とは何ら利害関係のない、もっぱら一握り(1%)の「経済人」の利益のために営まれているという「隠された真実」に気づかせた。
そして、それに気づいた人々は、次に、自分たちが一生を捧げてきた「(資本主義的)労働」の意味をも、問い直さずにはおかなかった。「生活のため」=「生きるため」のはずであった「労働」が、もはや自分(たち)を生かしてくれない、往々にして殺すというからくりに、気づかせてくれたのである。
だがしかし、そうした本質的な「悟り」を得た者の多くは、どっぷりとそのシステムの中に浸りきってきた(主に正社員の)男性よりも、報われぬ家事労働に従事させられてきたり、非正規雇用の大半を占めてきた女性のほうであった。男性より放射能への感受性に優れる彼女たちを、経済活動やそれを支える私的日常生活を捨ててまで、子どもと共に困難な避難生活に踏み切らせたものも、そうしたことと決して無縁のことではないだろう。彼女らは、本能的に放射能の危険性を察知したのと同様に、「経済(成長)中心主義」、「労働絶対価値観」の「非人間性」を直感的に悟ったのだ。
今や、脱原発市民たちは、(市場)経済と訣別し、21世紀の新たな「ポスト資本主義的」自給自足共同社会の構築へ向け、第一歩を踏み出すべき時だ。その社会は、エネルギー供給をはじめ、社会の単位が小さな「ムラ」の中で持続的に自足する。それでいて、「ムラ」と「ムラ」の集合体としての「クニ」と「クニ」の間の人々の交通は、今より頻繁になるかもしれない。なぜなら、「ムラ」の住民は「ムラ」や「クニ」に縛られた従属的な身分ではなく、自分の人生を自分で主体的に生きる自由な市民たちだからだ。
そうした「徹底して分権的なグローバル世界」において、もはや原子力発電核兵器といった人類を滅亡に導く道具は、存在の余地がないことはいうまでもない。
そうした近未来へ向けた新たな時代の入口に、今私たちはようやく立ったところなのだ。しかし、その未来への道は、決して平坦でも単線的でもないだろう。しかも、その旅路へ赴く私たちは、フクシマ」という十字架を背負っていることを、片時も忘れることができない運命にあるのだ。

ポスト資本主義時代の領土問題 [Post capitalism]

わが国固有の領土」とよくいうが、その由来を訪ねれば、せいぜい百数十年を遡れるにすぎない。中央集権化した資本主義国家成立以前の社会は、日本もヨーロッパも地方分権型の封建社会であった。日本では、沖縄は明治政権下の1879年の琉球処分まで琉球王国という国が存在し、その国は中国とも関係が深かった。また、江戸時代の北海道は「北方四島」は言うに及ばず、松前藩の支配が及んだのは函館を中心とする南部のみであり、他は「アイヌモシリ」(アイヌの地)であった。さらに、竹島島根県に編入されたのは1905年1月のことであり、当時日本は朝鮮半島の覇権を巡ってロシアと戦争中であり、戦争に勝った日本は同年末には韓国統監府を置き、大韓帝国を実質的に属国化している。
こうして「わが国固有の領土」は、明治政府が資本主義的国家として中央集権化を果たしていく過程で、周辺国との、時には武力を伴う軋轢を通して獲得していったものにすぎない。
だから私は、尖閣諸島、竹島、北方領土等の領土問題をあれこれ論じること自体に、あまり興味が湧かない。むしろ私の関心は、来るべきポスト資本主義時代の「領土問題」の方へと向かう。
ポスト資本主義社会では、まず人々自身が「多国籍化」する。例えば、住んでいる国は日本でも、生まれはフランスで、父親はケニア人、母親はイラン人、などという例は特殊でも何でもなく、むしろ普通のこととなるだろう。そして、彼女のパートナーはカナダ人の父親とニュージーランド人の母親を持つ中国籍の男性などということもありうるだろう。その二人の間に子どもができ、パプアニューギニアで生まれたとしたら、その子は果たして何人になるのか?
また、ポスト資本主義社会は中央集権社会から、再び徹底した地方分権社会に移行する。世界中を自由に行き交う人々の日常の生活範囲は、逆説的だが、せいぜい人口数万人単位の小さなコミュニティで基本的に自足する。経済的に自足するだけでなく、政治的にも自治分権化される。中央国家の果たす役割はますます少なくなり、いつかは消滅してしまうだろう
そこでは「世界政府」の必要性ももはやなくなり、せいぜい各コミュニティがいくつか結びついた連合体があるくらいで、必要に応じて、または欲望に応じて、人々はそれらコミュニティを自由に移動する。一時的に移動するだけでなく、絶えず流動する。
もうお分かりだと思うが、そんな社会では、「領土問題」など意味をなさず、「領土」という言葉自体が死語と化すだろう。

ポスト資本主義社会のオリンピック [Post capitalism]

