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[社説]「WTO判定」に言いがかりをつける安倍政権の下心(ハンギョレ) [Korea]

日本政府が「福島の水産物輸入禁止」に関連して世界貿易機関(WTO)の最終審の判定に難癖をつけている。「日本は敗訴していない」と意地を張ったり、WTOに対するあら探しに熱を上げている。国際規約を尊重すべき国際社会の一員としてありえない態度だ。
世界貿易機関への提訴は日本政府が行ったものだ。韓国政府は、福島原発事故後、2013年に福島とその周辺地域の水産物の輸入禁止措置をとった。国民の安全と健康に責任を負うべき政府として当然なすべきことをなしたのである。韓国だけでなく、50ヵ国余りが輸入禁止措置をとった。にもかかわらず、日本政府は、この問題を貿易紛争へと持っていった。唯一、韓国政府のみを相手に提訴を行ったのである。世界貿易機関の最終的な判定を当然、日本政府は受け入れるべきだ。
しかし菅義偉官房長官は、世界貿易機関の「韓国勝訴」判定の直後に記者会見を開き、「日本の主張が認められなかったのは非常に遺憾。日本の食品は科学的に安全であり、韓国の安全基準にも十分適合するとした1審の判断は2審でも維持された。日本が敗訴したという指摘は当たらない」と強弁した。我田引水このうえない。河野太郎外相は「韓国の輸入制限措置の撤廃を要求するという立場に変わりはない」と述べた。一言で言って前後の見境のない無法な態度というほかない。また、日本政府と一部のメディアは、突飛な「世界貿易機関改革論」を持ち出した。河野外相は「世界貿易機関の上訴機関が機能していない。日本は世界貿易機関の近代化に努力する」と述べた。極右性向の「産経新聞」は「何のためのWTOなのか」というタイトルの社説で、「到底、納得できない乱暴な判断である。今回の判断はWTO改革の必要性を再認識させるものでもある。」と主張した。昨年2月に世界貿易機関が1審で、日本勝訴の判定を下したとき、日本政府は「歓迎する。韓国は世界貿易機関の決定を重く受け止めることを望む」と述べた。 ご都合主義の典型だ。
勝訴を予想していた日本が受けた衝撃は大きいだろう。日本が勝訴すれば、韓国だけでなく、他国にも輸出を拡大できると期待していたが、当てが外れた。むしろ日本の水産物の安全性に対する国際社会の疑いを生む格好になった。
日本の中で安倍政権に対する批判と責任論が沸き上がっているという。こうした状況で安倍政権が攻撃の矢を韓国政府と世界貿易機関等、外部に向けるのは、「国内政治用」という分析が出ている。7月に予定されている参院選の前哨戦である大阪と沖縄の補欠選挙(4月21日)を控え、責任論を薄め支持勢力を結集することを意図しているというのだ。日本政府関係者が14日、「安倍首相が6月に大阪で開催されるG20首脳会議で、文在寅大統領との会談を見送る方向で検討に入った」と共同通信等のメディアに流したのも、これと無関係ではないようだ。
日本政府のこうした態度は無責任きわまりない。韓国内の反日感情を高め、両国関係の回復を困難にしうる。日本政府は今、他人のせいにするのではなく、世界貿易機関の判定を潔く受け入れ、自国の水産物の安全性を高めることに力を注がなければならないであろう。

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新元号不使用宣言ー新元号を書かない、言わない、使わない! [etc.]

