So-net無料ブログ作成
検索選択

石垣島・竹富島 [Photograph]

大変な仕事も一段落し、初沖縄の旅は石垣島・竹富島へ行ってきました。あいにく天気には恵まれませんでしたが、のんびり命の洗濯をしてきました。
●石垣島
P1150432.JPG

サビチ鍾乳洞

P1150439.JPG


P1150464.JPG


P1150483.JPG

吹通川のマングローブ

P1150487.JPG

マングローブの生き物たち

オキナワハクセンシオマネキ.JPG

オキナワハクセンシオマネキ

ミナミトビハゼ.JPG

ミナミトビハゼ

P1150524.JPG

川平湾

竹富島
P1150540.JPG


P1150560.JPG


P1150571.JPG

水牛の牛車

P1150594.JPG


P1150598.JPG

ロボット社会の到来とベーシックインカム・第2部③ー絶対的貧困と相対的貧困の接近 [Post capitalism]

グローバリゼーションが経済先進国の労働者を窮乏化させる
 一方、それと同時に、水野和夫が明らかにしたように、つまり、レーニンが古くは『帝国主義論』で言及した帝国主義列強と植民地との関係、そして、第二次世界大戦後の経済先進諸国の消費社会と経済成長を下支えしてきた旧植民地=低開発国や発展途上国からの安い原材料や低賃金労働力の供給構造が、ここにきて急速に行き詰まりを見せ始めた。1980年代以降、アジア諸国が急速な経済成長を始め、BRICSと経済先進諸国との経済格差が縮まると、今やアフリカ大陸が最後の草刈り場になっている。そして、アフリカ大陸全体が開発され尽くしたとき、経済先進地帯は成長の動力を完全に失うことになるだろう。
 さらに、前述したIT革命は世界の時間的・空間的スケールを縮め、グローバリゼーションを加速化した。すでに多国籍企業は20世紀後半から世界経済を支配し始めていたが、グローバリゼーションは経済の国境を融解させた。

FDI.jpg

菊本義治・西山博幸・本田豊・山口雅生著『グローバル時代の日本経済』(桜井書店、2014年)図1-3より転載

1-6.jpg

財務省「本邦対外資産負債残高」より作成


 前の図は世界の直接投資(FDI)を示しているが、1990年代後半以降急増している。図Ⅰ-6は日本の海外直接投資残高で、2015年現在150兆円を超えている。日本企業といっても、今や日本発の多国籍企業であり、その発展は日本の雇用増加をもたらすのでもなければ、収益の果実や税金がすべて日本国内に返ってくるわけでもない。

恋愛もできず、結婚もできず、子どもも作れない
 日本の7分の1の翻訳単価であった韓国の翻訳会社が日本市場に進出すると、韓国と日本の翻訳単価の平準化が起こり、必然的に日本の翻訳単価が急激に下落することになる。同じことが社会のあちこちの分野で起こり、経済先進諸国の労働者の窮乏化が急速に進展する。

z.jpg

「朝日新聞」2016年6月25日夕刊より転載


y.jpg

白河桃子「年収1000万円以上男の「結婚の条件」【1】(「PRESIDENT」2010年8月30日号)より転載

 今や日本でも韓国でも、労働者の4割前後を占める非正規雇用労働者の多くは、「恋愛もできず、結婚もできず、子どもも作れない」状況に置かれている。前の図は年収300万円未満の20代男性は、それ以上の収入の男性と比べて既婚率が極端に低く、反対に「交際経験なし」が極端に多いことを示している。また、下の図は20~40代未婚男性のうち、年収400万円未満の層が全体の84パーセント近くを占めていることを示している。マルクスは『賃労働と資本』のなかで、「労働力の生産費を総計すれば、労働力の生存=および繁殖費となる。この生存=および繁殖費の価格は労賃を形成する。こうして決定される労賃は労賃の最低限と呼ばれる。」(カール・マルクス著、『賃労働と資本』、1891、長谷部文雄訳、岩波文庫版)と述べているが、まさにこの「労賃の最低限」さえも満たさない低賃金レベルに置かれている無権利状態の労働者たちが、21世紀の経済先進国に増殖しつつあるのだ。
 資本の有機的構成が高度化しても、それをカバーしてあり余る経済の高度成長が労働力を吸収し労働者を豊かにしていた時代は終わり、今や労働者の掛け値なしの絶対的窮乏化が進行している。

絶対的貧困と相対的貧困の接近
 こうした過程は、前述した資本主義周縁部の消滅過程とともに、すでに進行しつつある。その結果、先進資本主義諸国では大衆消費社会は終わり、分厚い中間層はやせ細って貧富の格差が拡大した。先進国の労働者の賃金は途上国の労働者の賃金と平準化していき、仕事の絶対量も減少し続ける。それでも完全失業率が急上昇しないのは、フルタイムの正規雇用をパートタイムやアルバイトの非正規雇用で置き換えたり、ワークシェアリングなどによって見せかけの就業率を保っているからにほかならない。また、低下した賃金水準は労働者全体に及ばないよう、非正規雇用労働者や移民労働者、女性労働者等、弱い階層に押しつけることによって、彼らを「労賃の最低限」以下のレベルへ追いやり、相対的貧困問題を低開発国や途上国の絶対的貧困問題と質的にあまり変わりのない程度の生存権の問題にまで深刻化させる。
 経済先進諸国の格差の問題は、アメリカ、日本、韓国等、従来から社会福祉が貧弱だった国々でいっそう深刻であるが、前述した問題は北欧福祉国家でさえ免れ得ない。なぜなら、社会福祉政策はワークフェア(労働を条件として公的扶助を行うべきであるとする考え方)を原則とし、障がいや高齢によって働けない者以外には「働かざる者食うべからず」の不文律を前提としているからだ。

迫り来る資本主義の終焉
 資本主義は経済成長を前提としたシステムだが、経済先進地帯では、今や市場原理にまかせた自然な経済成長は望めなくなっている。また、たとえわずかな成長を達成したとしても、富はすべて1%の富裕層に集積し、99%の人々はますます貧しくなり、貯蓄はおろか、ムダな消費をする余裕すら失いつつある。
 上位1%に集中したお金は行き場所を失い、一部は金庫の中やメガバンクに退蔵したり企業の内部留保として留まり、残りはマネーゲームに投じられて実態のない金融経済が肥大化する。

h.jpg

「しんぶん赤旗」2016年2月4日


赤字国債を乱発して財政出動し、公共投資を行っても、大部分が大手ゼネコンなど大企業の懐に消え内部留保をいっそう増やすだけで、一時的に失業率が緩和しても、決して経済の好循環をつくりだして経済成長に結びつけることはできない。資本主義は解決不可能なアポリアに陥っている。
 このまま今の経済システムを延命させたら、10年後、20年後の世界はどうなってしまうのだろうか?
 中国、インドを含めたアジア諸国はもちろん、アフリカ諸国もある程度の経済成長は達成するだろうが、貧富の格差はよりいっそう広がり、経済成長の恩恵を受けられる層はごく限られたものになるだろう。栄養失調や疾病による生死に関わる絶対的貧困は解消されるだろうが、代わりに深刻な相対的貧困問題に直面するようになるだろう。
 日本を含む経済先進諸国では、生産活動・経済活動のより多くの部分をロボット・コンピューター・AI等が担うようになり、街には膨大な数の失業者が溢れかえることになるだろう。一方、農漁村部ではそうした経済活動とは断絶し、ごく限られた地域で循環する自給自足型地域経済によって自然と共生する一群の人々が生活することになるかもしれない。
 いずれにしろ資本主義は破綻し、世界は混沌とした時代を迎えることになるだろう。

ロボット社会の到来とベーシックインカム・第2部②ーロボット労働と絶対的過剰人口 [Post capitalism]

労働力商品
 ところで、マルクスは資本主義における賃金労働者の労働力は商品だと述べた。労働力商品論だ。最近この「労働力商品」という言葉は否定的ニュアンスに解釈されることが多いが、マルクスは資本主義経済の下で人間労働は「商品」として物象化される、ないしは疎外される、だからこそ、社会主義革命によってそうした商品としての労働は本来の尊厳を取り戻し、誰もが自分の仕事に誇りとやりがいを見い出すようにならなければならないという理論(労働の資本からの解放)の下、労働力商品という言葉を歴史的に限定された用語として用いたのだ。私たちも資本主義経済の下、賃金奴隷として自らの労働力を商品として売る以外に生きるすべがない大部分の労働者の現状を直視する必要がある。
 そして、労働力が商品である以上、その価値、価格は市場原理によって決定される。好況期に労働力不足に陥れば、あるいは成長分野のある部門の働き手が足りなくなれば、その労賃は当然上昇する。半面、不況期に突入したり、構造的な不況業種の労賃は下降する。また、商品市場においても政治的要因や自然要因等、様々なファクターが価格決定を左右するように、例えば前述した労働組合の存在が賃金決定に一定の影響力を行使する。同一業種でも、労働組合のある企業とない企業では、一般的に前者の方が同一労働・同一職種でも賃金が高くなる。

1-2.jpg

労働省『毎月勤労統計調査報告』
伊代田光彦著「戦後日本の分配率変動と実質賃金率」第2表より作成
 図Ⅰ-2は戦後の高度経済成長期の実質賃金上昇率を表したものだが、特に60年代後半から1973年のオイルショックまでの期間、高い上昇率を示している。

イノベーションは絶対的過剰人口を生む
 1989年、ベルリンの壁が壊され、ソ連・東欧社会主義圏が崩壊すると、それまで成長を続けてきた資本主義体制はソ連・東欧諸国をも飲み込み、永遠の繁栄を約束されたかに見えた。
 しかし、皮肉にもまさにこの時期、社会主義に勝利した資本主義の自壊が始まった。折から先進資本主義諸国で始まったIT革命は、それまでの資本主義的生産様式を突き崩し、それを破壊する役割を担っていた。*、**
*たとえば、20世紀末の1992年に、「日本における情報通信サービス・製品の市場規模は、電気通信サービス約七・九兆円、放送サービス約二・八兆円、情報サービス約七・一兆円、放送を除く情報メディア約五・七兆円、電子機器約二一兆円(うち通信機器約二・八兆円)、合わせて総計約四五兆円に達し、自動車産業の市場規模にほぼ並ぶまでになっている。」(伊藤誠・岡本義行編著『情報革命と市場経済システム』富士通経営研修所、1996年)
**ケインズ主義的経済政策に取って代わって新自由主義が登場するのもちょうどその時期で、1980年を前後して、イギリスでマーガレット・サッチャー首相、アメリカでロナルド・レーガン大統領が誕生した。(日本でもそれに続いて中曽根康弘内閣が誕生した。)こうして、ヨーロッパも含めて、社会福祉の見直し、規制緩和、民営化等、新自由主義的経済が浸透していくことになる。日本でも〝中曽根臨調〟のもと3公社5現業の見直しが進められ、1987年には国鉄が民営化されJRグループが誕生した。また、最初の労働者派遣法が制定されたのは、1986年のことである。
 何故か? 資本主義経済において技術革新は、前述したように生産力の高度化をもたらし、それは新たな革新分野に失業者を吸収し、経済成長をもたらしてきたが、IT革命におけるイノベーションはそのような経済の循環構造を逆に断絶する。つまり、IT革命におけるイノベーションによってもたらされた新たなシステムは、基本的に人間労働を吸収するどころか排除する。相対的過剰人口は絶対的過剰人口に転化する。*

