So-net無料ブログ作成
検索選択

根拠なき発達障害の乱造を超え、個性・才能を引き出す教育へ! [etc.]

つくられた発達障害
発達障害という言葉が独り歩きしている。テレビ・新聞等でも頻繁に目にし耳にするし、教育現場ではごく日常的に流通している。だが、元を正せばこの言葉、2005年の発達障害者支援法施行前後から流行し始めた言葉だ。
そもそも、「発達障害」という障がいはない。自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)などを一括りにした便宜上の言葉に過ぎない。しかも、広義の「自閉症」を除いて、その他の「障がい」は昔からあった概念ではない。アメリカ精神医学界で生物学的精神医学(つまり、心の病は脳の病気だから薬によって治す、とする製薬業界が主導してきた学説)が主流となって以来、アメリカ精神医学会のDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)に登場した「障がい」だ。特に最も多くの子どもがそれに該当し、治療の対象とされてきたADHDについては、それをつくり出した当事者自らが、「つくられた病気の典型的な例」と認めるような代物なのだ。
その発達障害という言葉が日本では、何の疑いもなく正統性をもって流通し、「通級指導を受けている発達障害児が9万人超え、20年あまりで7倍増」などと言われる。そして、その原因として、ワクチン接種やサプリメント、空気中の汚染物質の影響等が真面目に語られている。
これはちょうど、成人のうつ病患者がこの十数年間で2倍以上に激増し、その原因として、景気低迷による職場環境の悪化などがあげられているのと同じ構造だ。
しかし、伝染病でもない限り、ある病気や障がいがこんなに激増することは、普通考えにくい。あるとしたら、フクシマ原発事故による放射能汚染によって引き起こされるだろうがんをはじめとした各種疾病等のように、かなり深刻な原因以外には考えられないだろう。
うつ病患者の増加については、今日、新型抗うつ薬のSSRIの発売に合わせた製薬会社のうつ病キャンペーンとメンタルクリニックの増加がその真の「原因」であることが明らかになっている。発達障害児の増加も、冒頭述べたように、発達障害者支援法の施行と特殊学校・特殊学級が特別支援学校・特別支援学級と名称を改めて、そこに「発達障害児」が追加されたことが「原因」であることが明らかなはずなのに、原因と結果が逆立ちして社会通念化されている。
それ以前、日本でも北欧で始まったノーマライゼーション、つまり、高齢者や障害者などを施設に隔離せず、健常者とともに助け合いながら暮らしていくのが正常な社会のあり方であるとする考え方が広がり、一時期、東京足立区の脳性マヒ児・金井康治君(故人)の普通学校就学運動に象徴的だったように、「障がい児を普通学級へ」という運動が広がった。ところが、発達障害者支援法の施行以降、日本の教育現場ではノーマライゼーションと逆行し、「発達障害児」を含めて、すべての「障がい児」の隔離教育が推し進められてきた。普通学級に在籍する子どもも、前述した「通級指導」によって「隔離」されている。
これは、世界一激務と言われる日本の教師たちにとっては、ある種渡りに船だったかもしれない。なにせ、授業の妨げになり、クラスひいては学校の学力向上の文字通りの障害となってきた一部の子どもたちをADHDやLDとして隔離できれば、スムースな学級運営ができる。また、隔離できない場合でも、直接親に、あるいはスクールカウンセラーを通して「おたくのお子さんは発達障害だから児童精神科医に診てもらってください」と勧めれば、親はうろたえてその通りにし、薬を処方された子どもはおとなしくなってクラスに迷惑をかけなくなる。こうして親も、意図することなく、むしろ子どもを思うが故に、教師と共犯関係の加害者にされていく。
自分の子どもに発達障害児の烙印を押された親たちは、かつての障がい児の親たちのように、ノーマライゼーションを求めるのではなく、クラスの生徒や教師に迷惑をかけないよう、子どもに服薬をさせ、特別支援学級や通級指導を積極的に希望するようになる。
こうして、かつては「少々手のかかる子ども」「落ち着きのない子ども」に過ぎなかった子どもたちが発達障害の烙印を押され、人生を鎖で繋がれていく。

「障がい」からの解放とは?
発達障害者支援法が施行されたちょうどその頃、私は偶然、場面緘黙症という言葉を知り、自分の幼少期がそうであったことを悟った。私は驚きとともにある種の感動を覚えた。なぜかといえば、それまで幼稚園から高校まで地獄のような学校生活を送ってきたのは「特殊な自分だけの体験」であったと思い込み、緘黙という症状は成長するとともに消えたものの、以降も社交不安障害、あるいはもっと広汎な不安障害に悩まされる中、人と思うようにコミュニケーションが取れないことが、自分にとってはどうしても克服できないある種の「障がい」という意識がありながら、周囲にはそのことが理解されず、性格の問題、勇気や努力が足りないから、というように見られてきたことにどうしようもないもどかしさを抱き続けてきたのだが、そうした過去のわだかまりが場面緘黙症という言葉に出会うことによって一気に氷解したからだ。自分はひとりではないという喜び、ありのままの自分でいていいのだという安心感、自分をがんじがらめにしてきた呪縛からの解放感。それと同じような感想を、私は成人して自分がアスペルガー症候群だったと知った人々からも聞いたことがある。
本来、発達障害者支援法は、そのように生きづらさを感じている子どもたちに、「君は君そのままでいていいんだよ」「君の個性を伸ばせばいいんだよ」と支援するものであるべきだろう。落ち着きがなく、集中力のなのい子ども、勉強についていけない子どもはもちろん、自閉症の子どもたちも、普通学級の中で、他の子どもたちと問題を共有しつつ成長していけるような場をつくっていくことが、本来の教育ではないのか?
確かにこれは、日本の教育現場では理想論かもしれない。だからこそ、文科省は問題のある子を教室から隔離し、おとなしくさせるのではなく、年来の課題である30人学級を実現し、複数担任制や特別支援教師を教室に配置していく教育の実現を目指すべきだろう。
それだけではない。日本の戦後教育は、確かに「悪平等」のきらいがあり、だれでも同じ内容の教育を等しく受けて、ランク付けしていくシステムだった。それは、資本主義体制下の教育システムとして、「社会に役立つ人材」を様々にふるい分けして養成していくという資本の論理にかなうシステムでもあった。
だが、そうした体制が終わりを迎えつつある現在、悪平等の教育は解体し、各自の個性、能力、才能を最大限に引き出すような自由な教育システムへと移行していくべきではないのか? そうすれば、「障がい児」を隔離することなく、障がいのある子もない子も自分に合ったカリキュラムを自由に選べばいい。「クラス」という悪平等の弱者排除のシステムは解体されるべきなのだ。
教育の場がそのようなものになった時、ADHDとかLDとかの名前は何ら意味をなさないものとなるだろう。アスペルガーの子などはとてつもない才能を見いだせるかもしれない。その他、重度の心身に障がいを抱えた子どもたちも、そうしたシステムのもとでは思いもよらないような才能を開花させることだろう。そして、いじめも不登校も引きこもりも、おそらく急速に消えていくことだろう。
これは単なる私の夢物語にすぎないのだろうか? 欧米はじめ、海外の教育現場では、すでに学校教育はそのような方向へと向かいつつあると思うのだが。






新聞購読やめて2週間、NHK受信料最高裁合憲判決出たらテレビも捨てる! [etc.]