今日、4月1日昼前に「新元号」が発表され、正午からアベシンゾウがそれに関して、得意のテレビジャックで記者会見を行うのだとか。この国以外で全く用をなさない前時代的な代物を巡って、(私はテレビがないからよく分からないが、)テレビではこの間、「平成最後のホニャララ」みたいな話で盛り上がっていたようだし、今日は恐らく、一日中「新元号フォーバー」でドンチャン騒ぎをやらかすのだろう。
私は天皇制否定の立場から、学生時代である1970年代から、原則的に元号を使用せず、西暦を用いてきた。しかし、役所や店頭で生年月日やその日の年月日の記入を求められるときなど、特に、何かの特典的なものを得ようとするときなど、ムダに相手との間に波風を立てまいとして、「明治・大正・昭和・平成」と印刷された箇所に○をして、受動的ではあれ元号を使用してきたことがあることを、正直に告白しなければならない。
しかし、今回の天皇の交代に伴う改元を機に、新元号の漢字が何になろうと、今後、生涯にわたって元号を、とりわけ新元号を一切、書かない、言わない、使わないことをここに宣言したいと思う。
元号はいうまでもなく天皇制の付随物だ。戦前は憲法に元号の規定があったが、戦後、法的根拠がなくなったものを、今日の日本会議につながる草の根極右勢力の運動の成果として、1979年に元号法が制定され法制化された。明治以来、天皇制が果たしてきた否定的役割はいうに及ばず、天皇=国王の存在は民主主義そのものに反すると私は思っている。戦前は現人神と神格化された天皇は、戦後、「人間宣言」でニンゲンに格下げされたが、マスコミは常に天皇や皇族に敬語を用いることでも分かるように、天皇・皇族は一般人より上の存在として、つまり「日本国民統合の象徴」として存在している。普通の人より上の人がいれば普通の人より下の人がいる。即ち、天皇制は差別構造に根ざした制度なのだ。そして、その天皇の在位期間に合わせて用いられるのが、不便なだけの元号というわけだ。
現天皇や次期天皇の人柄や思想がどうあれ、そのことは全く関係ない。アベやアベを支える極右ヘイト差別者集団が天皇制を熱狂的に支持し、元号にこだわるのも、現天皇や次期天皇個人への尊敬の念や崇拝ではなく、差別に根ざした天皇制という制度そのものへの執着にほかならない。
であればなおのこと、アベ「政権」によって決定される新元号など、の字が入ろうが入るまいが、使うことはできない。
新元号を書かない、言わない、使わない!

新元号不使用宣言

2019年4月1日


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川津桜ー染井吉野より好き [Photograph]

日本人の好む桜(ソメイヨシノ)だが、私はこの白ほど白くなくピンクほど紅くないぼんやりした色の花が、とくに写真を撮るようになってあまり好まなくなった。確かに高木全体に開花した桜並木は見物ではある。しかし、私は桜より、梅や桃の花の方を好む。はっきりしたピンクの桃の花や紅梅を。
ところが、倉敷川の川津桜の並木を見て、私はこの花がいっぺんに好きになった。桃の花のようにピンクが自己主張しながら、しっかりと桜の形をしている。植樹して何年になるのか、まだ背丈が低いが、これが成木になったらどれほど見応えがあるだろうか? これから咲くソメイヨシノを見なくても、今年はこれで十分満足できた。

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73分に及ぶ演奏が飽きさせないーDEZOLVE「AREA」 [Jazz]

IMG_3109.jpgDEZOLVEAREA を聴いて思い出したのが、私がApple Musicを聴くようになって真っ先にダウンロードしたスウェーデンのドラマーJonathan Lundbergのリーダーアルバム「 Iterations」だった。当時それを聴いて、始めて出会うような新しい音の世界に新鮮な衝撃を受けた記憶がある。アルバム全体を貫くトーンも似ているが、なによりポリリズムやスリップビートを多用する山本真央樹のバークリー仕込みのドラミングがJonathan Lundbergを連想させたのかもしれない。調べてみると、ゲストに本田雅人を迎えている点も共通している。
Apple Musicのジャンリングの問題かもしれないが、アップされる日本のジャズアルバムの中にはジャズとはおよそ無縁の単なるインストゥルメンタルバンドじゃないの?と思うようなものが少なくない。そうではない純粋なJ ジャズでも、前にも述べたことがあるように、だいたい10秒聴けばJと分かる作品が大半だ。それはJジャズのよさとしての特徴ならば必ずしも悪いとは限らないが、私にはどうもそれがJジャズの〝ガラパゴス化〟としか思えないのだ。つまり、タコツボ化し、狭い日本にしか通用しないような音に自己満足しているような……。(それは何もJジャズだけの問題ではなく、Jポップにも共通している問題だが。)
そんな中、本作はJものとは露ほども感じさせないワールドワイドかつ斬新で洗練されたフュージョンミュージックの世界を展開している。前述した山本をはじめ4人のメンバーは皆23~26歳と若いが才能に溢れ、エレクトリックとアコースティックを巧妙に融合させたサウンドはハイレベルな調和を醸し出している。73分に及ぶ演奏がちっとも飽きさせず、かつ心地よい。
日本のフュージョンといえば高中正義やカシオペアの伝統を引きずったまま進化しないか、前述したようにジャジーな面をそぎ落とした単なるインストロメンタルミュージックに変質してしまったような演奏が大半である中、世界の最前線で通用するようなすごいスケールを持ったバンドが出現したものだと興奮させられた。