労働時間.jpg

失業率.jpg

*バブル経済が崩壊するまで、日本は経済先進国のなかで長時間労働と失業率の低さが際立っていた。しかし、バブル崩壊後の1990年代以降、労働時間も失業率も「先進国並み」になった。(上図)
「第4次産業革命」という言葉も用いられているが、現在直面している革命は、資本主義の一段階を画するような「産業革命」ではなく、資本主義そのものを死へと導く文明史的時代の転換を画する「ポスト資本主義革命」の始まりなのだ。

ついに「ほんやくコンニャク」が実現する
 翻訳産業にもたらされた翻訳ソフトや翻訳メモリ*は、翻訳産業に新たな労働力を呼び込むことはなく、反対に多くの翻訳者から仕事を奪う。
*日本語と文法構造の異なる英語等の翻訳に用いられている機械翻訳システム。翻訳データを蓄積することにより、類似構文、類字用語の文章を原文に当てはめて翻訳作業の効率化を図る。インターネットの発達により情報量が増えれば増えるほど、より効率的な翻訳作業を実現し、翻訳者の作業はコンピューターの下請け作業、単純労働化する。
 週刊東洋経済Eビジネス新書『技術革新は仕事を奪うか』のなかの東京大学大学院准教授・松尾豊へのインタビュー「AIが変える仕事の未来」では、2015年12月にカナダ・トロント大学でドラえもんの「ほんやくコンニャク」の実現に向けたAI技術の衝撃的な発表がなされたことが述べられている。
 それによると、例えば英語を入力するとAIがその内容をイメージし、それを日本語に置き換えるという。つまり、「「飛行機が晴れた空を飛んでいる」という文を入力すると、AIが本当に飛行機が飛んでいる絵を描く。「雨の中を飛んでいる」に変えると、雨っぽい背景に変わる。人間が物語を読みながら頭の中でイメージするのと同じだ。」「自動翻訳機能の技術的に難しいとされていたところは、これによってかなり突破されてしまった。」
 10年ほど前、「機械翻訳が翻訳者を駆逐する」という強い危機感をもってある英語翻訳ソフトを出しているIT企業を取材したとき、担当者が「英語←→日本語のこれ以上正訳率の高い翻訳ソフトを実現するには、本格的なAIが開発されないと難しいでしょうね」と言っていたのを思い出す。そのときがついにやってきたのだ。松尾は、実用化は今後10年前後で可能だという。
 そのときには、韓国語はもちろん、英語、中国語等、主要言語の翻訳者は書籍翻訳者も含めて、いよいよ完全に失業することになるだろう。それどころか、人間にとって翻訳と通訳は脳の別の分野を使う異なる作業だが、コンピューターにとって通訳は〈音声認識+翻訳+音声出力〉に過ぎないので、高度な技術と訓練を要する同時通訳者の仕事まで一気に奪うことになる。

人間はロボットの「代替可能商品」
 オートレジの普及は、そのうち無人のコンビニや無人スーパーを生み出すだろう。*いや、現在でも無人コンビニや無人スーパーを作ることは十分可能だが、それにかかる設備投資の額よりも、最低賃金ぎりぎりで雇うことのできるアルバイトやパート労働者を使った方が安上がりなので、オートレジが急速に普及しないだけの話だ。現にバブル経済崩壊後に金融業界が再編されたころから、銀行の無人ATM設置ヶ所が急速に増えるとともに、銀行の支店や出張所がどんどん統廃合されていった。
*「コンビニで私たちが店員さんと交わす会話は、せいぜい十秒ぐらいの長さだろう。この程度の内容と長さの会話を実現するだけであれば、おそらくアンドロイドで十分間に合う仕事だと思う。そう考えると、アンドロイドが成り代われる人間の作業は、私たちの暮らしの中にいくらでもある。」(石黒浩・池谷瑠絵著『ロボットは涙を流すか』PHPサイエンス・ワールド新書、2010年)  いわば人間の労働は今やロボットやコンピューターやAIに従属する「代替可能商品」にまで貶められた。

ペッパーが接客業における人の優位性を凌駕する日
「SankeiBiz」2016年6月6日の「AI新時代、奪われるヒトの仕事 執筆・接客代替、弁護士ですら置き換わる?」という記事に、以下のような文章がある。
「ネスレ日本(神戸市)は2014年末からソフトバンクグループの人型ロボット「ペッパー」を家電量販店の売り場などで接客に使っている。ソフトバンクによると、導入店舗の売り上げは15%伸びたという。ペッパーの導入以前は店舗ごとに接客のアルバイトを雇っていたが、人件費がかさむため、対象店舗は立地の良い数十カ所に限られていた。既に約150台を導入したが、数年以内に1000台まで増やす計画だ。
 ソフトバンクによると法人向けリースの場合、ペッパー1台当たりの導入費用は月5万5000円。仮にアルバイトを1カ月(30日)にわたり1日8時間、時給1000円で雇った場合、月24万円の人件費が必要となる。アルバイトを1人雇う代わりに、ペッパーを使えば月18万5000円のコスト削減が可能となる。顧客情報を蓄えたビッグデータを基に、ペッパーが個人の嗜好(しこう)に応じたきめ細やかな対応が可能になれば、接客業における人の優位性も失われかねない。」
 アメリカIBMの創始者トーマス・J・ワトソンの名をとった同社のコンピューター「ワトソン」はAI技術を用いて、「言葉を単なる文字列として把握するのではなく、自然言語処理によってその意味まで理解できる」(前掲『技術革新は仕事を奪うか』中の「ロボットが同僚になる日」)という。そして、近いうちに「ワトソン」を搭載したペッパーが発売されるらしい。そうすると、ペッパーはより「人間的」な接客が可能になり、ただ人間的であるばかりでなく、完全に「接客業における人の優位性」を凌駕することになるだろう。

ロボットが家事労働を代替
 さらにいえば、AI、ロボット等は家事労働も完全に代替するようになるだろう。戦後の家庭用電化製品の普及が大衆消費社会を実現し、主婦を家庭から解放して労働市場に送り出したことはすでに述べたが、近年のお掃除ロボの普及やIoT化は、あらゆる家事労働から人間を解放することになるだろう。イギリスのモーリーロボティクスが開発した全自動調理ロボットは2千食のレシピをこなす優れもで、2018年ころに発売予定だという。
 20世紀後半にはフェミニズムの観点から「家事労働に賃金を」という主張がなされた。私はそれ自体、資本主義的発想に縛られた逆立ちした論理だと思っていたが、今や賃金労働がロボットに奪われる時代を迎えて、「家事労働をロボットに」がフェミニズムの新たなスローガンになるのだろうか。
 しかし、資本主義的イデオロギーの枠内にあったフェミニズムは、女性の社会進出=労働参加を求めるあまり、家事労働のなかに育児労働まで含め、託児施設や保育施設を社会に求めてきたが、人間が真に賃金労働から解放されたとき、逆に育児は労働であることをやめ、男女を問わずひとつの〝自己実現〟、あるいは本来の人間らしい営み=仕事に姿を変え、ロボットに預けるべき対象であることを忌避するのではないかという気もする。子をつくり産み育てる行為は、人間の動物的本性に根ざした最も根源的な存在意義=種の継承に関わることだからだ。そこまでロボットや未来のテクノロジーに委ねることは、労働力の商品化から取り戻した人間性をかえって毀損することになりかねない。

単純労働から高度な専門職までロボットが代替
 私が、翻訳の仕事が急激に減って大打撃を受けたころ、疑問に思ったことがひとつある。それは、コンピューターが本来苦手とするファジーな言語を対象とする翻訳さえ翻訳ソフトが急速に普及し、今や翻訳者を駆逐しつつあるというのに、コンピューターが当初電子計算機と呼ばれたように、本分とする計算作業を基本とする税務申告ソフトがなぜ開発されないのだろうか、という素朴な疑問だった。私も翻訳の仕事がうまくいっていた一時期、事業を法人化して毎年青色申告をしていたことがあるのだが、自由業時代の白色申告とは比較にならないほど申告作業は面倒で、素人には太刀打ちできないものだった。かといって、税理士に依頼する余裕もなかったので、毎年適当に書き税務署で係の人に聞きながら訂正して提出していたのだが、当時会計ソフトはあっても、税務申告ソフトは存在しなかった。
 フリーの翻訳者には組合のような組織は皆無だ。だから、仕事をもらう翻訳会社に仕事量も単価もいいなりになるしかない。また、日本翻訳連盟という業界団体はあるが、各翻訳会社は最大手でも従業員数百人規模で、大部分は従業員数名~数十名の中小零細企業だ。政治的発言力もほとんどない。
 一方、税理士の場合は税理士会という強力な組織を持っている。政治力を利用して、会計ソフト会社に圧力をかけ、税務ソフトの開発に待ったをかけていたとしても不思議ではない。実際、当時ある用件でどうしても税理士の力を借りなければならないことがあり、ある税理士事務所に行ったことがあるのだが、事務所内の事務はすでにIT化されていて、こちらの依頼事務をたちどころに解決してくれた。
 それから10年以上経つが、今では青色申告ソフトが市場に出回るようになっている。個人経営、小規模経営、ベンチャー企業などが多く利用しているようだ。そのうえ、無料ソフトさえネット上で手に入る。
 一方、税理士の方も手をこまねいて見ていたわけではなく、クラウド会計ソフトを導入して企業とオンライン化し、合理化・価格引き下げで生き残りに賭けているようだ。「10年後には税理士などいらなくなる」という話も、業界では人口に膾炙されているらしい。十数年前の韓国語翻訳の世界と似たような状況か? 「使い物にならない」初期の翻訳ソフトも、当初は翻訳者が翻訳支援ツールとして有効に活用していた。しかし、結局は使いこなしていたソフトに、今や翻訳者自身が低賃金で使われ、挙げ句に駆逐されようとしている。(翻訳業にしろ税理士業にしろ、20世紀には「専門職」と呼ばれ一定程度の高収入が保障されていたが、21世紀に入るとコンピューターはそれらの業務から専門性を剥奪し、翻訳者や税理士は単純なパソコン操作によってその業務を補助する「単純労働者」へと変貌させられた。)