先月末をもって、約45年間購読してきた朝日新聞(デジタル版)をやめた(http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2016-10-08)。小学校4年生から、ほぼ毎日、新聞を読む習慣をつけてきた私にとって、一大決断だった。代わりに朝日、毎日、東京各紙ほか、国内では琉球新報、沖縄タイムズ、ハフィントンポスト、日刊ゲンダイ、LITERA等、海外ではBBA、CNN、AFPの日本語版、それに韓国のハンギョレ、京郷新聞の原語等のそれぞれウェブ版無料ページを渉猟して代えている。ニュース情報には事欠かないが、今まで朝日で読んできた内容のある外部の人物による論考記事などが読めなくなったのが物足りないものの、各紙に登録すると有料記事も限定的に読むことができるので、ある程度それは埋め合わせている。結論からいうと、朝日のデジタル版の場合、毎月3,800円払ってきて、情報量の面では決して高くなかったものの、権力とたたかう姿勢の後退という決定的問題に鑑みれば、現状はタダで得られるウェブ上のニュースソースで十分ということだ。おまけに、今まで目がいき届かなかった海外情報にも接するようになり、世界を見る視野が広がった。

戦後民主主義.jpg

上の図のように、戦後民主主義体制が安倍=日本会議勢力の事実上のクーデターによって独裁政権化して以降、社会の中心軸は大きく右側へずれてしまい、従来なら産経新聞のような謀略紙にしか登場しなかったような日本会議系人物が、最近では朝日新聞にまで頻繁に登場するようになっている。民主主義という絶対軸より「政治的中立性」というあやふやな基準にマスコミあげて依拠している結果である。例えば、このまま政治が主導して戦争ムードをもり立てれば、マスコミの「政治的中立性」は平和主義から「厭戦か戦争か」という軸に移り、やがて戦争一色という戦前の過ちを再び繰り返すのは必定だろう。
こんな危険水域に突入しかけた新聞は、もはや金を払って読むに値しない。

近いうちに最高裁で、NHK受信料の憲法判断が下される予定だ。今の最高裁で、受信料違憲判決が出るとは考えにくい。私はこれまで親元を離れてから40年以上、NHKと受信契約を結んだことはなく、したがって一度も受信料を払ったことはないが、合憲判決が出れば、NHKはこれまで以上に強引な取り立てをするようになることが予想される。そして、不払い者には容赦なく裁判を起こしてくるだろう。
もしそうなったら、私はもう、テレビを捨ててしまうつもりだ。(できれば、思いを同じくする「同志」の皆さんと、テレビを捨てる大々的なパフォーマンスでもやりたい。)
だいたい、安倍の世になって、NHKだけじゃなく、民法含めて、ニュースはほとんど見なくなったし、メヤニ屋のようなワイドショーも、前は昼食をとりながら見ていたが、もうばからしくなってやめた。子どもと暮らしていたときは仕方なくバラエティー番組も見ていたが、それも今は見ない。見るのはドラマくらいだ。それならTVerで1日遅れで見れば済むことだ。
テレビで漫然と潰していた時間を有効に活用するようになれば、自分自身のためにもなる。

さようなら、朝日新聞。45年間、どうもありがとう! [etc.]

僕は小学校4年生頃から、毎日、新聞を読むことが習慣になった。新聞は僕にとって知識の源泉であり、同時に社会や世界に対する関心や批判精神を育んでくれた。うちの父親は保守的な人間だったので、当時取っていた新聞は読売だった。それを、高校生になった時、僕が朝日に代えさせた。以来45年間、学生時代は地元紙となった北海道新聞と代わる代わる取ったり、3年間の海外生活中はご無沙汰したり、すごく恐ろしげな勧誘員に欺されて半年間読売を取る羽目になったりしたことはあったけれど、残りの期間は休刊日を除いて、日々、朝日抜きの生活は考えられないほど、朝日新聞は僕の日常生活に溶け込んでいた。もしかしたら、期間の長さからいって、長年連れ添った連れ合いよりも、実の親よりも、朝日新聞は私にとって身近な存在だったかもしれない。
2011年3月11日の東京電力福島第1原子力発電所の放射能爆発事故の時、Twitter上ではさかんに「東京新聞を読もう!」とつぶやかれていたが、僕の気持ちに変わりはなかった。それはひとつには、その年の8月からデジタル朝日に変えたばかりで、再び紙の新聞を読む気にはなれなかったこともあったが、それ以上に、僕にとって新聞は、情報源であり、それをどう自分に活かすかは読み方の問題という、メディアリテラシーに基づく確固とした考えがあってのことだっだ。東京新聞とて朝日と同じ商業紙である以上、「脱原発機関紙」などと言われた東京新聞を有り難く拝読する風潮には、むしろメディア妄信という危うさを感じもしていた。もちろん僕とて、読売のように、3・11以降も原発推進の立場に固執する新聞など、お金を出して読む気は毛頭なかった。だが、朝日、毎日はそれまでの報道姿勢を自己批判し、その後「脱原発」の姿勢を打ち出していたのだから。中でも朝日では、その後数年間続いた「プロメテウスの罠」の連載は、その反省の真摯さが感じられたものだ。
2年前に福島原発の吉田調書と慰安婦問題の吉田証言という2つの「吉田問題」で政権にはめられて謝罪に追い込まれた時は、もっと強気に対応しないと潰されると危惧しながらも、何とか持ちこたえたかに見えた朝日を応援したいとも思った。
しかし、今から考えてみると、やはりこの攻撃を攻撃ととらえず、不用意に対処したことが命取りになったのだろう。その後、朝日の政権批判の姿勢は徐々にトーンダウンしていった。
いや、そもそも3・11で「脱原発」の姿勢を打ち出しながらも、放射能問題では徹底して権力=原子力ムラ・国際原子力マフィアの論理に立った報道に徹したこと(その典型例が同じく2014年の「美味しんぼ問題」の報道姿勢)に、朝日の限界と今日の体たらくの萌芽を見てとれる。
だが、2年前には朝日も、政権の不祥事にはけっこうストレートな批判を展開していたものだ。高市早苗、麻生太郎、石破茂、石原伸晃らの「失言」を大きく報じて、厳しい姿勢を示していたのだから。もっとも、この年には松島法相が「うちわ問題」で辞任しているから、まだ政権の「自浄作用」(小渕優子もそうだったが、ウルトラ右翼の安倍の子飼い以外は、場合によっては切って捨てるというに過ぎないが)がはたらいていたともいえる。この時、松島みどりが法をいっそう遵守すべき立場の法相であったがゆえに、「うちわ」がよけい問題にされたという面があったが、だったら責任部署の大臣である高市早苗の今回の領収書偽造と総務大臣としてのデタラメ答弁はもっと許されないレッドカードものであるはずだ。
そもそも、歴代政権で辞任や罷免に追い込まれた大臣は枚挙に暇ないが、今回の白紙領収書偽造問題ほど分かりやすく、責任逃れできないスキャンダルもそう多くはないだろう。しかも、全く同様の問題が富山市議会で起きており、そちらは一地方議会の問題であるにもかかわらず、連日マスコミが報じ、議員の大量辞職、補欠選挙という事態に発展しているのだ。2012年以前の戦後のいかなる内閣に照らしても、新聞・テレビが、内閣のこの不祥事を連日取り上げれば、規模の大きさからいって、単なる数名の大臣辞職にとどまらず、内閣総辞職へと発展してしかるべき問題だ。
それが、昨年の官邸による一斉「ローラー作戦」で壊滅させられたテレビ各局はもちろん、主要紙でも一面で取り上げたのは東京新聞のみというていたらく。朝日も政治面ですらない、いちばん最終の社会面トップの扱いだ。
蛇に睨まれたカエルか、官邸の何がそんなに恐ろしいのか知らないが、権力の暴走をチェックする機能、権力批判の役割を放棄した新聞には一文の価値もない。良きにつけ悪しきにつけ、マスコミは世論をリードする役割を果たしてきた。そのマスコミがひたすら政権の顔色ばかりうかがい、忖度した記事しか書かなくなったら、権力は独裁化するばかりで、その独裁者が自壊するまで、政権は長期化するしかなかろう。