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冬の水鳥たち [Photograph]

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ヒドリガモとオオバン

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オオバン

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キンクロハジロ

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カワウ

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カイツブリ

(倉敷市酒津公園)

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社会学的ノベライズ本として読むべきーチョ・ナムジュ著『82年生まれ、キム・ジヨン』 [Korea]

51roAbTNwzL._SX344_BO1,204,203,200_.jpg「よくできた再現ドラマのノベライズ本」
一昨年、韓国で100万部のベストセラーになり、昨年末日本でも翻訳出版されるとたちまち5万部を売り上げたという本書、遅まきながら購入し、久々の韓国小説を読んでみた。
それまでにもいくつかの文学賞を受賞している作家であり、かつ名門・梨花女子大学社会学科を卒業して放送作家になった経歴の持ち主なので、恐らくあえてこのような構成にしたのだろうが、私に言わせると「よくできた再現ドラマのノベライズ本」といった趣で、小説としては失敗だと思う。精神科医のカルテ(orカウンセリング内容?)というかたちをとって描かれ、統計資料も随所にむき出しのまま無造作に挿入され、主人公が生きてきた時代の各年代ごとの象徴的な事件が生のまま物語に取り込まれるといった手荒な手法は、私にはとても首肯できない。たとえ、このような構成にするにしても、もう少していねいに主人公を造形化てほしかったという気がする。付言すれば、わたくし的にはキム・ジヨン氏が精神科に通って抗うつ剤と睡眠剤を処方されているという前提も気にくわない。

プロレタリア文学との類似性
著者がキム・ジヨンという韓国で最も多い女性の名前を主人公に命名し、他方、登場する男性は夫以外すべて家族関係の呼称か役職などで呼ぶという手法も、主人公に現代韓国女性の最大公約数的人格を与え、他方、男性はあえてそれさえ与えずに記号化したのだろうが、こうした手法は私に、古くは労働者階級(プロレタリア)の階級的属性を形象化した主人公を描くことによって階級対立と階級矛盾を浮き彫りにして階級闘争を鼓舞したプロレタリア文学の手法を思い起こさせる。もっとも、多くのプロレタリア文学の登場人物たちはあまりにステロタイプな階級性によって縛られすぎて、個性や人間味が捨象されていたことを考えると、この小説で描かれるキム・ジヨン氏は個性もあり、個人的に抱える悩みもある人間臭さが感じられる点はプロレタリア文学よりましだし、だからこそ、女性を中心とした多くの読者の共感を呼び起こしたともいえよう。だから本書は、現代韓国の女性問題についての社会学的ノベライズ本としては大成功を収めたのだ。おそらくこの本で提起された現代韓国の女性をめぐる諸問題を社会学の専門書なり、多くの女性に取材したルポルタージュとして出版していたら、これほどまでのベストセラーになることはなかっただろう。