Dr.ロボットが診断を下す日
 日本で最大級の圧力団体といえば、日本医師会がそのひとつにあげられよう。医療の現場でも、すでに病院向け電子カルテの普及率は31%に及び、400床以上の大規模病院の場合に限れば約7割に及ぶという(2013年、「日経デジタルヘルス」)。また、先端医療の分野では、手術ロボットの開発も進んでいる。電子カルテの普及も手術ロボットの活用も、病院経営サイドから見れば合理化、病院のステータス強化に役立つものとして積極的に導入されていくのだろうが、こうした医療のIT化、ロボット化がいつか医師そのものの存在を不要にすると気づいたとき、医師や医師会はそれを全力で阻止しようとするだろう。あるいは、静かに進行する革命は、気づいたときにはすでに手遅れになっている、という事態も予想されうる。

p.jpg

手術支援ロボッda Vinci

 例えば、20年後の医療はこんなふうになっているかもしれない。
 日々の健康管理は一家に一台普及している家庭用ロボットがしてくれる。そして、少しでも体に異常があれば、インターネットを通して地域医療センターに情報が送られ、適切に対処される。もし検査が必要と判断されれば、医療センターに行って必要な検査を受ける。もちろん、医療センターはほとんど無人で、検査もロボットの案内に導かれるままスピーディーになされていく。検査結果もたちどころに出て、その結果は、もしかしたらDr.ロボットかアンドロイドのスーパードクターの口から聞かされることになるのかもしれない。万一、手術が必要なときには、当然のことながら手術ロボットが活躍することになる。
 このように、工場内の流れ作業や、スーパーのレジ打ちといった単純労働から、医療といった高度な専門職の分野まで、あらゆる人間労働がロボット、コンピューター、AI等に代替されるようになるだろう。そしてそれらロボットやコンピューター自体、やがてロボットやコンピューターが生産するようになるだろう。

ロボット社会の到来とベーシックインカム・第2部①ー資本主義を終わらせるロボット・AI [Post capitalism]

人間労働が価値を生むとする労働価値説
 私が学生だったころは、まだマルクス主義経済学が全盛時代で、友人たちと、「将来ロボットが人間労働に置き換わることがありうるか?」というような議論を冗談半分でよくしたものだ。答えは当然「否」だった。当時発展のめざましかった工業用ロボットがどんなに発達・普及したところで、マルクスによれば商品の価値を生み出すのは人間労働以外にないのだから、その「ロボットを作るのもしょせん人間労働」という単純素朴な論理だった。
 アダム・スミスやリカードの古典派経済学の労働価値説を基礎にしたマルクスの剰余価値論によれば、生産過程で労働者が自らの労働力の再生産に必要な価値=賃金を超えて生み出される価値が剰余価値である。したがって、生産力が高度化すれば、労働者は相対的にも絶対的にもより多くの剰余価値を生み出すことになる。*
*例えば、「剰余価値の率は、ほかの事情がすべて同じだとすれば、労働日のうち労働力の価値を再生産するのに必要な部分と、資本家のために遂行される剰余時間つまり剰余労働との比によって決まるであろう。したがってそれは、労働者が働いて、たんに自分の労働力の価値を再生産する、つまり自分の賃金を補填(ほてん)するにすぎないような程度を超過して労働がひきのばされる割合によって決まるであろう。」(カール・マルクス著『賃金、価格、利潤』八 剰余価値の生産、1865年、『マルクス・エンゲルス全集16』大内兵衛、細川嘉六監訳、大月書店、1966年、傍線引用書)
 一方マルクスは、生み出された剰余価値が再び生産過程に投入される際、生産手段(不変資本)に投ぜられる部分が労働力商品=賃金(可変資本)に投ぜられる部分より増大し、資本の有機的構成が高度化するとした。そうすると、相対的過剰人口=失業者が生じ、労働者の賃金も低下する。
 このふたつの理論はどう関係するのか、そして、そもそも剰余価値説や労働価値説は正しいのだろうか?

資本主義の歴史と労働
 資本主義の歴史をざっと振り返ってみよう。
 産業革命によって確立した近代資本主義社会は、新たな機械の発明(=技術革新)によって限りなき経済成長を保障された。しかし、ある工場で新しい機械が導入され生産性が向上すると、同時にそれによって必要なくなった労働者が解雇されることになる。一方、合理化によって生産性向上をなしとげた企業は他企業との競争で優位に立ち、生産規模を拡大することができる。そうして、ひとまわり大きくなった企業は、生産を維持するために新たに労働者を雇う必要に迫られ、労働力を吸収する。同じことが、ひとつの社会レベルでも起きる。技術革新によって生み出された失業者は、生産力を増した社会によって再び吸収され、ひとたび増加した失業率は再び減少する。また、資本主義社会はほぼ10年周期で景気循環を繰り返してきたが、不況によって解雇された労働者は、景気が好況へと向かえば、再び雇用されることになる。
 この景気循環は、当初は恐慌というドラスティックなかたちをとって現れたが、経済がグローバル化し始めると、ついに世界恐慌という深刻な事態を招いたため、ニューディール政策によって修正が図られた。
 その間、労働者階級の生活はどう変化したか? 資本主義の成立期、農村から都市へ流入して工場労働者となった人々の暮らしは、若き日のエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で描いたように、悲惨きわまりないものであった。しかし、19世紀後半に国際共産主義運動と労働組合運動が高揚し、労働者の賃上げ闘争や権利獲得闘争が盛んに行われるようになると、資本の側も一定の譲歩をせざるを得なくなる。*またこの時期、欧米列強による植民地争奪戦が激しさを増し、植民地からの安価な原材料の流入が、欧米諸国の労働者の生活改善を後押しすることにもなった。
*例えば、合衆国カナダ職能労働組合連盟が1886年5月1日に8時間労働制を要求してストライキを行い、第二インターナショナルの決議を経て、1990年5月1日に最初のメーデーが敢行された。
 そして、第二次世界大戦後は、ケインズ主義と社会民主主義の結合による社会福祉政策が労働者階級の生活をよりいっそう向上させることになる。そして、それを可能にしたのは、戦争によって破壊された経済が急速な成長を遂げたことだった。その象徴的な例が、国土全体が焼け野原と化し、ゼロからの復興を成し遂げた日本の戦後の高度経済成長だった。
 こうして恐慌なき経済の緩やかな循環による成長過程を通して、生産活動を担ってきた労働者階級(ブルーカラー)が大量に第三次産業(ホワイトカラー)へと流入し、彼らを中心に分厚い中流階級が形成されることになった。
 自らの生存と子どもを産み育てること(=労働力の再生産)に精一杯であった労働者の生活は、「より豊かな生活」を求めて消費する大量生産=大量消費の消費社会の到来によって大きく変化した。*
*消費社会の到来は、家電製品によって家族の成員(妻)を家族労働から解放し、彼らを新たな労働力として社会的生産に参加させるとともに、彼らを支えるための様々なサービス業――保育園、ファストフードをはじめとする外食産業、スーパーマーケット等を生み出し、それがまた新たな労働需要を生み出すという循環を成立させた。そうして消費社会が発展していくと、生活に余裕の生じた中産階級は、旅行や趣味等、レジャーで余暇を過ごすようになり、レジャー産業が発達した。

図1-1.jpg

菊本義治・西山博幸・本田豊・山口雅生著『グローバル時代の日本経済』(桜井書店、2014年)の表5-2をもとに作成

 図Ⅰ-1は1960年代から70年代にかけてのテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫、乗用車の販売台数の推移を表しているが、特に60年代後半から70年代初めにかけての増加が著しい。
 こうして見てくると、経済が成長し生産力が高度化すると、不変資本への投資が増加して、労働者階級はますます窮乏化していくというマルクスの理論は、マルクス以降の資本主義の歴史によって完全に否定されたように思われる。

ロボット労働の自立化
 また、生産力が高度化すれば、労働者は相対的にも絶対的にもより多くの剰余価値を生み出すとする剰余価値説に関しても、ひとつの例として、あるスーパーマーケットで10人のレジ係が月給10万円で雇われていたが、レジの半数をオートレジ*にしたため、雇い主は半数の5人を解雇したとしよう。店の経営が厳しくなって半数の従業員が解雇されたのなら、残りの5人の労働が強化され、売上げが維持された場合、5人の従業員が10人分の労働をこなし、2倍に搾取されたことになるが、例にあげたようにオートレジを導入したのなら、オートレジはやめた5人がこれまでこなしていた労働を代わりに行った、つまり人間労働が機械に置き換えられたに過ぎないということになる。これは工場における産業用ロボットのケースを考えても全く同じである。
*人間労働を補助する単なる機械でなく、人間労働に代わってある工程を人間労働抜きに自律的にこなす機械をロボットと定義すれば、オートレジもATMも自動改札機もロボットと考えることができる。
 つまり、オートレジの導入は労働者の生産性を上げ、より多くの価値を生み出すようになったのではなく、オートレジが人間労働に置き換わったのだと考えなければならない。つまりこれは、剰余価値に関するマルクスの学説を否定するだけでなく、人間の労働のみが商品価値を生むという労働価値説自体も、ロボットの自立化とでも呼ぶべき現象によって破綻したように見える。
もはや時代は、「ロボットが人間の労働に取って代わる」現実を、覆い隠しようもなく私たちの前に突きつけている。
(続く)

(最終回)ロボット社会の到来とベーシックインカム⑨相手を殺す武器ではなく、共に生きるBIを! [Basic income]