閣僚10名.jpg

白紙領収書疑惑の10人の現役閣僚と同じく菅官房長官、並びに任命権者の安倍首相


菅、安倍.jpg

朝日新聞には個人的にも知っている記者がおり、また、いい記事を書いている記者もたくさんいる。彼らには今後も頑張っていい記事を書き続けてほしい。だが、その記事を握りつぶされたり、意に沿わない記事を書かされる羽目になったら、むしろ外に出てでもたたかってほしいものだ。
僕は45年愛読してきた朝日新聞を、これ以上、毎月3,800円の購読料を払ってまで読み続ける価値がないものと判断して、今月いっぱいでの解約を申し出た。本当に残念なことだ。今後、まだ希望の持てる他紙があれば購読するか、あるいは各メデイアのネット上の無料配信記事の渉猟で満足するか、これからよく考えてみるつもりだ。
商業新聞にとってはスポンサー=広告料が第一で、その出稿元である大企業をスポンサーにする政権の意に背くことは即経営問題にも響くことかもしれないが、私のような長年の顧客をどんどん失っていくならば、中長期的に読者数の減少になり、それはそのまま広告単価の引き下げを招いて、結局、経営の根幹を揺るがすことになる。その時に後悔しても、もう立て直しは難しいだろう。そこまで考えて、朝日新聞の経営陣、編集権者には、賢明な判断を是非とも望みたいところだ。
今日の「天声人語」(83年前の曲がり角)を興味深く読んだ。1933年「ドイツではヒトラーが独裁の足場を固める。目はなぜかうつろで暗い。隣国フランスでは市民が防毒マスクの試着に追われる。」「同じ12月には「天皇家に男児誕生」の報。祝砲が鳴り、二重橋前に万歳の声が響いた。街には戦争の影があるにはあるのだが、人々は少しも深刻に見えない。鈍感なのか。あるいは政府から目隠しをされたのか。」この言葉を、朝日新聞の、いや、日本のすべての記者諸君に捧げる。


相模原事件ー措置入院制度見直しは全くのこじつけ、責任は官邸にある! [etc.]

相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が死亡した事件で、厚生労働省は14日、殺人容疑で再逮捕された元職員の植松聖(さとし)容疑者(26)が措置入院していた病院や相模原市の対応を「不十分」とする検証結果を公表した。退院後に支援を続けなかったことを問題視し、現行制度の見直しが「必要不可欠」と指摘している。(朝日新聞、9月15日)
検証はあたかも、植松聖の大麻使用が事件の原因であるかのように描き出し、施設による通報とその後の措置入院の是非そのものの検討はいっさい行わず、12日後に彼を退院させ、その後のケアも行わなかったことが事件につながったかのごとく描き出しているが、すでにこのブログで何度も言及してきたように、植松聖が「精神障害」であることはまだ誰も「診断」しておらず、措置入院の際につけられた「大麻使用による精神および行動の障害」のみがすべての判断の根拠にされている。
植松聖が大麻を常用していたことは事実のようだが、大麻が犯罪を引き起こしたり「自傷、他害」つまり大量殺人の引き金として作用するという学説は、どこを探しても見つからない。もしそうなら、アメリカなどでは大麻吸引による銃乱射事件が多発しているだろうが、向精神薬(とくに抗うつ薬のSSRI)が関連しているとみられる殺人事件は無数に起きているが、大麻に関しては他の薬物ほど厳しく取り締まられておらず、ウルグアイではあのムヒカ大統領の時代に合法化さえされている。そのウルグアイからさえ、合法化によって殺人事件が激増したなどというニュースは届いていない。(ムヒカ大統領の意図するようにことが運んでいるなら、マフィア等による殺人を含む犯罪はむしろ減っているはずだ。)
一方、向精神薬の抗うつ薬=SSIRでは医薬品添付文書に「自殺企図」や「敵意、攻撃性、衝動性」があらわれることがあるとはっきりと記述されており、アメリカではSSRIが原因で自殺や他殺に至った事件で訴訟に至り、製薬会社が原告に多額の和解金を支払うケースが無数にある。日本でも1999年の全日空機乗っ取り・機長殺害事件の裁判で、東京地裁は「抗うつ剤には攻撃性や興奮状態を出現させる副作用を伴う可能性があ」ると認定しているが、大麻に関してはそうした事例は皆無だ。
断っておくが、私は大麻合法化論者ではないし、大麻愛好家でもない。むしろ他の向精神薬や麻薬同様、依存性をはじめ心身に悪影響がある薬物として禁止されるべきだと思うし、服用すべきでないと思っている。
ただ、上述した厚労省の検証には合理的根拠が欠けるといいたいだけだ。
この検証結果は、措置入院制度やそれに準じる医療保護入院制度の強化という、世界の趨勢のみならず、ようやく開放化へと向かいつつあった日本の閉鎖的な精神医療入院制度を逆行させかねない。朝日の記事でNPO法人日本障害者協議会の藤井克徳代表が述べているように、「障害者を差別する言動を生み出した社会の背景や土壌に向き合うべきだ。障害者支援策が病院や施設中心主義から脱していないなど、もっと目を向けるべきことがある。亡くなった19人の被害者の声に応えているとは思えない。

政権に物言えぬ時勢を反映
ではなぜ厚労省を含む国や警察当局は、このようにこじつけとしか思われない方向へ事件をミスリードしていこうとするのか? 相模原事件について前回述べたように(http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2016-08-26)、それはこの事件の本当の責任が、2月に大島衆議院議長宛に届けられた脅迫状を放置した警察や政府にあるからであり、だからこそ、事件の本質へ向けた真相究明を回避しようとしているのだ。しかもその後の調べで、植松聖は、「首相宛ての手紙を2月に自民党本部に持参した」ことが分かっており、「障害者を安楽死させる法制」について、安倍晋三首相に伝えようとしたものの、警備が手厚かったため断念した。そのうえで同月15日に衆院議長公邸に、考えを記した手紙を持参したという。(朝日新聞、9月3日)だから、こちらの線を追及していくと、こうした動きを適切に把握できず放置した政府官邸=首相の責任も追及せざるを得なくなるだろう。
もちろん、今の安倍独裁体制下で、このようなことは「あってはならない」。だから、マスコミもあえてこの経緯を深追いしない。
すべては安倍政権をめぐるここ2、3年のこの国の異常な空気と連動したことだ。そして、原因を「措置入院制度」へ逸らせば、精神医療制度の隔離収容政策への逆行という結果に至り、それは現政権の強権支配指向にも合致するため、一石二鳥の効果を発揮するというわけだ。
精神医療をめぐる問題は、日頃戦争反対や脱原発、アベ政治を許さない、などと叫んでいる進歩的な人々でさえ疎い場合が多いので、マスコミが口をつぐめば誰にも気づかれずにこうしてミスリードされていきかねない。だから私は、この問題に何度でも言及し、警鐘を鳴らし続ける。

まず検証すべきは衆院議長宛犯行予告への対処ーみたび相模原事件について [etc.]

問われるべき警察、そして政府の責任
1ヶ月を迎えた相模原事件は、厚労省による措置入院制度の強化・見直しへと収斂しつつある。そしてそれに対する真っ向からの反論は、マスコミ報道にもほとんど見られない。このことに関してはこのブログでも1度述べたように(http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2016-07-31)、全くお門違いの安倍政権と厚労省による事件の政治利用にほかならない。
事件直後から、植松聖が今年2月15日、大島衆議院議長に宛てた手紙の内容が公開されている。真っ先に検証すべきはこの一件を巡る関係者・関係機関の対処についてであると思うのだが、それについてのマスコミ報道は、寡聞にして一切目にしていない。
「障害者470名を抹殺することができる」といい、惨劇の現場となった施設を含め2つの施設の名前を挙げ、具体的に犯行の手口を詳述しつつ犯行予告をしているのだ(そして、実際にそれに沿って犯行がなされた)。植松聖は議長公邸へ赴き議長に手紙を渡そうとしたというが、実際に誰がその手紙を受け取り、大島議長はそれを見たのか? あるいは手紙で相談するように名指しされた安倍首相はその事実を知らされたのか? 当然、警察へは届けられ、警視庁を通して神奈川県警なり地元相模原署へも通知されたために、19日の退職・措置入院となったようだが、警察は具体的にどう対処したのか? 明らかに脅迫罪や威力業務妨害罪が成立するはずで、その時点で植松を逮捕していれば、事件は防げただろう。
もしこれが、「障害者470名を抹殺」でなく、「国民の税金を無駄遣いしている安倍晋三総理をはじめとする衆議院議員475名を抹殺」だったら、その日のうちに植松は逮捕され、事件は大々的にマスコミに報じられていただろう。首相官邸にドローン1機が落ちただけでも、犯人がすぐに逮捕され、それどころかドローンに対する規制がすぐさま強化されたくらいなのだから。
いや、そうでなくても、「○○小学校児童470名を抹殺する」でも、同様の措置がとられたであろう。それどころか、「近日中に人が大勢集まる場所にトラックで突っ込み何十人もひき殺す」といったような抽象的な犯行予告であっても、警察はすぐ犯人逮捕に動いたに違いない。
要するに、植松聖が殺人対象にあげたのが、「一般市民」ではなく、ましてや政府要人でもなく、「障害者」だったから、警察は動かなかったとしか考えようがない。そして、衆院議長宛てに「安倍晋三様にご相談を」と届けられた手紙だったにも関わらず、政府も一切無視できたのだろう。
マスコミは「人の命の重みに違いはない」とか「障害者差別は許されない」といいながら、なぜこのいちばん重大な事実に目を向けようとしないのか?
相模原事件で真っ先に責任を問われなければならないのは、2月の犯行予告に何ら対処しなかった警視庁・神奈川県警・相模原署の不作為であり、この手紙を無視した大島衆院議長と安倍内閣だ。