相似形にある日本と韓国、だが日本に欠落している部分
主人公は1982年生まれだが、主人公の抱える問題、直面する問題は、恐らく韓国で女性の大学進学率が大幅に上昇した1980年代に大学入学期を迎えた世代から、現在成人を迎えた世代まで、かなり幅広い年齢層に共通する問題だと思う。そして、韓国の相似形として、それは日本においても同じことがいえる。多くの場合、今世紀に突入するまで、韓国は日本を20~30年後追いしてきたので、日本でいえば1970年代前半に大学入学を迎えた世代以降の女性に多く共通する問題であろう。だからこそ、韓国小説の邦訳としては異例のベストセラーになっているのだろう。もちろん、相似形ということは合同ではない。違いのひとつは、儒教の影響が色濃く残る韓国では、日本では高度成長期にいち早く核家族化して希薄化した家族の紐帯が未だに強いため、「嫁」が夫の実家によって受けるストレスは日本と比べものにならないほどだという点。だが、つい20~30年前までは、「韓国人男性と結婚して韓国に嫁ぐ日本人女性は大変」といわれていた状況は、その間に完全に逆転してしまったのではなかろうか? もともと、仕事中心に生きて家庭をおろそかにする日本人男性と違い、韓国人男性は仕事より家庭を大切にしてきた。共稼ぎ化が進むにしたがい、それまでの「男子厨房に入るべからず」といった儒教的慣習は廃れ、おそらく家事・育児参加率は今では韓国の方が日本よりましなくらいではなかろうか?
とはいえ、あくまで韓国と日本の社会は相似形なので、女性が職場で受けるセクハラや賃金差別、さらに女性に限らず、長時間労働、非正規雇用率、貧富の格差等、両国はどっこいどっこいの現状にある。
だが、日本社会が「失われた30年」を経て、そうした後進的面の改革にほとんど着手しないか、おざなりにしてきたのに対し、韓国はこの30年間のうちに、単に日本に追いつく経済成長を遂げてきただけでなく、制度改革、それに伴う社会・意識改革を着実に積み重ねてきた。そして、その原動力は、本書の登場人物を見ても分かるように、おかしいことをおかしいとはっきり言い、民主化によってひとたび勝ち取った権利を守り育て、行動してでもたたかいとっていこうという国民性にある。そこが韓国と日本を重ねたとき、日本に決定的に欠落している部分だ。
具体的に言えば、2016年から17年にかけて政権を私物化してきた朴槿恵大統領を毎週、100万、200万の市民が厳寒の夜にキャンドルを灯して集まり退陣に追い込み、その半分のエネルギーを担った女性たちが、その後、盗撮ポルノ問題や女性検事の上司からのセクハラ告発に端を発した各界でのMeToo運動へと引き継がれて、今、儒教倫理を引きずってきた韓国社会における女性の状況が大きく変わろうとしている。
そういう状況下で出版されたこの本がベストセラーになったのだ。女性読者は本書を読んで、「私もそう!」と共感した。一方、この邦訳を読んだ日本の女性たちはどう思うのだろうか。恐らく「(日本にもこういうの)あるある」とか「(日本にもこういうの)いるよね」と日本との類似性に共感は覚えても、はっきりと「私もそう!」とわがこととして捉え、考え、声を上げる人がどれほどいるだろうか? そこが日本と韓国の似て非なるいちばんの違いだと思う。
最後に、同じ韓国語翻訳者として、邦訳に関してはいいたいことが山ほどあるが、一般読者にはさほど関心のない問題だと思うので、あえて触れないことにする。

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朝いちで聴くJazz―ECMテイストなトランペットサウンド [Jazz]

IMG_3102.jpgジャズというとお酒を飲みながら夜聴く音楽―というイメージが強いが、ほぼ1日中ジャズを聴いている私にとって、それは当てはまらない。しかし、朝いちばんに聴けるジャズというのもなかなかないものだ。
そんななか、私が長年、朝いちばんに聴いてきたアルバムの第1位はなんといってもKenny Wheelerの「Gnu High」(ECM 1975年)だ。Kenny Wheelerの爽やかな響きのトランペットが紡ぎ出すメロディー(特にオープニングの軽快なHeyoke)は、朝いちばんに聴く音楽として最もふさわしい。