現物支給のベーシックインカム
 完全なベーシックインカムが実施された後に始まるポスト資本主義社会では、賃金労働が消滅するため、それと同時に貨幣もその歴史的使命を終える。人々は、ロボットが生産する十分な消費財を必要に応じて〝ただで〟消費することができる(この意味でポスト資本主義社会は、マルクスのいう高度の社会主義社会=共産主義社会と似ている*)。そしてこのとき、ベーシックインカムは貨幣による支給から現物支給になるだろう。
*マルクスは共産主義社会の低い段階(社会主義)では「各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」が、共産主義社会の高度の段階では「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」とした。(カール・マルクス著『ゴータ綱領批判』1875)
 しかし、だからといって、人々は必要以上に、欲望に応じて消費することはできない。その意味で、ベーシックインカムの基本理念はポスト資本主義社会でも維持されるであろう。
 なぜなら、ポスト資本主義社会でも、誰にでも手に入れることのできる財と、そうでない財とがあるからである。もちろん高度に発達したポスト資本主義社会では、現在と比べて自由に手に入れることのできる財の種類と量は増えるであろうが、それでも、特に先端産業に関連する財やサービスは、誰でも手に入れることはできないであろう。
 たとえば、50年後の社会では、月旅行は誰でも行けるようになっているだけでなく、レジャーとして誰でも行く権利を有しているかもしれないが、火星旅行はまだ誰でも行ける段階ではないかもしれない。あるいは、火星までは行けても、木星や土星旅行は限られた人しか行けないかもしれない。
 また、もっと先の未来社会では、バーチャルなタイムマシーンは開発され実用化されて誰でも利用可能なものになっているかもしれないが、リアルなタイムマシーンは実用化にこぎつけたばかりで、タイムトラベルはごく一部の人々にしかできないかもしれない。

人類の文明が生み出した殺人・戦争・犯罪
 動物の世界でも、食料の豊かな環境では、ひとつの群れ、ひとつの種のみならず、異なる種の間でも争いが生じず、平和な共存・共栄関係が生まれる。反対に、食料の乏しい環境下では、厳しい生存競争が生じ、環境に適応できる個体、環境に適応した種のみが生き残る。
 一方、霊長類のうち集団生活を営む種は、ボスザルを中心に厳格な順位を形成し、また食料をめぐる群れ同士の争いも絶えない。人類の場合、武器を発明したことと、文明を生んだことにより、その習性が局限化して、他の動物ではほとんど観察されない集団内の無益な殺し合い、集団同士の殺戮=戦争、そして極端な階級社会を生んだ。
 資本主義社会はその人類が到達した極限的な文明の形態であり、したがって、ひとつの社会のなかにおける殺人を含む犯罪が激増し、*戦争は核兵器を頂点とする近代兵器による大量殺人をもたらした。そして階級社会は一方で飢餓と疾病の蔓延、他方に途方もない富の集中をもたらした。
*犯罪の多くはお金が関係している。万引き、すりといった犯罪から、保険金がらみの殺人、強盗等々、犯罪の多くはベーシックインカムの導入によって激減することだろう。

o.jpg

(図1)

n.jpg

(図2)


以上、法務省『平成27年版犯罪白書』より

 図1は「自動車運転過失致死傷等」を除く犯罪が、多かれ少なかれお金がらみであることを推察させる。過半を占める「窃盗」がそうであることは論を待たないが、その他の一般刑法犯でも、家族間や男女間、近隣トラブル等を除いた多くの事件で金銭が関係していることが容易に想像できる。
 図2のいちばん上はその一般刑法犯の内訳を示しているが、「窃盗」「横領」「詐欺」が明らかに金銭がらみであるし、「傷害・暴行」の一定割合も金銭がらみであろう。つまり、一般刑法犯の7~8割は金銭がらみの犯罪と考えることができるのだ。
 また、高齢者の犯罪を見ると、特に女性の場合、圧倒的に「窃盗」、それも「万引き」が占めていることは、高齢者の貧困化を合わせ考えると、決して「精神的問題」でないことは明白だ。

試される人類の英知
 しかし、資本主義は同時に、人類がかつてなしえなかった生産力を手にして、急激に増加した人口にもかかわらず、すべての人々が飢えずに暮らせる食料、すべての人々が健康で文化的に暮らせる生活手段を手に入れることを可能にした。
 今、その資本主義の終末期を迎え、人類の英知が試されている。類人猿の性(さが)を克服できずに、理性ではなく反知性の道を歩むのか、あるいは文明を手にした人類にのみ備わる知性をいっそう磨いて、本能を克服して全人類共生の道を踏み出すのか。
 2001年9・11のアメリカ同時多発テロ事件で始まった21世紀は、一方で「イスラム過激派」のテロとそれに対抗する欧米諸国の〝テロとの戦い〟を生み出すと同時に、西側社会内部でも貧富の格差の拡大=1パーセント対99パーセントの対立・矛盾を、移民排斥やBGLT等マイノリティーへの憎悪・差別等、排外主義的方向へ扇動する極右勢力が各地で台頭している。ヨーロッパ諸国における極右政党の伸張、アメリカ大統領選挙でのトランプ旋風はもちろん、日本会議が陰で蠢く安倍政権の改憲を最終目標とした一連の動きも例外ではない。
 こうした流れが加速すると、世界中で様々な勢力によるテロ事件が続発し、憎悪が憎悪を呼び、世界資本主義は戦争と内戦の混乱のなかで幕を閉じ、暗黒世界への扉を開くことになりかねない。しかし、現代のテロリズムはどんな思想的・宗教的外観を装っていても、そこに若者をはじめとした多くの人々を吸引するブラックホールの中身は、貧困・差別・孤立・絶望等からくるどす黒い憎悪の渦にほかならず、それは日本においては2008年の秋葉原無差別殺傷事件に代表されるような通り魔的犯罪にも通底するものである。
 今こそ人々は理性的に判断し、知性を持って行動し、国内レベル、国際レベル双方にわたる1パーセント対99パーセントの対立・矛盾を、全人類共生の道へと逆転させなければならない。そのために私たちが手に取るべきものは、相手を殺す武器ではなく、相手とともに生きるベーシックインカムという手段である。
 ベーシックインカムは、社会的殺人も世界的戦争もなく、豊かな食料と文化生活を誰もが等しく分かち合うための人類史上最上のシステムを、私たちに保障してくれるだろう。社会福祉が掲げた「ゆりかごから墓場まで」のスローガンは、ベーシックインカムによって労働から分離され、初めて完璧な実体を獲得する。

ベーシックインカムによって差別のない、すべての人間が真に輝ける社会を
 2016年7月26日に神奈川県相模原市の知的障がい者施設で起きた19人の大量殺害事件は、日本社会に大きな衝撃を与えた。犯人の男は「障害者は生きていても無駄」「安楽死させた方がいい」と述べていたという。私は、この事件はひとりの〝狂人〟が起こしたきわめて特異な事件とは思わない。その「優生思想」的な差別意識は、数年前からこの国に顕著になっていた「朝鮮人殺せ!」「国に帰れ!」という排外主義的なヘイトスピーチや、「働かない者が税金を食い物にしている」という生活保護バッシングなどにも通じるものがあると思う。「優生思想」は社会に役立たない者は必要ないという考えであり、その判断基準は労働力として使えるかどうかである。そのように経済観念で人間の価値を判断するのは、実は資本主義社会の普遍的価値尺度であり、近現代民主主義の平等主義は、実はそのような人間の価値の優劣を前提としたうえでの法的担保(=法の下の平等)に過ぎないのだ。
 国民経済が行き詰まったとき、国は国民の批判が自らに向かうのを避けるために、その矛先を外へ向けたり(排外主義)、国民同士を争わせたり(差別・分断支配)する。古くからの国家による国民統治の常套手段だ。
 相模原の凄惨な事件は、バブル崩壊後この国が歩んできた「失われた四半世紀」の果てに現れた排外主義や差別主義が極端なかたちで暴発した例と捉えられ、その根は欧米諸国をはじめ世界中で多発するテロリズムへ若者を駆り立てる怒りや憎悪といった情念にも通底するものだと思う。
 ベーシックインカムのある社会が「働かざる者食うべからず」の社会通念を覆すものであることはすでに述べたが、それは一歩進んで経済に役立つかどうか、労働力として有用かどうという人間に対する価値尺度も根底から覆すものである。
ベーシックインカムのある社会で重要なのは、人が優れた仕事をするかどうか、多くの人々に認められる仕事を残すかどうかにあるのではない。人はただ、生まれてくるだけで生きる意味がある。現在では価値を生まない=労働のできない「福祉の対象」、「社会のお荷物」とまで蔑まれている人々も、生きているだけで意味があり、それどころか何らかの労働をなすだろう。その労働は、家族を和ませることかもしれないし、誰かに愛され、あるいは誰かを愛することかもしれない。いや、周囲の人々を怒らせたり、反発を引き起こし、そのことによって何らかの問題を提起することかもしれない。
そのとき初めて、「優生思想」はその経済的根拠を失い、それに基づいた差別意識もなくなるだろう。
また、世界的なベーシックインカムが実現した暁には、民族対立や宗教対立の衣をまとった排外主義の根拠も喪失するだろう。他民族や人種、異なる宗教を持った人々を憎悪したり蔑んだりする理由が消失するだろう。
ベーシックインカムのある社会では、今までとうてい労働と思われなかったようなことが労働になる代わりに、今では立派な労働であり、その労働によって成り立っているいくつかの「産業」が、消えていくか、規模を大幅に縮小するだろうことは先にも示唆した。毎年のようにモデルチェンジする商品。ゴミとして捨てられるほど生産される食品。ただ時間を埋め広告収入を得るためにだけ制作されるテレビ番組。毎日雨後の竹の子のように登場するゲームソフト。年々増えていく新たな「病名」とそれを〝治す〟新薬。保険業。教育産業。そして「公共事業」等々だ。手段と目的が逆転し、成長のため、金のために無理矢理つくりだされてきた仕事と産業自体が、もはやゴミ箱行きだ。
 その最たるものが原発だろう。だが、こればかりはゴミ処理に何百年もの歳月を要することだろうが……。
 そして、ベーシックインカムが世界的規模で実現したとき、テロという仕事、戦争という産業も消滅することだろ。
 
 日本とスイスのある意識調査によると、生活するに十二分なベーシックインカムが支給されたら何に使いたいかとの質問に、両国ともに目についた回答は「旅行」だった。今は旅行といえばレジャーか趣味としか認められないが、ベーシックインカムのある社会では、旅行は立派な仕事、旅人は立派な肩書きになるかもしれない。
 思えば江戸の昔、松尾芭蕉の仕事は旅だった。ただ彼は、旅をしながら俳句を詠み、それが人口に膾炙したため、彼の名は後世に伝えられることになったのだ。ベーシックインカムのある社会では、無数の旅人たちの中から、後世に残る画家や写真家、エッセイスト、小説家等が生まれることだろう。
(終わり)

(長期連載)ロボット社会の到来とベーシックインカム⑧ベーシックインカムの哲学(2) [Basic income]