やまゆり園のふたつの責任
第2に問われるべきは、津久井やまゆり園の責任であり、それはふたつある。
ひとつは、植松聖が正職員として働くようになって数ヶ月後(2013年後半~14年初め)には「障害者って、生きていても無駄じゃないですか?」とか「安楽死させた方がいいっすよね」などと言い始めたにもかかわらず、彼を解雇しなかった点だ。解雇権の乱用は労働者の人権侵害になりかねないので慎重を期すべきだが、少なくとも2年近く彼をそのまま雇い続けてきた園の責任は決して小さくないだろう。もし、「末期がん患者って、生きていても無駄じゃないですか?」とか「安楽死させた方がいいですよね」などと言う看護師がいたら、病院はその看護師を放置しておくだろうか? 万一のことがあったら、病院の責任問題に発展しかねないので、病院経営者はすぐに解雇するのではないだろうか? そこにも「普通の市民」と「知的障害者」の「命の重み」の差を感じてしまうといったら考えすぎだろうか?
ふたつめは、「犯行予告」の手紙の通告を受けて植松聖が考えを変えなかったので「自主退職」としたのはいいとして、警察に通報し措置入院させたことだ。職員としてあるまじき言葉を発しながらも彼を2年間も雇ってきた園は、彼を説得して考えを改めさせられると思っていたのだろうが、それが無理と判断するや、掌を返すように警察に渡し「精神障がい者」として措置入院することを許した。ほかでもない知的障がい者の施設だ。措置入院制度の問題点や、日本の精神科医療の実情に疎かったとしたら、それこそ問題だ。
植松は入院後、医師をだまして退院したということだが、そこにこそ精神医療のいい加減さがよく現れている。私の知人に、原因不明の肩の痛みから精神科を受診することになり薬漬け状態となり、どんどん症状が悪化して自殺未遂の末、「統合失調症」として医療保護入院させられた人がいる。その人も、最初執拗に「出してくれ」と病院側に迫ったところ相手にされず、従順を装って「改心」を誓ったところ退院を許されたという。このように、精神科病院というのは医療施設ではない。「困った人間」の隔離収容施設であり、いったん収容したら出すも出さないも医師のさじ加減でどうにでもなる超法規的な恐ろしい所なのだ。
そもそも精神医療が医療の名に値しないものであることは、向精神薬被害者である私がいやというほど身にしみて体験してきたことだ。(のむな、危険!: 抗うつ薬・睡眠薬・安定剤・抗精神病薬の罠)もし睡眠薬が欲しければ、精神科へ行って「このところ眠れなくって仕事にも影響が出て困るんです」と言えば、精神科医は喜んで睡眠薬を処方してくれる。「ここ2、3週間気分が落ち込んで何もかもやる気が起こらず、食欲もなく、寝付きも悪い」と訴えれば、抗うつ薬をはじめ、安定剤やら抗精神病薬やら何種類もの薬を出してくれる。
私は若い頃、慢性じんましんで薬を飲まないと体中痒くてたまらず、20年ほど抗ヒスタミン剤や抗アレルギー剤を飲み続けていた。あるとき、恋人と長旅をしたのだが、途中で薬が切れてしまった。そこで旅先で皮膚科を見つけ受診しようとしたのだが、保険証を持っていないことに気づき、保険証を持っていた恋人に身代わり受診を頼んだ。ところが、恋人は私が教えたとおりのことを医師に話したのに、すぐさま詐病を見抜かれてしまった。医師は彼女の腕を掴んで軽く爪でなぞったそうだ。慢性じんましんならすぐさま赤いミミズ腫れのような症状が出るはずなのだが、彼女にそんな症状が出るはずがない。事情を話すと、本当は自費で薬をもらわなければならないところ、医師は、違法かも知れないが、彼女の名前で処方箋を書いてくれた。
医療とは、本来こういうものだろう。患者の言うことを検査もせず鵜呑みにしたりしない。困ったやつだから入院させてくれという家族の申し出を素直に受け入れ、病気でもない人間を入院させたりしない(政治家の権力を用いた要請でもない限り)。一方、精神医療は「患者」や家族の言葉で判断し、医師の主観に基づいて病名や処方や入退院が決められる。精神鑑定で鑑定医の見解や病名が分かれるのも当然だ。
だから、そもそも植松聖が「精神障がい者」かどうか、薬物中毒者かどうかさえはっきりしないのに、措置入院制度を見直すなどとは、議論のすり替え以外の何ものでもないのだ。


めざすべきノーマライゼーション
宮城県知事で知的障害者の地域移行を進めた実績のある浅野史郎氏は、本日付の朝日新聞で次のように述べている。
 今回の事件を受けて、施設に防犯カメラを増やしたり、塀を設けたりといった警備の強化を進める動きがあります。しかし、これはまったく反対の方向だと思います。施設を一種の「要塞(ようさい)」にしてしまえば、「特異な場所に住む特異な人」という認識を再生産しかねません。
 なぜ、40人以上もの人が、わずか1時間足らずで傷つけられたのか。施設によって確保される安全もあると思うが、GH(グループホーム)でばらばらに暮らしていれば、いっぺんに襲われることはなかったはずです。集団的で、ともすれば閉鎖的になりがちな施設の住まい方を変えるため、入所者の地域移行を今後も着実に進めていく必要があると思います。
障がい者に限らず、高齢者なども含め、ノーマライゼーション(施設に隔離せず、健常者と一緒に助け合いながら暮らしていくのが正常な社会のあり方であるとする考え方。また、それに基づく社会福祉政策)が、北欧をはじめヨーロッパのスタンダードになっている。やまゆり園も閉ざされた大規模知的障害者施設ではなく、小規模なグループホームだったら、そこで働く植松聖は、あるいは今回のような事件を起こすことはおろか、そもそも「障害者は生きている意味がない」などという優生思想を抱くことなどなかったのではないか?
障がい者の隔離だけでなく、たとえばLGBTをカミングアウトしにくい社会、貧困の見えにくい社会……等々が、差別と偏見を生み、憎悪や怒り、妄想を増幅し、ヘイトクライムやテロを生んでいくのではないか?
その社会的根幹を問うことなく、措置入院制度をいくら強化しても、「植松聖」は決して特殊な犯罪者としていつか忘れ去られることはなく、これからも第2、第3の「植松聖」が生まれてくるだろう。

相模原事件、ヘイト社会の変革なしに再発は防げない [etc.]