IMG_3105.jpgところで、ここ数ヶ月、朝いちばんに聴いているのが、同じECMから昨年出たオーストリアのギタリストWolfgang MuthspielのリーダーアルバムWhere The River Goesだ。ピアノにBrad Mehldau、ベースLarry Grenadier、ドラムEric HarlandのリズムセクションにトランペットのAmbrose Akinmusireが加わっている。アルバム名のとおり、清らかな川の流れのような清々しさを感じさせるアルバムに仕上がっており、朝いちサウンドにもってこいだ。最初は何気なくダウンロードしたのだが、朝いち音楽として聴き始めてはまってしまった。聴けば聴くほど味の出るアルバムだ。
IMG_3103.jpgECMでトランペットのリーダー作として同じような作品としては、Ralph AlessiがサックスのRavi Coltraneを迎えたImaginary Friendsがある。また、Ralph Alessiが参加しているドイツのピアニストFlorian WeberのリーダーアルバムLucent WatersもいかにもECMらしいアルバムだ。前者はスローテンポとアップテンポの曲をバランスよく取り混ぜた構成。また、後者のタイトル「Lucent Waters」は「Where The River Goes」のイメージにも通じる透明感あふれる作品で、スローで幻想的なトーンの曲中心に構成されている。
IMG_3104.jpgKenny Wheelerといえば、ECM作品ではないが、カナダの女性トランペッターIngrid JensenとサックスのSteve Treselerとのコ-リーダー作Invisible Sounds: For Kenny Wheelerは、2014年に亡くなったKenny Wheelerへのトリビュートアルバム。上述した作品らと比べるとアップテンポで躍動感あふれる曲が多いが、往年のKenny Wheelerを偲ばせる作品だ。

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#MeToo Movementは人類究極の最終革命 [Criticism]

ヒトがヒトになる以前から、女性は常に男性に抑圧され、支配される存在だった
昨年、世界中に広がった#MeToo Movementは、人類がこれまでに経験してきたいかなる革命よりも根源的であり、永続的たりうる人類究極の最終革命といってもよい。なぜなら、女性は平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」ではないが、なるほど人類史において母系社会、母権社会は存在したし、また、マルクスのいう「原始共産制社会」においては、階級社会におけるよりも女性の社会的地位は相対的に高かったかもしれないが、人類をヒトという生物学的次元で考察すれば、ヒトがヒトになる以前から、女性は常に男性に抑圧され、支配される存在だったからだ。
動物界ではオス・メスの力関係は一様ではなく、ペアリングに際しても主導権を握るのは種によってどちらの性でもありうるが、少なくとも哺乳類の肉食動物、雑食動物では、雌雄の役割分担からオスが優位に立つ場合が多い。また、哺乳類はメスが妊娠・出産・授乳を担わなければならないため、体型もそのために特化し、オスは狩りにおいて主導的役割を果たす。また、ヒトの場合、男女の身長・体重比は女性が男性よりそれぞれ1割、2割ほど少ない。
また、ヒトに最も近いチンパンジーにも見られるように、肉食哺乳類ではオスが交尾目的に子育て中のメスを狙って他のオスとの間に生まれた子どもを殺すケースがしばしばある。ちなみに、ヒトでもシングルマザーと同居する継父による連れ子への虐待死が後を絶たないが、それはそのような動物的本能に根ざすもので、極めて根が深い問題だ。

「人間性」の二面性を直視せよ
ついでにいえば、動物界では同類同士の殺し合いはこの子殺しを含め、交尾を目的としたメスをめぐるオス同士の争い以外には縄張り争いでたまに見られる程度で、それらにも歴然としたルールがあって、そのルールによって負けたオスはいとも簡単にメスを諦めるものである。ヒトのように、そうした理由でなく、他の理由で、あるいは理由もなく同類を殺す動物は、自然界広しといえども人類以外には見られない。ちなみに、縄張り争いに起源を持つ戦争は、文明が進めば進むほど歯止めを失い、ついに第2次大戦では数千万レベルの殺戮を繰り広げるに至った。こんな残忍、残酷な動物は類を見ない。「鬼畜」という言葉があるが、人間が考え出した想像の動物である鬼、人間の悪の象徴ともいえる鬼はともかく、畜生、つまり獣にも、人間ほど残酷、残忍に無意味な殺戮を行うものはいない。
ちなみにその殺人にしろ、戦争を除いても、8割は男が行っている。その他の犯罪行為もだいたい8割は男による犯行だ。性犯罪に至っては9割以上が男性といわれている。
「人間性」という言葉がある。辞書を引くと「人間を人間たらしめる本性。人間らしさ。」(大辞林)などと出ている。多くの人がこれから想像するだろうように、そして実際に多くの場合そのようなニュアンスで用いられるように、「人間性」とは他の動物と峻別される人間の優れた特性、つまり、理性的で、知能的で、かつ情緒豊かで他人への思いやりもある、愛情あふれる存在…というような意味合いの言葉だ。しかし、だとしたら、これほど人間の傲慢さ、自惚れ、主観性を表わす言葉もない。これが「人間性」の一面だとしたら、もう半面は他の動物のだれよりも残忍、残酷、自己中心的、破壊的で、暴力支配的なのが「人間性」にほかならない。