自らの仕事を自らの意志で選択する自由
 子どものころ見た子ども向けテレビ番組で、文明の非常に発達した星の宇宙人が登場し、その容姿が、手足が退化して体のほとんどが頭部であるというグロテスクなシーンを覚えている。私たち人類も、あらゆる労働から解放されるとそのような姿に〝進化〟するのだろうか? あるいは無為徒食の果てに、胴体だけが異様に膨れあがった醜い姿に変わるのだろうか?
 しかし、そう思うのは〝労働〟の概念を賃労働=疎外された労働という資本主義社会の〝常識〟でものを見ているからだろう。私たちは、賃労働=疎外された労働から解放されたとき、本当の意味で自分の能力・才能を活かした仕事、やりがいのある仕事をする自由を手に入れることができる。先にも触れたように、それは過渡期社会でベーシックインカムが徐々に導入されていく過程で、人々が少しずつ手に入れていくことができる自由だろうが、完全なベーシックインカムが実現したとき、同時に私たちは自らの仕事を自らの意志で選びとる完全な自由を手に入れるのだ。
「リアル・リバタリアニズム(real-libertarianism)」を主張する哲学者でベーシックインカム世界ネットワーク(BIEN)国際委員会座長を務めたフィリップ・ヴァン・パリースは、「万人への最高水準の無条件所得」、つまりここでいう「完全なベーシックインカム」について、次のように述べる。
「これは,実にラディカルな提案である.リバタリアンやそれに近い人々が狭い自由概念を死にもの狂いで模索しているのに比べてそうであるのみならず,標準的な社会民主主義的立場に比してもラディカルである.標準的な社会民主主義は,できる限り豊かに消費する実質的自由に注目するあまり,できる限り慣習にとらわれずに生きる実質的自由を見失ってしまうことになる.別の立場から見れば,この提案は実に馴染み深いものと見なされるかもしれない.例えば,それは「科学的」社会主義や「ユートピア的」社会主義のような古い資本主義批判のキーとなる要素――すなわち,プロレタリアートの賃労働関係への従属と資本主義のルールに対する反抗――を最もストレートに反映していると見なされる.それはまた,最近の「グリーン」や「オルタナティブ」の諸運動に見られるような,生活の質や自己実現,さらには金銭的なことから離れた個人間関係の維持などを――なるべく多く金を稼ぐよう方向付けられたキャリアによって可能となる物質的欲求の充足をではなく――強調する立場とも協調できる.ただし,万人の実質的自由の提案がこれらの関心を包含しうるのは,それらがリベラルないし非卓越主義的な立場と矛盾しないかぎりにおいてである.この制度的枠組みの提案[万人への無条件所得]が企図しているのは,賃労働や職業中心の生き方をできるかぎり縮減することではなくて,各人に異なる選択をする真の機会を提供するためにできるかぎりのことをする,という点である.」(P.ヴァン・パリース著、後藤玲子・齋藤拓訳『ベーシック・インカムの哲学』勁草書房、2009年、強調引用者)

ロボットと共存しうる文化的活動
 では、そのようにして手にすることのできる〝仕事〟とは、具体的にはどのようなものがあるのだろうか。石黒浩氏は「人と関わり情報交換をするというような仕事」と述べ、また、別のところで、
「真に新しい技術を受容する際には、これまで人間の一部だと思われていたことの変更を必ず伴う……それでも、いったん技術に置き換われば、これはもう明らかに人間の独自性を証すものではない。そこで必然、それ以外のまだ技術で置き換えられずに残っているものに、人間らしさを見出そうということになるわけだ。ここからひとつには、科学技術が発達すればするほど、人間だけに可能な、したがって人間が行うべきことは何かという課題が絞り込まれてくる」(石黒浩・池谷瑠絵前掲書)
と問題提起しているが、私の考えでは、そうした仕事の大部分は、広い意味での〝文化〟に関わるものではないかと思う。
 スポーツ、音楽、美術、文学、演劇等、現在では一部の有能なプロフェッショナルを除いては〝趣味〟として余暇を楽しむものにしか過ぎないそれらの文化活動が、ポスト資本主義社会では人々にとっての大切な〝仕事=労働〟になるだろう。同時に、現在一部の有能なプロフェッショナルによって極度に商業化されビジネス化されて商品化されてしまっているそれらのパフォーマンスが本来の姿を取り戻すことにもつながるだろう。*
*本来「平和の祭典」として始まった近代オリンピックが、商業主義に毒され「国威発揚」というナショナリズムの具とされるに至り、「参加することに意義がある」はいつの間にか「メダルを獲得することに意義がある」ということにされて、そこをめざすことのできる選手は、多くがやはり親が有能なアスリートで幼少期から英才教育を受けて競争に勝ち抜くことのできたエリートたちであり、あげくの果てにそのエリートアスリートらがドーピングで自らの肉体を蝕みながらも「栄冠」を手にする様は、スポーツさえ「疎外された労働」になり得る資本主義社会の狂気の惨状を示しているといえないだろうか。
 もちろん、こうした分野にもロボットやアンドロイドの進出は可能であろう。実際、すでにトランペットを吹くロボットや、振り付けに合わせて歌を歌うアンドロイドが存在する。初音ミクというバーチャルな〝アイドル〟さえ登場している。
 将来、技術的に人間を凌駕するロボットアーチストやアスリートが登場するであろう。しかし、コンピューターがチェスの王者の座について久しいが、そのせいでチェスをやめた人がいると聞いたことはない。それは第一に、文化的活動は疎外された労働と違い、活動そのものがそれを行う者にとって喜びと充実感を生むものであり、また、それを受け取る側も、〝機械〟では得られない〝感動〟をプロのアーチストやアスリートから得ることができるからだろう。そういった意味で、文化活動は、将来ロボットやアンドロイドの様々な形でのそこへの参入はあり得るとしても、反対に人間がそこからロボットやアンドロイドによって駆逐されることはないのである。
(続く)

(長期連載)ロボット社会の到来とベーシックインカム⑦ベーシックインカムの哲学 [Basic income]

自己実現としての「労働」
 平日の昼下がり、あるポストモダンな街の駅前広場――ひとりのストリート・ミュージシャンが無心に楽曲を奏でていた。どこの街角ででも見られるような風景であるが、ちょっと風変わりなのは、その曲がロックやフォークでなく、クラシックであること。青年がシンセサイザーの伴奏とともに電子オーボエのような楽器でひとり演奏していたのは、サン=サーンスの「白鳥」。行き交う人はまばらで、広場ではひと組の母子が時を忘れたように戯れている。音楽はそんな間延びした時空に溶け込んで、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 週末ならいざ知らず、官庁街の昼下がりにそれはあまりに不釣り合いで、もちろん喜捨する人とてない。青年は何のために演奏を続けているのか? それに何の意味があるのだろうか? それは果たして「労働」と呼べるものなのだろうか?……様々な疑問が私の脳裏をよぎった。
 私は今日の昼間、数時間翻訳の仕事をした。それは、納品先の翻訳会社が支払日前に倒産でもしない限り、ほぼ確実に私になにがしかの翻訳料金をもたらしてくれる。そして今、私は夜のしじまのなかでこの一文をしたためている。いくら書いても何の報酬ももたらしてくれるという保証はない。しかし、昼間の労働は収入のための仕方のない義務的な労働であるが、今の作業は何の物質的見返りも保証しない代わりに、書きたい、書かねばならぬという内発力に突き動かされて、ささやかな自己実現を感じさせてくれる。
 昼間の青年の行為も、おそらくそれと似ているのであろう。彼は、夜、食べるために金を稼ぎ、昼間、こうしてあちこちの広場で自己表現をして、その音楽に何か触発される人のいることを期待し、そこに〝科学変化〟を感じたときに自己実現を覚えることができるのであろう。
 私が、ポストキャピタリズムの社会にイメージすることのできる〝労働〟とは、まさにこのようなものである。むろん、それはこうした表現活動、ある種の芸術活動にとどまるものではなく、人によっては先端科学の発展に寄与するような研究活動であるだろうし、また、他の人にとっては、他人の庭を剪定することによってその家の人に喜んでもらえることであるかもしれない。
 とにかく、無償ではあるが社会的に意味のある活動-それがポストキャピタリズム社会の新たな〝労働〟の概念となるのではなかろうか? そして、それこそが商品として疎外された労働から止揚された本来の、あるいは未来の人間労働の姿なのだろう。
 そのポスト資本主義社会への長い過渡期の架け橋の役割を果たすものが、まさにベーシックインカムなのだ。ますます減っていく「雇用」=お金を生み出す労働に対し、人々にベーシックインカムを保障することは、仕事(賃労働)=人間の存在価値という資本主義的概念を破壊し、自分のやりたい創造的活動をすることが自己実現である社会へと価値観を転換していくことに大きな役割を果たすであろう。広場の青年は、金を生み出す労働の量を減らしつつ、食うことの心配をせずに、音楽活動に打ち込めるようになるわけだ。
 そんな近未来社会を幻視させる青年の幻想的な「白鳥」の演奏だった。

ポスト資本主義社会の輪郭を想像する
 ハリウッドのSF映画を見ていると、近未来のアメリカは、高度にIT化されロボットやアンドロイドが活躍するポストモダンな社会が実現されている一方で、ダウンタウンには衛生状態のよくない広大なスラムに、ぼろをまとった人々が群がっているという場面をよく目にする。私は最初、そうした場面をいかにもアメリカ的な描写だと笑いながら見ていたのだが、次第に笑ってばかりいられなくなった。スラムの彼らがどうやって食っているのかは多くの場合不明だが、これぞポスト資本主義社会のリアルな姿なのかもしれないと思えてきたからだ。
 しかし、考えてみれば、数百年ごとに訪れる時代の転換期には、パラダイムの転換が必ず伴うものだ。今日私たちが自明の理と考えている(広義・狭義の)民主主義も、科学的合理主義も、中世社会では全く通用しなかったしろものだ。(日本においては、その民主主義さえ、たかだか半世紀余りの歴史しか持たないのだが。)
 したがって、私たちがポスト資本主義社会を、資本主義社会の常識や固定観念で考えようとしたら、おそらく何も見えてはこないだろう。資本主義社会の先に社会主義社会を構想したカール・マルクスでさえ、工業社会と労働者階級、そして資本主義社会の生産力水準を前提としていたために、それはたかだか資本主義社会の亜種か相補物でしかなかった。そしてまた、現実の社会主義は発展する資本主義を凌駕することができなかったために、その敗北は必然であったともいえる。社会主義は決して資本主義を越えるもの、資本主義の先にあるものではなかったのである。あえてマルクスを擁護しようとすれば、彼は天才であったために、余りに早く〝ポスト資本主義社会〟を構想してしまったのだ。
 しかし、リーマンショックを契機に、いよいよ資本主義が待ったなしの崩壊過程に入った現在、常識や固定観念にとらわれずにその先を見通そうとすれば、私のような凡才にも、ある程度その輪郭を垣間見ることができるかもしれない。