事件を口実にした措置入院制度の強化を許さない!
知的障害者19人が殺害された相模原事件を受けて、安倍首相は関係閣僚会議で「措置入院後のフォローアップなど必要な対策を早急に検討して、実行していきたい」と述べ、厚労省は措置入院のあり方を見直す有識者会議を8月にも設置するという。とんでもない話だ。
そもそも措置入院が規定されている「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」は「精神障害者の福祉の増進及び国民の精神保健の向上を計ることを目的と」している。社会防衛が目的ではない。また、「精神障害者」の人権を侵害するものとして、この措置入院制度は従来から問題とされてきたし、精神保健指定医2名の鑑定結果によって患者の意思に反して強制入院させることのできるこの措置入院のほかにも、昨年、法が改定され、3親等以内の誰かの同意があれば強制入院できることになった医療保護入院も、大きな問題があると指摘されている。
また、植松聖本人が退院後、友人に「医者をだまして出てきた」と話していたように、精神科医に「患者」の「病状」を見抜く力などなく、医師は「患者」が反抗的か従順かによって恣意的に入院の継続も退院も決めることができるのだ。
そもそも、植松聖が「他害の恐れ」のみをもって措置入院させられたこと自体、妥当であるか疑わしい。彼には精神障害の既往歴もなく、指定医はもっともらしい「病名」をつけて鑑定しているが、彼が本当に「精神障害者」なのかも疑問だ。少なくとも、彼が書いた手紙を読んでも、内容の適否はともかく、文章自体はきわめて理路整然としているし、事件前になにか理解不能な支離滅裂な言動を行ったとも報じられていない。なのになぜ措置入院なのか?
そうしたことも検証せずに、措置入院のあり方が見直されれば、法本来の趣旨を逸脱し、社会防衛の観点から、「危険人物」を「精神障害者」として隔離収容する人権侵害がまかり通ることになりかねない。
1975年に封切られアカデミー賞を受賞した映画カッコーの巣の上で」は、刑務所から逃れるために詐病により精神病院に送られてきた主人公が、あまりに反抗的で、病院内で様々な問題を起こすため、前頭葉を切断するロボトミーを受けさせられて廃人にさせられる話であるが、精神医療と精神病院の本質を見事に活写していた。ロボトミーはあまりに非人道的であるために、今日日本では行われなくなったが、代わりにそんなことをしなくても、大量の向精神薬を患者に投与し、おとなしくさせることができるようになった。精神科病院は精神疾患を直す病院ではなく、「精神障害者」を隔離収容しておく収容施設に他ならない。日本の精神医療は、32万人(そのうち1年以上の長期入院患者が20万人)という全入院患者のうち実に4人に1人が精神科という、世界でも異常な状態にある。
その異常な現状を放置して、植松聖というきわめて特異な犯罪者の犯罪を口実に、「精神障害者」への人権侵害を強化しかねない措置入院制度の見直しなど言語道断である。そもそも精神がい害者の犯罪率は健常者のそれより少ないという指摘は大昔からなされてきているのだ。

社会の変革なしに事件の予防策なし
今回の事件のような大量殺人は、従来なら「きわめて特異な事件」として、数十年に1回の頻度でしか起きる可能性のないものだったが、このブログで前回述べたように、資本主義が終末期に入り、社会の1%の人々が富を独り占めにして99%の人々を生きにくくし、格差と差別と貧困がますます酷くなる社会では、生きにくさを抱えた人々の怒りや恨み、憤りが不条理な暴力となって爆発し、それが今日、世界を襲うテロリズムの根源にもなっている。
とりわけこのニッポンでは、数年前からそうした地下のどす黒いマグマが「朝鮮人殺せ!」などと叫ぶヘイトスピーチに象徴されるように、社会的弱者を攻撃する言動となって噴出してきた。視覚障がい者に人混みで故意にぶつかる事件が相次いだのも、つい2、3年前のことだった。生活保護バッシングが続き、その後、生活保護費の削減が強行された。
そして、そうした差別や排外主義の劣情に支えられて登場したのが安倍政権に他ならない。日本会議のみならず、安倍政権を熱烈に支持して支えているのが、「朝鮮人殺せ!」と叫ぶ差別主義者であることは覆い隠しようのない事実である。そして、植松聖も、そうした社会に蔓延する劣情に感化され、「障がい者はいないほうがいい」という優生思想を抱くようになり、「ヒトラーの思想が降りてきた」と言い、政府の決断をもらえれば260名の障害者抹殺の作戦をいつでも実行すると、安倍晋三に「切に願う」手紙を国会まで持参した。
しかも、この手紙を受け取った政府関係者は、彼を脅迫罪で逮捕するでもなく放置し、一方的に彼に思いを寄せられた安倍晋三は、今回の犠牲者に哀悼の声明を発することもなく、寡黙を貫き通している。
狂っているのは植松聖だけではない。この社会が、世界が狂気の劣情に取り憑かれているのだ。ヘイトの脅威にさらされているのは障がい者だけではない。アベノミクスの下、ますます食えなくなって生活苦に喘ぐばかりか、世間の目を気にしながら肩身の狭い思いをして命をつないでいる生活保護受給者、その数倍にも及ぶ生活保護水準にある非正規雇用のワーキングプア、この国にとって常に従属と支配の対象であり、今また理不尽な犠牲と暴力を強いられている沖縄県民、「食べて応援」「復興支援」の絆のかけ声の下、実質的な強制帰還政策によって一般人の年間1ミリシーベルト許容量の20倍の被曝を強いられている福島県民……
この狂った社会を根底から変えていかない限り、残念ながら今回のような凄惨な事件は、またいつ起きるとも限らない。そして、次の事件を敢行する犯人が、ひとこと「アラー、アクバル!」などと叫びでもすれば、すぐさま「イスラム国」はジハードを敢行したのは「日本のムジャヒディン」だと声明を出し、ここぞとばかりに安倍首相は、午後6時からの記者会見を開き、NHKの生放送を通して、「緊急事態条項」を含む「憲法改正」が喫緊の課題だと力を込めて述べることだろう。

ついに日本でも起きてしまったテロ事件 [etc.]

ついに恐れていた痛ましいテロ事件が日本でも起こってしまった。

9・11が開いてしまった「テロの時代」
国家は国内の矛盾を逸らすため、常に外に「敵」を求める。20世紀を通して資本主義諸国にとってそれは長らく「共産主義」であり、とりわけ第二次大戦後は米ソ対立による「冷戦」構造がその対立図式を有効に作用させた。しかし、1990年前後の社会主義体制の崩壊によって、西側資本主義は「勝利」し、資本主義の「我が世の春」が訪れたかに見えたが、新自由主義の台頭と折からのIT革命が資本主義諸国の内部に新たな分断と断絶を生み、資本主義は新しい「敵」の存在を必要とすることとなった。
9・11こそ、天から降って湧いたその新たな敵にほかならなかった。「テロとの戦い」が資本主義諸国にとっての至上命題となった。しかし、ここぞとばかりにブッシュが勇んで出かけたイラク侵略は、テロリズムの予想外の拡散を招く結果となった。

資本主義こそテロの温床
当初、「イスラム原理主義」とか「イスラム過激派」と名づけられたテロリストたちはイスラム諸国対西側資本主義諸国の対立図式を示していたが、テロリズムの温床は資本主義諸国の内部へと拡散した。「イスラム国」に共鳴する若者が欧米諸国から湧き出てくるようになったのだ。
20世紀の資本主義対共産主義の対立図式では、共産主義には確たるイデオロギーがあり、戦略があり、目標とする国家像があった。暴力は革命のための手段に過ぎなかった。
しかし、既存の伝統あるイスラム教に接ぎ木しただけの「イスラム原理主義」や「イスラム過激派」には、そのような崇高なイデオロギーも理念も目標もない。彼らにとってはテロこそが自己目的だ。一方、どん詰まりを迎えた資本主義は格差と貧困と差別を強化し、1%対99%の対立を生み出し、その結果、若者を中心に絶望と怒りと憤りの情念がテロリズムと深く強く共振し始めたのだ。
今年に入って欧米諸国で頻発するテロ事件は、従来と違って国際テロ組織とは直接関係しない自然発生的・自発的なものが多くなってきた。そればかりか、先日のドイツのイラン移民の青年によるショッピングセンターでのテロ事件のように、いかなる政治的・宗教的理由づけもない事件も起きている。このような事件は、厳密には「テロ」と呼ばないのかもしれないが、銃乱射という形態は、前の週に起きたフランス・ニースでの大型トラックによるテロ事件よりも「テロらしい」。