近代オリンピックがオリンピック発祥の地=アテネで最初に開かれたのが1996年。オリンピックの歴史は、レーニンの言う「帝国主義の時代」、すなわち資本主義の成熟段階である金融資本主義の歴史と軌を一にしている。
当初アマチュアリズムに立脚していた五輪が露骨に商業主義化してプロ解禁へと門戸を開いていく契機となったのは、1984年のロサンゼルス大会。この時のアメリカ大統領は、元祖ネオ・リベラリスト=ロナルド・レーガンであったのは偶然のことではない。
選手はアスリートである前に、スポンサーによって囲い込まれた「商品」と見なされるようになった。そして、資本は商品の価値を高めるためなら何でもやる。ドーピングが大きな問題となりはじめたのも、この時期からである。
しかし、近代オリンピックは当初から、資本主義世界システムのひとつとして機能してきた。「平和の祭典」と称しながら、実際にはそれはナショナリズムを鼓舞する場であったし、東京オリンピックを知る者なら誰でも記憶にあるように、五輪開催がもたらす経済効果は計り知れない。つまり、インフラ整備をはじめ、莫大な資本や税金が「コンクリート」につぎ込まれ、開催都市を中心に「近代化」が図られる(2016年のリオもそうなるであろう)。また、放映権をめぐり莫大な金が動き、世界中から開催国に観光客が動員される。……
ソ連はじめ「社会主義国」と呼ばれ、当時は資本主義の対極をなすものとみなされながらも、実際には資本主義の一変形、亜種にすぎなかった国々も、したがって例外ではなかった。むしろ、当初からもっとわかりやすい図式で五輪が捉えられていた。つまり、五輪は自国と社会主義の優位性を宣伝する格好の場であったため、選手は五輪でメダルを取れば生涯年金を保障された。だから、当然選手たちは皆必死に練習し、ドーピングもなりふり構わず行った。
現代では、オリンピックの国別金メダルの数は、それに投資した金額に比例すると、何のはばかりもなく公言されている。
資本主義の祭典=オリンピックを、時に睡眠サイクルを壊しながらも観ている私は、しかし頭の隅の冷めた部分で考えてみる。ポスト資本主義社会に、五輪は残るのだろうか、と。
ポスト資本主義社会は、ベーシックインカムによってすべての人々に生活に必要な所得が保障され、一方、IT革命の結果、労働力はますます人間の手から離れて「ロボット化」するため、スポーツを含む文化活動がより多くの人々によって盛んに行われるようになるだろう。そう考えると、五輪もますます盛んになりそうな気がする。
しかし、さらによくよく考えてみると、第一に、現在選手の最大のモチベーションとなっている金銭的動機が薄弱になるため、また第二に、今も島国=日本でさえ選手の「多国籍化」が進んでいるが、ポスト資本主義社会では人々の移動がより流動化し、あらゆる意味で「国境」が意味をなさなくなり、やがて資本主義的意味での「国家」がなくなるであろうから、「国別メダル争奪戦」としてのオリンピックは、その存在意味を失うであろう。
だいいち、アナクロニズムの石原が「東京の夢よもう一度」とばかりに、五輪を誘致して経済効果を得ようと企むようには、ポスト資本主義社会の都市は、五輪誘致の魅力を感じなくなるだろう。ハコモノを増やす「都市開発」は必要なくなるだけでなく、都市へ集中していた人口が適度に地方へ分散し、やがて都会と田舎の区別も判然としなくなるだろう。そんな「都市」へ、世界中から何千、何万ものアスリートが集まるのはふさわしくない。
ポスト資本主義社会のアスリートたちは、現在の私たちには思いもつかないような、全く新しい「スポーツの祭典」をつくりだすに違いない。

3.11で開かれたパンドラの箱の中身 [Post capitalism]

3.11は、単にこの国を実質的に支配している「原子力ムラ」の実態を明らかにしただけでなく、「原子力ムラ」的構造が特殊なものでなくこの国に普遍的に存在していることを人々に気づかせ、さらにはそれが資本主義というシステムそのものに根ざすものであることを見抜く契機を人々に与えることにもなった。
すでに、社会主義崩壊後、新自由主義というむき出しの資本主義が台頭することによって、資本主義が最もうまくいっていた時期に人々が享受することのできた自由で平等で豊かな社会が、ひとたび傾き始めるやいなや、1%の利益を守るために99%の人々を犠牲にして顧みない冷酷なシステムであることを、先進国の多くの人々が、うたかたの夢から目覚めて気づき始めていた。ただ、一国の例外だけを除いて。
その夢が桃源郷のようにあまりにも甘美であったがゆえに、その夢の余韻から目覚めるには「千年に一度」の大地震というショックが必要であったこの国の人々も、ついに史上最悪の原発事故を経て目覚めざるを得なくなった。そして、ひとたび現実を直視するようになると、すべてのことの本質が透けて見えるようになる。原発再稼働、消費増税、TPP、オスプレイ配備……。それらのすべてが、1%の人々(経済界、官僚、それに操られた政治家)の支配する資本主義というシステム、そして、その資本主義の総本山=アメリカの利益のために動いているという事実が。
にもかかわらず、野田がすべてのことを強行突破しようとしている理由は、「もう後がない」という一点に尽きる。後がないことが明らかだからこそ、彼らはこの際、できるうちにすべてのことをやっておこうという「自爆テロ」にも等しい暴走を続けるのである。
だが、彼らの命もあと1年足らずだ。その間に、それらのすべてを既成事実化することはできない。1年後、市民の意思を代表する政権が誕生すれば、オセロゲームのようにそれらの決定はすべて覆されるだろう。そして、資本主義の暴走はやみ、資本主義は葬送行進曲とともに、静かに、そしてゆっくりと墓場への道を歩き始めるだろう。54基の原子炉を懐に抱いて。

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