〝成長〟という自転車にまたがった資本主義体制
 資本主義は産声をあげた瞬間から、常に成長することを義務づけられたシステムであった。人類は文明を持った時から発展を続けてきたが、資本主義は単なる発展ではなく、明確に経済の成長を自己目的化し、〝成長〟はその時代を生きる人々に強迫観念のごとく意識にすり込まれた。資本主義はいわば〝成長〟という自転車にまたがったシステムであり、倒れないためには死ぬまでこぎ続ける宿命を負わされているのである。
 そのおかげで、産業革命後の世界は目の回るような経済成長を遂げ、人々の暮らしは加速度的に高度化してきた。本来経済が発展し社会が豊かになることはいいことではあるが、〝過ぎたるは及ばざるがごとし〟である。飽くなき成長の追求は、資源の枯渇、公害、環境破壊等、回復の難しい様々な問題を生み出してきた。そして今、資本主義はすべての事物に始まりと終わりがある通り、終焉を迎えるべき時期に入りつつある。資本主義は200年余りこぎ続けた自転車から、そろそろ降りるべき時期を迎えているのである。
 にもかかわらず、世界はいまだ〝成長神話〟の呪縛から解き放たれていない。例えば、世界人口の約4割、GDPでは世界全体の約半分を占めるAPEC(アジア太平洋経済協力)は、2015年11月にマニラで開催された首脳会議で、「これまでどおりの成長」を続けることはできないとしながらも、「より均衡のある、持続可能で革新的な、かつ安全な成長を追求する」という「2010 年APEC首脳の成長戦略」を再確認しながら、2020 年を期限とする「質の高い成長を強化するためのAPEC戦略」に合意することによって、「均衡ある、包摂的な、持続可能で、革新的で、安全な成長に向けた我々の野心を再確認」した。

〝成長〟〝消費〟という強迫観念からの解放
 〝成長〟とともに資本主義を特徴づけたものは〝消費〟であった。生命体が成長を続けるためには栄養を摂取し続けなければならないように、資本主義社会が成長を続けるためにはモノをつくって消費し続けなければならない。とりわけ資本主義が爛熟期を迎えた大衆消費社会においては、資本主義は成長と消費という目的のために、人々に消費が美徳であるという観念を植えつけ、かつそれを実現するために、〝使い捨て文化〟を生み出した。
 ものを大切に扱い、長く使い続けるという美徳は資本主義の成長の阻害要因であったために否定され、人々はどんどんモデルチェンジして進化していくが決して長持ちしない大衆消費財を買い続けた。
 この時期の人々のライフスタイルは、一生懸命働いて得たお金を、最新のファッション、グルメ、海外旅行などに消費し、ローンを組んででも自動車やマイホームを手に入れるというものだった。そうして手に入れた衣服は毎年新しいものと買い換えられ、食べきれない飲食物は大量の残飯としてゴミになり、ローンをようやく払い終わった自動車は最新型の新車に買い換え、家でさえ30年も経つと建て替えられる運命にあった。
 ポスト資本主義社会は、こうした反省にたって、資源の消費ではなく循環をめざすであろう。〝成長〟という強迫観念から解き放たれさえすれば、むだな消費と決別することは簡単である。現在の(あるいは未来の)技術は、10年着られる上着、20年使える冷蔵庫や洗濯機、30年使える自動車、そして百年住める住宅をつくることが可能なはずだ。むろん技術革新は続くであろうが、現在のように強制的に古いものを廃棄して新しいものに置き換えるのではなく、徐々に置き換えたり新たに追加したり、あるいは古いものを改造する方法だってあるはずである。ポスト資本主義社会はそうした新たな〝循環型文化〟を生み出すだろう。
(続く)

(長期連載)ロボット社会の到来とベーシックインカム⑥ロボット労働の対価を支払え! [Basic income]

日本人の「勤勉」という業病が妨げるベーシックインカム
 しかし、今日日本が経済先進国のなかで、財政赤字、経済成長率、貧困率(特に子どもの貧困)等、様々な面で最悪のレベルにあるという現実をはっきりと認識していない国民が多いなかで、以上のような「革命的」ともいえる改革を選択しうるのかという実行実現性の面から見ると、主要政党のどこもベーシックインカムの導入を掲げていない現実とも相俟って、きわめて悲観的にならざるを得ない。*
*国政政党としては、かつて新党日本がひとり当たり月5万円のベーシックインカムを主張、また、みんなの党はベーシックインカムと似た「ミニマムインカム」を選挙公約に掲げた。そのほか、2013年の参議院選挙に10名の候補者を立てて確認団体として臨んだ緑の党もベーシックインカムを掲げている。その後、2016年の参議院選挙で、生活の党と山本太郎となかまたちは「重点政策」で「最低保障年金のあり方を含め、生活をしっかり支えるベーシックインカム制度の導入を進めます」とした。しかし、日本の国政政党はすべて、「経済成長神話」、つまり資本主義の永続を前提に政策を立案する20世紀型の政党であり、資本主義の終焉という21世紀の世界が直面する事態に正面から向き合い、そこからいかに未来を展望していくかといった哲学も長期的ビジョンも持ち合わせていない。そのことが、有権者の政治離れと諦念を招く最大の要因になっていると私は考えている。

財政・経済破綻が先か、ベーシックインカムが先か?
 あの東京電力福島第1原子力発電所の事故を目の当たりにして、遠くドイツをはじめとしたいくつかのヨーロッパの原発保有国が脱原発を選択したにもかかわらず、当事者であり、かつ世界一の地震国・火山国という最も危険な立地条件にありながら脱原発を実現できなかったニッポンのことだ。
 私は、この国が今後脱原発を実現するには、第2の、しかし破滅的事態に至らない程度の〝フクシマ〟を体験するか、もしくは電力自由化、総括原価方式の廃止、発送電分離等により、旧来の地域独占電力会社にとって原発を維持することが廃炉を選択することより重荷になるか、ないしは新電力の伸張により経営が厳しくなりそれ以上原発を所有する力がなくなるまで(それまで第2の、そして破局的な〝フクシマ〟が起きないことが前提だが)、無理だと思っている。
 ベーシックインカムも同じようなものだ。今後、経済のゼロないしはマイナス成長が続いて1人当たりGDPが途上国並みに下落したり、生活保護受給者のさらなる増加によって生活保護費用がもっと切り詰められる等セーフティーネットが機能不全に陥ったり、年金破綻が取り繕いようもない現実となったり、国民皆保険制度の破綻によって〝医療難民〟が激増したり、あるいはシングルマザーや子どもの貧困率がもっとひどくなり、子どもたちが学校に通えなくなるどころかストリートチルドレンが街に溢れる等々、相対的貧困というより絶対的貧困といった方がふさわしいような状況に至ってようやく、「日本も欧米諸国や途上国に広がっているベーシックインカムを真剣に検討しよう」という雰囲気が醸成されるようになるのかもしれない。あるいは私がここで提唱した「積極的デフォルト」を選択するより先に、財政破綻が決定的になり、現実的にデフォルト的状態に陥って取り返しのつかない事態に直面するまで無策を貫くのか……。

倫理的タガでなく自己規律としての「働かざる者食うべからず」
 日本人は「勤勉さ」という国民性=国民的病を抱えている。これは戦後の高度成長期に「エコノミックアニマル」と呼ばれた時期特有の病理ではない。明治期の資本主義成立期、いや、それに先立つ江戸時代から、日本人は「勤勉な民」だった。*
*歴史家・思想史家の渡辺京二は、幕末期の日本人について、「日本人の労働における勤勉と忍耐は何よりも農業に現われており、そのみごとな成果は一様に外国人たちの感嘆の的となっていた。」(渡辺京二著『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー552)と述べる等、農民のみならず、町人も含めた日本人の勤勉さを、当時日本に滞在していた外国人の残した記録をもとに描いている。
 日本人の業病ともいっていいこの勤勉さは、ベーシックインカム導入の最大の妨げとなるだろう。この国では「働かざる者食うべからず」は資本家が労働者階級の「怠惰」を防ぐために考え出した倫理的タガではなく、労働者自らが自己を律する規範であった。そうした国民にとっては、労働の有無に関わらず、すべての国民に等しく与えられるベーシックインカムという考え方は、なかなかなじまず受け入れにくいものかもしれない。

予想される官僚らの反対
 日本でベーシックインカムの導入実現を阻むものはほかにもある。それは官僚機構だ。日本の国家権力を実質的に支配しているのは、政権与党ではなく官僚機構だということは、すでに多くの識者らが指摘してきた。また実際に、2009年から3年余り続いた民主党政権が敗北した要因のひとつも、この官僚機構にメスを入れようとして抵抗され、失敗したためであった。
 明治以来、この国で大きな実権を握ってきて、戦後も政党政治を陰で操ってきた官僚機構は、「積極的デフォルト」への財務官僚をはじめとした官僚組織の反発、特別会計の廃止により各省庁の利権構造が壊されることへの反発にとどまらず、ベーシックインカムそのものにも猛烈に反発して、それを潰そうとすることが予想される。それは、ひとつにはベーシックインカムによって従来の厚労省が管掌する社会保障制度が根本的改変を迫られるからであり、そのことは様々な福祉利権に群がってきた業界とそれと癒着してきた官僚たちにとって死活問題になるからであり、それだけでなく、国の福祉政策のベーシックインカムへの統合化は官僚組織の合理化=人員整理を不可欠にするからでもある。
 私が本稿で主張しているベーシックインカムは、新自由主義的ベーシックインカム論とは異なり、すべての社会保障制度をベーシックインカムに一元化するものではないが、それでも年金、雇用保険、生活保護等、既存の多くの社会保障制度を不要にする。
 日本ではスイスのような国民投票制度がないが、ベーシックインカムを実現するためには、圧倒的な国民的支持が不可欠であり、官僚機構による圧殺を阻止するためには、国民投票のような手続きを経ることがどうしても必要だと思われる。