大義名分も目的もないテロの蔓延
そればかりではない。アメリカではフロリダ州でゲイバーを襲うというLGBTを標的としたテロ事件が起きたかと思えば、警官による相次ぐアフリカンへの射殺事件への報復テロも続いている。もはや「テロの時代」のテロリズムは、「イスラム原理主義」や「イスラム過激派」という大義名分が必要なくなるほど世界中に蔓延し始めているのだ。
テロを育む温床が日本にも同様にある以上、そうした欧米諸国の事件に触発されて、いつ日本で本格的なテロが起きてもおかしくはなかった。政治にも宗教にも疎い日本では、それは「理由なきテロ」「大義なきテロ」となって現れるだろうが。いや、そもそもそうしてみれば、2001年に8人の小学生が殺された池田小事件や2008年に7人が殺された秋葉原事件等もテロ事件といえなくない。
そうした無差別大量殺人事件は、2009年の民主党政権誕生→3・11とその後の脱原発デモ→安倍政権の誕生と戦争法反対デモと大きな社会的変化が続く期間、いったんなりを潜めていたが、先の参院選の結果、戦後民主主義が最終的に終焉し、出口のない閉塞感が充満していくこれからの時代、そして世界的にテロの蔓延・拡散が歯止めがきかない状態になった今、日本だけが例外ではいられないと思っていた矢先の今回の事件だった。今回の事件は加害者の障害者への差別と憎悪が引き金になっているようであり、アメリカ・フロリダのゲイバー襲撃テロを想起させる。その背景には、アメリカのトランプ現象、日本の安倍政権に通ずる在特会のレイシズム等の差別扇動があることも指摘しておかなければならない。
いずれにしろ、21世紀のテロリズムは、20世紀のテロリズムが明確な政治目的を持って政治権力や敵対民族を標的としていたのとははっきりと異なり、差別され抑圧され希望への出口を塞がれた若者が、時により弱い立場の無辜の市民のみを標的にしていることが大きな特徴であり、なんともやるせない現実である。

ベーシックインカムこそ唯一の解決策
出口のない資本主義の袋小路ー政治はそれに対してなにひとつ解決策を示し得ていない。そうである以上、これからも意味のない狂気の殺戮は続いていくだろう。いったい解決策はないのだろうか?
私は、ベーシックインカムこそ、その解答だと思っている。死に瀕した資本主義は、幸い、先進資本主義国のみならず、全世界が十分に食べて暮らしていけるだけのモノとカネとそのための生産手段をもたらしてくれた。問題はそのモノとカネの偏在だ。それを最も合理的に再分配する手段こそ、ベーシックインカムにほかならない。
すでに欧米諸国ではベーシックインカムが理論の段階から実験の段階に進み、今後10年以内、早ければ数年以内に、最初のベーシックインカム実施国が登場するだろう。
ベーシックインカムこそ、不条理と反知性が支配する現状にくさびを打ち込み、危機の資本主義をポスト資本主義へとソフトランニングさせていく希望の架け橋の役割を担っていると私は確信している。

格安スマホ体験記-「安かろう、悪かろう」で使えない! [etc.]

安倍政権が携帯料金引き下げを指示し総務省指導の下に行政介入しているというニュースが賛否両論を引き起こしているが、この一連の動きは大手3社の料金引き下げとともに、いわゆる格安スマホの普及を後押しする狙いもあるそうだ。格安スマホが登場して2年以上経つが、未だシェアは2%に留まるという。2年近く前に真っ先に格安スマホを使い始め、2社のスマホを使ってきた私の経験からすると、ひと言でいって「格安スマホは安かろう、悪かろうで使えない」。せいぜい、「スマホ入門編」として半年とか1年限定使用のつもりで試すなら別だが……。
私が格安スマホを使うようになったきっかけは、それまで長年使い続けてきたソフトバンクの3Gガラケーが、岡山に引っ越してから通信状態が悪くてつながりにくくなったからだった。しかしLTE回線のスマホに乗り換えるには料金が高すぎて二の足を踏んだ。
そんな時目にしたのが、当時注目され始めた格安スマホの中で、機種代込み(2年分割)で約2千円で使えるフリービットモバイルPandAだった。といってもこの場合、電話は050のIP電話しか使えず、3G回線の携帯電話はオプションで千円ほど高くなる。私は電話をあまり使わず、仕事もほとんどネットで済ますことが多くなっていたので、家には固定電話もあるため、オプションはつけずに契約した。
ネット注文で契約し取り寄せたのが昨年2月のことだった。私は家で仕事をしており、家にいるときはWi-Fiを使うし、外でつなぐときのNTTFOMAの回線もイライラさせられるほど遅くはなかた。そこで私はLINETwitterインストールし、1年以上は不自由なく満足に使ってきた。周囲の人にも格安スマホを勧めるほどだった。
もっとも、初めてスマホを使う私は、当初操作に慣れないこともあり、電話がかかってくると慌ててポケットから取り出し、電話に出ると音声が出ないといったことが何度かあり、サポートセンターに聞いたところ、工場に送るよう指示された。それで1週間ほど不自由をしたのだが、結果は異常なしということでそのまま戻ってきた。いろいろ原因を考えてみたが、どうやら慣れないため誤操作をして機内モードになってしまったことに気づかなかったようだ。工場に送るときに電源を切ったため、リセットされて直ったようだった。スマホも考えてみればコンピューターだ。パソコンだったら不具合が起きれば真っ先に再起動するものを、我ながらうかつだったと反省した。それ以上に、サポートセンターのオペレーターが真っ先にそのことに気づいて適切に対処していれば、即解決していた問題だった。しかし私は、会社自体できたばかりでサポート体制もまだしっかりしていないからだろうと好意的に受け止めた。
しかし、転機が訪れたのは今年の6月頃のことだった。私は事情があってネット環境をそれまでのNTTからWiMAX2に変えることにした。すると光電話もやめることになるので、電話はスマホのIP電話だけになってしまう。これがまだ使い物になればいいのだが、LINE電話同様、音声に時間差が生じる。家族や友人と話をする程度ならかまわないが、仕事では支障が生じる。そこで、3Gの携帯回線がどうしても必要になったのだ。
当初の契約では、オプションを後から変更することはできなかったのだが、フリービットモバイルは今年3月、TSUTAYAを運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に吸収合併される形でトーンモバイルに社名を変えていた。そこで私は、「もしかしたら規定が変わって3Gオプションを後からつけられるかも」と思いサポートセンターに電話をしたところ、案の定、店舗へ赴けばその場で3G電話をつけられることが判明した。しかし、いずれ全国のTSUTAYAに店舗展開する予定というものの、その時点でTSUTAYAに併設されている店は全国で数えるほどしかなく、岡山にいちばん近いところでは、瀬戸大橋を渡った香川県の宇多津店が7月に開店するということだった。