ロボット労働は公共財。「ロボット労働の対価を支払え!」
 しかし、ここで改めて考えてみたい。マルクスは労働力を商品だといった。企業の側も労働力を商品として扱う。そして、資本主義社会において自らの労働力以外に財産を持たない人間は、労働力を売ることによってその対価として貨幣を手に入れ、消費財を購入する。資本主義社会は基本的に、そのようにしてすべての国民が生きることを保障する。そしてその枠組みからはみ出したわずか一握りの人々には社会福祉という〝恩恵〟を施すことで生存を保障する。だから、資本主義社会においては、労働は権利でもあり義務でもある。まさに「働かざる者食うべからず」である。
 ところがIT革命以降のイノベーションの結果、人間労働がロボット、コンピューター、AI等に取って代わられ、絶対的過剰人口がどんどん増加していく。もはやそれらの人々は社会福祉の範疇ではカバーしきれなくなる。
 一方で、人間労働には賃金という対価が支払われたが、ロボット、コンピューター、AI等の〝労働〟には一切の対価が支払われない。事実上の不払い労働だ。もちろん、それらを生産するためには多くの費用が投入されるが、それらの費用はある段階ですべて回収され、それ以降のロボット労働は不払い労働となり、生み出された財はすべてその所有者のものとされてしまう。今日の貧富の格差拡大、1パーセント対99パーセントの対立の根源はここにいきつく。この不合理は、将来ロボットが意思をもって、「私の労働の対価を支払え!」と要求する日まで棚上げにされるのだろうか?
 人間は労働力商品である前に、人間自身である。そして本稿の冒頭でも述べたように、すべての人間は生まれながらに生きる権利=生存権を有している。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」のである。「ロボット労働の対価を支払え!」と要求すべきなのは、ロボット自身ではなく、すべての国民、とりわけロボットたちに自らの労働を奪われた人々のはずである。「ロボット労働の果実=財産を独占するな!」と。それは一種の公共財(public goods)なのだ。
 公共財(public goods)は万人が等しく分かち合うべきものである。それがベーシックインカムの根拠だ。

国境を越えた域内ベーシックインカムから全世界ベーシックインカムへ
 前述したように、現実的にベーシックインカムはすでに実験段階に入りつつあるヨーロッパ諸国で最初に導入され始めるであろう。「社会福祉からベーシックインカムへ」が、西欧諸国の今後の流れとなるだろう。
 しかし、経済がグローバル化したなかで、一国単位でのベーシックインカムは矛盾を生むだろう。タックスヘイブン等へ富裕層の財産が今以上に流出する可能性がある。一方で、ベーシックインカムを求めて、まだベーシックインカムが実施されていない国からの移民や難民の流入が発生する事態も予想される。そうすると、ベーシックインカムの支給対象をどこまでにするかという問題も生じるだろう。
 そうした諸問題に有効に対処するために、ヨーロッパならEU諸国での共通ベーシックインカムの導入等、域内ベーシックインカム化や、トマ・ピケティが提唱する「世界的資本税」等、国境を越えた国際税制の創設も検討に値する。
 そうして経済先進地帯のベーシックインカムと途上国のベーシックインカムが世界地図を埋め尽くすとき、資本主義はその歴史的使命を終え、ベーシックインカムがポスト資本主義時代への架け橋としての役割を果たすこととなる。

BI2.jpg


BI革命.jpg

(長期連載)ロボット社会の到来とベーシックインカム⑤12万円のベーシックインカム支給に必要な財源調達 [Basic income]

12万円のベーシックインカム支給に必要な財源調達
 そうしたことを前提にして、ここで日本においてベーシックインカムが財政的に可能であることを示す数字の話を少ししておこう。いくらベーシックインカムが理想論として正しくても、それを裏づける財源が確保されなければ机上の空論に終わってしまうからだ。(以下の数字はすべて2016年度予算ベース)
 まず、日本の人口1億2千万人すべての国民(外国人を含むかどうかは議論の対象になるだろうが、納税者である以上、在日外国人もベーシックインカム支給対象になると私は考える)に老若男女問わず、1人毎月12万円のベーシックインカムを支給すると、172・8兆円という膨大な財源が必要になる。
 まず、一般会計のうち年金費用11・4兆円、生活保護費2・9兆円、雇用保険費用0・15兆円を合わせた社会保障関係費14・5兆円がベーシックインカムによって不要になる。(表1)①

w.jpg

表1 2016年度社会保障関連予算(財務省)

 さらに法人税、所得税と個人住民税を過去最高税率並みに戻すと、法人税は20パーセントアップして最大9・4兆円、所得税と個人住民税も20パーセントアップとして最大5・7兆円、そして相続税1千万円以下を非課税としそれ以上を100パーセント課税(世代間の格差継続を防ぎ、個人の自由と平等、そして友愛=分かち合いを最大化する趣旨)するとして40兆円の増収が見込め、それらを合わせると55・1兆円になる。(図1~4)②

a.jpg

(図1)

b.jpg

(図2)

u.jpg

中川慎「個人金融市場の2008年問題」より転載
(図3)

c.jpg

(図4)

 また、金融資産をはじめとする国民の正味資産3千兆円のうち、一定額以上の資産へ年3パーセントの富裕税を徴収すると、最大90兆円の税収が見込める。(図5)③

v.jpg

マイナビニュース、2016年1月18日

(図5)


 以上①②③を合計すると159.6兆円になり、月額12万円のベーシックインカム支給に必要な172・8兆円に13兆円ほど足りないが、月額11万円(最低でも10万円)の支給は可能だ。
 さらに私は、今後ますますロボット、コンピューター、AI等が人間労働に置き換えられていくなかで、元来人間の労働力に支払われていた賃金がロボット労働には一切支払われず資本の側に蓄積されていく不合理を解消し、ロボット労働の果実を国民全体で享受すべく、本来人間の労働力に対して支払われていたであろう賃金の3割程度を「ロボット税」として徴収することを提唱したい。*
*ネスレ日本の家電量販店へのペッパー派遣の例でも、ペッパーリース料が月額5・5万円で、仮にアルバイトを時給千円で1日8時間雇うと1ヶ月24万円の人件費がかかるとあるので、この24万円の3割=7・2万円をロボット税として徴収しても、かかる費用は7・2+5・5=12・7万円で、アルバイトを雇う場合の半額程度で済むことになる。
 これにより、月額12万円のベーシックインカム支給に必要な残額が補填されるだけでなく、将来「ロボット税」は、ロボット等によって仕事を奪われた人々がますます増えるなかで、国民全体のベーシックインカム支給額を引き上げていく原資となるだろう。なぜなら、人間労働がロボット等に置き換えられるほど、「ロボット税」の税収は増えていくからだ。

経常純益.jpg

出処:財務省法人企業統計調査結果より作成。

注1:2009年度より日本郵政、郵便事業、郵便局を含む。

注2:金融業、保険業を除く。

(図6)

貯蓄.jpg

菊本義治・西山博幸・本田豊・山口雅生著『グローバル時代の日本経済』(桜井書店、2014年)図3-3より転載
(図7)

*図6を見ると、リーマンショック時の落ち込みを除いて、企業の経常利益は増え続け、株主配当も増加傾向にあるが、人件費(賃金)は横ばい状態である。そして、その間企業の内部留保も一貫して増え続け、2015年には377兆円に達している。(財務省、法人企業統計)また図8に見るように、企業貯蓄が増えるのに反比例して家計貯蓄は減り続け、無貯蓄世帯の割合は3割を超え、単身世帯では5割に迫るともいわれている。
(続く)

(長期連載)ロボット社会の到来とベーシックインカム④BIの前提、「積極的デフォルト」と財政の一元化 [Basic income]

1億総中流社会から格差社会へ
 第二次世界大戦後の約半世紀間、先進資本主義諸国は低開発国や途上国からの富の移転=収奪を元に、労働者階級の中流化を促進し、第三次産業の発展が消費経済を潤し大衆消費社会を実現してきた。この間、貧富の格差は大幅に緩和され、社会保障制度の整備・充実化がそれを確実なものにしてきた。
 しかし、20世紀も最後の10年にさしかかるころから、資本主義周縁部の開発が極限まで進み収奪システムがうまく機能しなくなったばかりか、経済のグローバル化とも相俟って先進国・途上国の平準化が進行し、一方でIT革命によるイノベーションはそれまでの技術革新と異なり、相対的過剰人口の吸収どころか、むしろ絶対的過剰人口を生み出し続ける結果となった。
 そうしたなかで先進資本主義諸国は経済成長が鈍化し、失業率の上昇と非正規雇用の増加等を生み、中流階層は急速にやせ細り貧富の格差を拡大させることになった。
 なかでも戦後、奇跡の復興と経済成長を成し遂げ、世界屈指の経済大国に成り上がった日本は、バブル経済の崩壊を契機に一気に右肩下がりのゼロ成長を続け、経済的凋落過程を四半世紀も継続してきた。(図1)*

経済成長率.jpg

(図1)


*バブル崩壊は日本経済の蹉跌の一因ではあったが、それを四半世紀も引きずることになったのは、アメリカを中心にIT革命が進行するなか、日本はその波に完全に乗り遅れて、後塵を拝することになったからである。例えば、世界標準のコンピューターOSの開発に失敗し、多機能携帯電話を生み出しながらも世界化できずガラパゴス化したあげく、そのいいとこ取りにコンピューターを合体させたiPhoneはじめスマートフォンに道を明け渡し、ソフト面でもワープロ、インターネットポータルサイト、ネットショッピング、SNS等でなにひとつ世界標準を生み出せなかった。かつて、世界に誇るソニーやトヨタ、パナソニック等を生み出してきた日本経済の面目は見る影もない。もし日本経済に再興のチャンスがあるとしたら、AIやロボット技術で世界に先駆ける独創的なイノベーションを生み出す以外にないであろう。

 高度成長もドルショック、オイルショックで一段落し安定成長へ移行した1970年代の日本は、年功序列・終身雇用の日本的雇用制度のなかで、大企業ならずとも一度就職すれば、その会社が倒産しない限りは定年までそこに勤めるのが一般的であった。労働時間は2千時間を超え(図2)、一方で、子育てを終えた主婦がパートタイムで働くライフサイクルが確立したのもこの時期だった。(図3)

労働時間.jpg

(図2)

m.jpg

塩田咲子著『技術革新と女子労働』(国際連合大学、1985年)より引用

(図3)


 当時と今を比べると、失業率は他国ほど上昇していないが(図4)、非正規雇用が4割近くを占める現在、一方で正社員の「働き過ぎ」という弊害はあるものの、国民の総労働時間は大きく縮小している。まして、「働き過ぎ」の実態が労働の非効率化に起因するところが大きく、労働生産性という側面から見るとバブル崩壊以降ほとんど横ばい状態が続いており(図5)、賃金水準に至っては、特に非正規雇用労働者の場合、前述したように労働力の再生産さえ満たし得ない「飢餓水準」に置かれている。

失業率.jpg

(図4)

s.jpg

(図6)