7024.jpg

TSUTAYA宇多津店

私は開店を待ってさっそく往復2時間以上、JRの運賃だけでも2千円以上かけて宇多津店へ赴いた。もちろん、それだけの労力を使っていくのだからくれぐれも手違いのないように、サポートセンターにも、宇多津店にも確認の電話を入れ、「私の機械はフリービット時代の古い機種だが大丈夫か?」と念を押し、大丈夫との言質を得ていた。
ところが店に到着するやいなや、私の持っている機械はPandAでも初代の機種で後続機とSIMカードのサイズが違うことが判明! この機種の場合、フリービット時代からの店舗である博多名古屋の店でなければオプションをつけられないと言う。ふざけるな! 私は怒りを通り越して文字どおり気分が悪くなってしまったのだが、NTT光をやめてWiMAX2に変えることになった事情(既に解決済みのことなので、ここで公表して蒸し返したりしないが)で消耗しきっていたこともあり、「せめて交通費だけでも実費補償しろ!」との真っ当な要求も受け入れられないまま、まる1日を棒に振り岡山に戻ってきたのだった。
その場ですぐ解約することもできたのだが、2年縛りのせいで、そうすると来年2月まで解約を待つより損をするので、放っておくことにした。問題は3G電話をどうするかだ。初めガラケーにしようかとも思ったが、いろいろ調べた結果、かえって格安スマホの方が安いことが分かり、縛り期間のないイオンスマホを契約することにした。
LINEやTwitterはPandAを使い、2年の契約期間が切れてもその後は単なるコンピューターとして使い続けられるので、2台目のイオンスマホはとりあえず電話だけ満足に使えればよかった。イオンスマホの場合、機種を何種類かの中から選べるのだが、いちばん安いgeaneeという中国製の機種が、それまで問題なく使えてきたPandAと同じ会社のもので形もほぼ同じだったので、機種代を即金で払い、月々千円ほどの料金でイオンスマホを使うことになった。

P1050096 (640x480).jpg

PandA(左)とgeanee(右)

それで一件落着したかに思えたのだったが、そうは問屋が卸さなかった。9月になって、PandAのSDカード装着部分の接触不良でトーンモバイルの方が満足に使えなくなってしまったのだ。こちらは古いアンドロイドバージョンだったせいで、プリインストール以外のアプリはSDカードへ移動できる。だから、LINEもTwitterも不自由なく使えていたのだが、SDカードが使えないとたちまちパンク状態になってしまう。
そこで当初の計画を変更して、イオンスマホのgeaneeにLINEとTwitterを移して使い始めた。それと同時に、プリインストールされていたメールソフトも使い始めたのだが、これがくせ者で、一度削除したメールが次に着信メールを受信すると延々と表示され、削除しても削除してもそれが繰り返される。結局分かったことは、パソコンのネット上でプロバイダーのページから受信メールを完全に削除しない限り、その現象が解決しないということだったので、自分の判断で無料メールソフトをインストールして、プリインストールのアプリはアンインストールした。
さて、そこからが本題なのだが、しばらく使えていたgeaneeがすぐに使えなくなってしまったのだ。ある朝起きてスマホを開くと、まるで外部からリモートコントロールされているように、勝手にアプリが開いて意味不明の文字を入力するわ、カメラが起動してシャッターを押すわ!!最初は、てっきりアカウントを乗っ取られたと思った。しかし、ネットで調べてみると、キャッシュが貯まっていたりするとこういう現象が起きるということで、さっそくクリーナーのアプリを入れてクリーニングをしてみたら、一時的に改善された。しかし、それもつかの間、すぐにその怪奇現象が起きる。
その間、サポートセンターにも聞いたのだが、要領を得た回答は全く得られず、購入したイオンの店にも行ったが解決せず。その結果、自分でいろいろ考えて、LINEはどうしても必要なので残し、主にiPadで使用しているTwitterをアンインストールしてみることにした。すると、これで少し軽くなったためか、3、4日は何ごとも起こらずに経過した。(やれやれ)
ところがところが、昨夜あるアプリを試しに入れてすぐ消して寝たところ、それが災いしたのか、今朝起きたらまたスマホがらんちき騒ぎ! もうこうなったら機械を交換してもらうしかないと、イオンの店に直行したのだが、手続きはサポートセンターを通してしかできないと言う。私は万一のことを考え、さっそくその場でサポートセンターに電話したところ、「安心補償パック」に入っているので機種交換には応じるが、2千円近い手数料がかかるという。ふざけるな! そんな金払ってまでgeaneeなんて欲しくない!もうやめたる!
かくして私の格安スマホ人生は終止符を打つことになったのでした。
私はその足で隣接する携帯会社へ赴き、いちばんお得なコースを尋ねた。すると、私のようにWiMAXを持っていてLTE回線を使わなければ、機種はiPhone6で4,500円+電話料金のコースがあるという。私は電話はほとんど受け専用で、こちらから掛けるときはLINE電話を使うことが多いので、電話料金は無視してかまわない。これしかないっしょ!
格安スマホは機械を自分で用意してSIMカードだけ契約するタイプもあるので、その場合はちゃんと用途に合った機械を買えばそれなりに使いこなすことも可能かもしれない。しかし、最近格安スマホとして売り出しているのは、Yモバイル楽天モバイルのように、イオンスマホと同様のサービスだ。実は私の家族が私より一足早くイオンスマホを使い出し、私のより高い機械を買ったのだが、半年ほどではやり不具合が生じている。
重ねていうが、格安スマホは安かろう、悪かろうで使えねえ! これが私の経験に基づく結論です。

亡国記CM.jpg


いじめをスクールハラスメント(スクハラ)と呼ぼう! [etc.]

今から2年前に、いじめ防止対策推進法が成立・施行されたが、その後もいじめやいじめによる児童・生徒の自死が減ったというニュースは聞かない。それどころか、今年に入ってからも、川崎市で中学1年生が高校生らに殺害される事件や岩手県の中学2年生の自死事件など、痛ましい事件が後を絶たない。
それは、相変わらずいじめを「学校の設置者及び学校が講ずべき基本的施策として(1)道徳教育等の充実、(2)早期発見のための措置、(3)相談体制の整備、(4)インターネットを通じて行われるいじめに対する対策の推進を定めること」(同法)等、基本的に学校内の問題としてとらえ、その枠内で解決しようとしているからだ。確かに、「いじめが犯罪行為として取り扱われるべきものであると認めるときの所轄警察署との連携について定めること。また、いじめられている児童生徒の生命又は身体の安全が脅かされているような場合ただちに警察に通報すること」(同)と、警察等外部への通報を最終手段と定めてはいる。だが、実際には深刻ないじめが外部に明らかになるのは、殺人や自死など取り返しのつかない事態が起こってからであることが多い。
かつて、職場における(主に女性への)性的嫌がらせ、上司による部下へのいじめ、女性社員が妊娠・出産によって退職へ追い込まれるような事態は、会社の外へ明らかにされることはなく、被害者は泣き寝入りを余儀なくされてきた。しかし、そうした行為がセクハラパワハラマタハラと呼ばれるようになってから、被害者はその被害を社会へ訴えることができるようになり、犯罪行為は罰せられ、被害者の人権が守られる流れができてきた。
学校でのいじめ問題がいっこうに改善されない最大の原因は、それを学校内の問題、学校内で解決されるべき問題(せいぜい教育委員会に上げられるに留まる問題)と考えられていることによる。
日本のようなムラ社会(≧タテ社会)では、上から下へなされるハラスメントは、当然のごとくその閉鎖集団の内部に隠蔽され、外部に現れにくい。たとえ問題とされるようなことがあったとしても、その内部で穏便に収めようとする。
ハラスメントという横文字の概念は、そうしたムラ社会に風穴を開け、その問題を広く社会一般に共有する回路を拓く。
そうした意味で、自死者を出そうが、殺人がなされようが、それを学校というきわめて特殊なムラ社会の内部の問題として人々に意識させ、その内部で解決することが当然視されてしまいがちないじめ問題を、そうでない社会全体の問題として受け止め解決していくように、システムと人々の意識を変えていくためには、いじめということばをスクールハラスメント(スクハラ)と呼ぶのがふさわしい。
いじめが他のハラスメントと比べても深刻なのは、暴行、傷害、恐喝、強迫、名誉毀損等、犯罪行為として認定されるべきレベルの問題が多いにも関わらず、学校内の出来事だから、被害者も加害者も未成年者だから、というような情緒的な理由によって、それが犯罪として扱われずに済まされてしまうことにある。いじめをスクールハラスメントと呼ぶことによって、そうしたムラ社会的解決方を許さず、小さな犯罪行為も見逃すことなく、犯罪は犯罪として警察に通報して処罰されることによって、いじめ=スクハラは初めて減少に転ずるだろう。
学校内ではそれを「チクる」などと言って卑怯な行為とマイナスのイメージで捉えられがちで、それがいじめの陰湿化と発覚の遅延を招いているが、犯罪行為は罰せられるという社会の当然のルールを学校にも適用しなければならない。そして、犯罪を裁くのは教師でも教育委員会でもない。
さらに、全国の地域弁護士会にも、学校内の犯罪行為や子どもを自死へ追いやるような深刻なスクハラを防止するために、スクールハラスメント110番のような常設の人権救済窓口を設けることが望まれる。いじめられている子どもの問題は、スクールカウンセラーが支援すべき心理的・精神的問題ではなく、また、もしスクールソーシャルワーカーを配置するなら、学校内ではなく、弁護士会の窓口などに配置し、明確に人権侵害問題として扱われるべきだ。

語学を将来に活かしたいと思っている学生の皆さん! 翻訳・通訳に未来はありません [etc.]

グローバル時代の今日、英語はもちろん、3ヵ国語以上できる人も珍しくありません。語学を得意とする学生の皆さんの中には、卒業後、その語学力を活かして翻訳通訳の仕事を目ざしている人もいるかもしれません。しかし、翻訳業・通訳業は斜陽産業です。たとえそんな仕事に就いたとしても、10年後、ましてや20年後もその仕事を続けられるという保証はどこにもありません。
日本語と文法構造の似た韓国語翻訳ソフトが市販されたのは、もう今から20年以上も昔のことです。それから10年ほどして、最初の合理化の嵐が韓国語翻訳者を襲いました。折からの韓流ブームにもかかわらず、その嵐が去った時、多くの韓国語翻訳者は職を失い、残った者も翻訳会社から単価を値切られて、かろうじて命をつないだのです。グローバリゼーションの影響もありました。当時、韓国内の翻訳単価は日本と比べて7分の1くらいだったので、韓国に本拠を置く翻訳会社がインターネットを利用して、大挙日本の翻訳市場へ進出し、仕事をさらっていきました。
英語翻訳の世界も似たような状況です。日本語と言語構造が根本的に異なる英語の場合は、単語の置き換えを基本とする日←→韓翻訳ソフトのようなアプローチがとれず、翻訳メモリという方法論を選択しました。今日、トラドス等の翻訳メモリを用いずに英語の翻訳を行っている人は皆無でしょう。当然、翻訳者のすべき仕事量は減り、翻訳単価も下がります。
通訳業界も同様です。人間の場合、翻訳ができるから通訳も得意とか、その反対ということでは必ずしもありません。私は翻訳は得意ですが、通訳はほとんどできません。同じ言語中枢でも、読み書きする部分と聞いて話す部分では脳の働く部位が異なるのです。しかし、コンピュータにとって、通訳は翻訳の延長、翻訳+音声認識の問題に過ぎません。
2006~2007年の第1次安倍政権では内閣府に「イノベーション25特命室」が設置され、音声翻訳技術の開発に注力されました。当時、NTTのCMに多国籍の若者たちが自動通訳ツールを使って自由に会話する近未来を描いた作品がありましたが、その夢はすでに実現されています。上述した翻訳メモリの方法論を用いて、特に観光分野や日常会話レベルでの多言語自動通訳サービスは複数提供されています。
学生の皆さんの中には、2020年の東京オリンピックや、増加する外国人観光客目当てに通訳者を目ざそうという人もいるかもしれませんが、たとえば東京オリンピックでは、選手団等イベント当事者の通訳業務は、基本的にボランティアの力に頼ることになるでしょう。そして、残りの観光客対策としては、政府も東京都も、交通機関、観光案内所、宿泊施設をはじめとした各施設に、自動通訳システムを設置してナビゲーターの役割を果たさせるでしょう。すでに2008年の北京オリンピックでは自動通訳システムの大規模な実験が行われました。
現在、韓国語翻訳の世界では、第2次合理化の波が押し寄せています。自動翻訳システムは、韓国語に限らず、すでに技術的には頭打ちの段階で、あとはいわゆる「行間を読む」ようなファジーな表現の翻訳も完璧に行えるようなAIが登場するまで、大きな質的飛躍は望めない段階に達しています。現在の合理化の特徴は、従来クライアントと翻訳者をつないでいた翻訳会社の仕事を無にするような破壊的システムの登場です。
通常、フリーの翻訳者は複数の翻訳会社に登録し、案件ごとに請負契約をします。翻訳会社がクライアントから受け取る翻訳料の2分の1とか3分の1が翻訳者に翻訳料として支払われるのです。その代わり、翻訳者が翻訳会社に完成した翻訳を納品すると、翻訳会社では専門のチェッカーがチェックをしたり、語学知識が豊富ではないコーディネーターが訳漏れや文章におかしな点がないかなどを最終チェックしたり、レイアウトや製本まで完成させて、クライアントに納品するのです。
そうした従来の翻訳システムを覆す業者が、ここ最近、相次いで登場してきています。たとえば、S社の場合、会社はクライアントと翻訳者の単なる仲介者に過ぎません。その代わり、スピードと安価を売りにしています。従来、翻訳者が翻訳会社から受け取るのと同じくらいの安価な値段で翻訳を受注します。そして、そのうち実に7割もピンハネして翻訳者に仕事を回します。例えば、A41枚くらいのレターを2,000円くらいで受注して600円くらいを翻訳者に渡すのです。まさに「たばこ銭」という言葉がぴったりの額です。これで翻訳でメシを食っていこうとしたら、月に何百本も受注しなければなりませんが、実際にはそんなに仕事は発生しません。発生したところで、ほかにもライバルがいます。
S社では、ある程度まとまった量の仕事は、翻訳者同士に競争させる入札方式をとります。入札決定要因は値段だけでなく、翻訳者のキャリア等も加味される建前ですが、クライアントとすれば、今の世の中、多少質は落ちても安い方を選ぶでしょう。あとは値切り合戦です。
K社は今流行りのマッチングサイトです。完全に単なる紹介サイトで、利用者は取引金額の3割をK社に支払い、条件交渉その他一切の仕事は当事者同士で行います。ここでも、実際に成否を決めるのは価格です。ベビーシッターのように、可愛いわが子を預けるような場合は、安かろう悪かろうでは困るので、どうしても最後は人物本位で選ぶことになるでしょう。しかし翻訳の場合、いちばんの選択要因は値段です。「出品者」は常に値下げ圧力にさらされることになります。
こうした業態の進出によって、従来型の翻訳会社はいっそう厳しい経営状況に陥ることになります。

翻訳・通訳業の将来を展望した場合、最後まで生き残ると考えられるのは、翻訳では出版翻訳、なかでも文芸書の翻訳、通訳では同時通訳でしょう。しかし、文芸書の翻訳は、プロの翻訳者はほんの一握りに過ぎず、作家そのものになるよりも狭き門かもしれません。そのうえ、前述した本格的な言語AIが登場するれば、ついにお役御免となるでしょうし、それ以前にも、高度に特化した文芸翻訳ツールでなされた一次訳を公開して、Wikipedia方式で不特定多数の人の手を経て完成稿が流布するというような翻訳形式も考えられるかもしれません。
一方の同時通訳に関しては、先ほども述べたように通訳はコンピュータにとってはあくまで翻訳の延長にすぎず、さらに人間にとって逐次通訳と同時通訳の間には、高度な才能と訓練という壁があるのに対して、コンピュータは同時性=リアルタイムこそ真骨頂とするところなので、今のところ日常会話や観光会話を主とする機械通訳が各専門分野に普及した時、壁は瞬く間に越えられるでしょう。同通の命もあと10年かも知れません。

これからの時代は語学をそのまま活かした職業はなくなります。そうではなく、語学を活かして世界へこそ羽ばたくべきでしょう。日本経済そのものが、今斜陽にあります。若い皆さんの才能は、世界中で活かしてください。そのためにこそ、皆さんの語学力はあるのです。