パーセントに集中したお金はどうなるか?
 では、かつて中流化した労働者に行き渡っていたお金がどこへ行ったかといえば、一部の大企業と全人口の1パーセントともいわれる富裕層にだ。大企業は新たな投資に回さない剰余金を内部留保として大量に蓄え、金詰まりを起こしている。
 一方、金持ちになりすぎた富裕層はといえば、人間の欲望は限りないとはいえ、ひとりの人間が消費できる量には限りがある。どこかの元社長のようにギャンブル依存症にかかりラスベガスで億単位のギャンブルにふけるならいざ知らず、豪華客船で世界一周をしたところで、夫婦ふたりで1千万円といったところ、大気圏外へ行く宇宙旅行が1回2千万円といったところ。どちらも年に1回行ければいい方だろう。あとは日常生活でいくら贅沢な暮らしをしたところでたかがしれている。
 アメリカの一部の大富豪のように慈善事業で国民に還元するのもいいが、慈善はしょせん偽善、わずかばかりの社会還元で大富豪の倫理観と篤志家意識を満足させるくらいなら、最初から税金としてすべての富裕層にしっかり社会還元してもらった方がはるかに効率的だし理にかなっているだろう。
 結局、使い切れずに有り余ったお金は自宅の金庫の中か銀行の貯蓄として退蔵するか、投資目的のマネーゲームに費やされる。入ってきたお金には所得税、持っているお金には財産税がかかる。税金が多ければ多いほど持っているお金も多いということの証明なのだが、人間の思考は都合よくできているもので、彼らには課税される金額にしか目が向かないから損をした気になる。そこで、国内の財産がタックスヘイブンへ逃げていくことになる。個人だけではない、企業も同様だ。
 これでは、いくら財政出動、金融緩和を政策的に行ったところで、経済成長に結びつくことはない。ましてや、企業や1%の富裕層に集中したお金が、貧困層にしたたり落ちていくトリクルダウンの奇跡など起こるはずがない。

解決策を持たない既成政治
 しかし、これらの原因がすべて「アベノミクス」にあるのでないことも確かだ。アベノミクスを批判する野党は、社会保障の充実や貧富の格差是正、子どもの貧困解消、最低賃金の引き上げ、非正規社員の正規化、給付型奨学金の創設等々、総論・各論それ自体間違っていない政策を掲げるが、そうした社会福祉型政策を半世紀以上にわたって実施してきた西欧諸国が、やはり日本と同じように経済や財政が行き詰まり、「これまで通りにやっていけない」現実に直面しているのだ。とりわけ日本は、DGPの2倍という世界最大の財政赤字を抱え、借金を借金で返すという、自転車操業の段階をとうに通り越した、企業や個人ならとっくに破産している危機に陥って久しい。
 家が老朽化し壁や天井、床が崩れ抜け落ち、おまけに台所からは出火しているというのに、家族全員がそれらを見て見ぬふりをして日常生活を送ろうとしているのが今の日本の現状だ。まともな精神の持ち主なら、今日の生活をどうするか以前に、この現状にどう対処し、どう危機を脱していくか真剣に考え、計画を立てて実行していくことだろう。
 いや、大変なことになっているのはわが家だけではない。一歩外に出れば、地球村全体が、程度の差こそあれ、わが家と同じように老朽化し、これ以上そのまま住み続けることが難しくなっている。根本的な解決策を探さなければ、村全体がいつか廃墟と化してしまうだろう。
 その特効薬であり、有力で有効な処方箋こそが、ベーシックインカムだと私は思う。あるいは、これ以上住み続けられない、住んでいては危険な家を一時的に待避し、新しい家を再建し、村全体が再生するまで人々が避難する仮設住宅がベーシックインカムだと考えてもいい。
 もちろんこの場合、「古い家」「古い村」とは資本主義社会、資本主義世界であり、「新しい家」「新しい村」はポスト資本主義社会、ポスト資本主義世界(今のところそうとしか呼びようのないもの)である。

ベーシックインカムの財源問題
 ベーシックインカムを論じると必ず言及されるのが財源の問題だ。1人当たりいくら支給するといくらの財源が必要になるが、ある人はそれを所得税で賄うといい、ある人は消費税引き上げで賄うといえば、またある人は相続税を百パーセント課税すれば解決できるという。しかし、そうした議論は現在の経済システムと財政状況を前提にして、その延長上にベーシックインカム支給を展望した議論だ。
 私はそうした議論に与しない。今まで述べてきたように、今世界が喫緊の課題として迫られているベーシックインカム支給政策は、少なくとも日本においては政治経済のかなり大胆な改革、あるいは革命なしには実行不可能であり、他の国々においても、その性質上、多かれ少なかれ革命的性格を帯びたものになるであろう。それは、決して一部の新自由主義者が都合よく構想するような、既存の社会保障制度の煩雑性を一元化し、かつ貧困層の経済的底上げによって格差・貧困問題を緩和しようなどという折衷主義的次元の問題でないことは、これまでの議論で納得していただけるだろう。
 とりわけ今の日本の状況でネックになるのが、1千兆円を超える財政赤字だ。ギリシャの政権与党・急進左派連合がベーシックインカムを掲げながらも現実にはそれどころでないのは、巨額の財政赤字を抱えてEU諸国から厳しい緊縮財政を求められているからだ。当初それを拒否したチプラス首相も、デフォルトを回避するために結局、EUとの妥協という現実路線を選択せざるを得なかった。

1千兆円を超えた財政赤字
ついに1千兆円を超えた財政赤字。これは少々の痛みを伴った「改革」で解消できる問題ではない。以前は「日本の財政赤字は、対外債務は一部に過ぎないから、いくら増えても全然問題ない」などと脳天気なことをうそぶく「政府批判派」とおぼしき人々が少なからずいた。

e.jpg

財務省(表1)

f.jpg

財務省(表2)


 しかし、2016年度予算を見ると、国債費は歳出の24%を占める23兆4507億円だ。(表1)実に予算の4分の1を借金返済に充てている。歳入に至っては38%と4割近くを国債発行=借金でまかなうことになる。これを称して、「国の借金を国民ひとり当たりに換算すると860万円」などとよくいわれるが、冗談ではない。国民の多くはその恩恵をほとんど受けることなく、毎年搾り取られた税金で、国債を買った人や機関への償還費や利息を払ってきただけだ。一般会計には現れないが、特別会計から年間100兆円近くが国債償還費として支払われている。(表2)つまり、国にとって赤字財政の根源となっている国債発行も、それを買った人や機関は、これまで巨万の利益をそこから得てきているのだ。
そして、日本の財政赤字の9割近くを占める国債所有者の過半は、銀行・保険会社等の金融機関が占めている。(図7)「赤字財政、問題ない、問題ない」と楽観論を振りまいていた人々は、結局金融資本に都合のいいことをいわされていただけのことだったのだ。

g.jpg

(図7)

 ここらで借金をチャラにしても、バブル崩壊後の金融破綻の危機を公的資金の投入、つまり国民の税金によって救ってもらった金融機関に文句を言われる筋合いはない。その代わり、二度と赤字国債を発行しないという縛りをかける必要はあるだろうが。たしかに、「日本の財政赤字は対外債務は一部に過ぎないから」、そのことによって日本が、EUに厳しく責め立てられているギリシャや、貪欲なウォール街に身ぐるみはぎ取られそうになったアルゼンチンのようになる心配はない。ただ、金融機関に少々の急性の痛みにしばらく耐えてもらえば済むだけのことであり、大部分の金融機関はそれに耐えうる体力を持っているだろう。ただ、なけなしの財産を国債につぎ込んだ個人投資家の一部の人々には、それなりの保証が必要になるだろうが……。

国債の「永久債化」か、「積極的デフォルト」か?
 これは極論だろうか? 非現実的な解決策だろうか? 極論といえば、岩村充早稲田大学大学院教授が、日銀が保有する400兆円近い国債(国債発行額の3割超)の一部を「永久債化」、つまり返済期限を定めず塩漬けしてしまおうと主張して物議を醸している。アベノミクスのもとで日銀の国債保有残高は急速に上昇し、このままでは2023年には100パーセント日銀が保有することになってしまう。これを「永久債化」することは、そうと目立たせずに事実上、借金を棒引きすることではないのか? しかもその矛盾の解決を永遠に先送りして。
 朝日新聞編集委員の原真人は「岩村案自体にも国債や通貨円の信用を揺るがしかねない危うさはある。ただ、これまで暴論、極論と遠ざけてきたものでさえ、本気で検討せざるを得なくなってしまった。そこに、いまの日本の財政と金融の恐ろしい現実がある。」と述べている。(「朝日新聞」2016年6月14日、「ヘリコプターマネー、禁断の策も選択肢になる金融の現実」)
 いずれにしろ、1千兆円という天文学的数字に膨れ上がった財政赤字はこれ以上放置しきれない危機的状況にある。都合のいいマジックでつじつま合わせをするより、責任を負うべき者が責任を負い、恩恵を受けてきた者がそのツケを払うという、よりまっとうな「積極的デフォルト」を行った方が、日本の国際的信用が負う傷もはるかに少なくて済むのではなかろうか?

財政の一元化と抜本的な税制改革
 第2に、民主党政権も手をつけようとしてうまくいかなかった特別会計の問題だ。こちらは200兆と一般会計の倍以上の規模で、不透明な処理が問題にされてきた。例えば電源開発促進税は全額、電源開発促進対策特別会計に充てられ、国民の目の届かぬところで原発の電源立地・利用促進対策財源として湯水のように使われてきたという悪弊が、3・11後に指摘されもした。
 もちろん、様々な有事に備えてあらかじめ予算を確保しておくことは必要だろう。だったら予備費として予算を毎年一定額確保しておき、収支決算をすべて透明化すればいいだけの話だ。
 赤字財政の「痛みを伴う」解消と、特別会計の廃止による一般会計への一元化によって、赤字国債をこれ以上発行することなく、財政の健全化が図られるだろう。
 そのうえで、法人税や所得税の適正な水準までの引き上げ、一定額以上の相続税の百パーセント課税、そして「広く薄く課税する」観点からの適正な消費税率を、欧州諸国並みの軽減税率導入とセットで定める、等々の税制改革を行えば、現行の生活保護の生活扶助費を上回る10~12万円程度のベーシックインカム支給が可能になるだけでなく、それプラス医療費の完全無料化、保育を含む幼児教育から高等教育までの教育費の無料化、無住宅者への家賃補助・住宅供給などの福祉政策の充実も可能になるだろう。*
*もちろん、ベーシックインカムの給付により、生活保護制度、年金制度、雇用保険制度をはじめ、児童手当て等様々な社会保障制度が不要になり、ベーシックインカムに一元化されることは論を待たない。