フェミニズムさえ避けてきた男女問題の核心に切り込む#MeToo
そして、ヒトがチンパンジーと枝分かれする前から、その社会を常に支配してきたのが男であり、女は男が支配し、思いのままにする対象であった。そして、性行為においても、その支配的地位にある男がほとんど主導権を行使してきた。そして、時に暴力的に……。
確かに、時代によっては女性の地位が相対的に高く、女性の人権が相対的に守られていた時期もあるが、それはあくまで相対的な問題に過ぎない。また、そうはいっても人間は上述したように相矛盾した二面性を抱える動物なので、多くの男たちは女性に対して支配的地位を維持しながらも、時に優しく接し、男女の恋愛感情の結果、双方の合意のもとに結ばれ、子どもをつくるのが一般的である。だから、女性にとっても大局的には男性社会の支配を受けながらも、個人的には恵まれた夫婦関係を結ぶ者も少なくない。
だが一方で、一定割合の男は、「人間性」の悪しき一面が肥大化し、よき面が退化した者がいる。そういう男は、「人間らしい」思いやりも相互作用的恋愛感情も持つことができず、女性を性欲の対象としてしか認識できず、そのために物理的暴力によって絶対的支配権を行使する。つまり、DVやストーカーという犯罪行為に走る。そうした男は社会のあらゆる領域、貧富の差や政治的思想信条等にかかわりなく存在する。
痴漢や軽微なセクハラも含めたこうした性犯罪行為は、従来はたいてい見て見ぬふりをされ、社会に顕在化することがなかった。その被害に遭った女性は、〝不運〟としてそれを甘受し、一生その傷を抱えて生きていくしかなかった。恐らく、痴漢、セクハラも含めれば、一生のうちに一度も性被害を受けたことのない女性はほとんどいないのではなかろうか?
そうした、何十万年、それ以上続いた人類史の男支配構造の不条理に勇気を持って真っ向から異を唱え立ち向かったのが#MeToo Movementだ。これは、フェミニズムやそれに先立つウーマンリブ、女性参政権運動等でさえ、あえて触れようとしなかった領域に属する問題だ。
それは1年、2年で終わるべきものではなく、今後、数十年、あるいはそれ以上の長きにわたってたたかわれていくべき永続革命だ。それは悪しき「人間性」に支配された男の犯罪を世界から撲滅していくたたかいであると同時に、人類が持つよき「人間性」を全面開花させていき、男性中心社会に終止符を打ち、真の男女共生社会をめざす人類究極の最終革命でもある。

人類は自滅、絶滅への道をたどるのか?
しかし、だからといって人類に背負わされた正邪二面性の自己矛盾はそうそう簡単に克服できるものではあるまい。また、男だけが悪で女はすべからく善なわけでもない。この矛盾に満ちた人間存在をいかに止揚していけるのか? その着地点は未だ見えないし、この革命自体が成就されるという保証もない。
それどころか、昨今の末期資本主義的状況下でテロとヘイトクライムが横行する世界を見ていると、人類はその「人間性」の負の側面を肥大化させて、自滅、絶滅への道をたどる以外にないのではないかと絶望することもある。
そんな中で、#MeToo Movementは人類に残された数少ない希望の光である。

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#MeToo 韓国と日本の現在 [Criticism]

「被害者らしさ」排撃し権力型性暴力警告した「安熙正有罪」
(2019.2.1 京郷新聞社説)
地位を利用して秘書に性暴力を加えた嫌疑で起訴された安熙正(アン・ヒジョン)前忠清南道知事が、控訴審で懲役3年6月の判決を受けて収監された。ソウル高裁刑事12部は1日、業務上威力による姦淫等の嫌疑で起訴された安前知事に対する控訴審判決公判で、無罪を言い渡した一審判決を破棄し、このような判決を言い渡した。裁判所は安前知事の10の犯罪嫌疑のうち、一度の強制わいせつのみを除きすべて有罪と認定した。「威力」の意味を狭く解釈し、「被害者らしさ」という歪曲された神話に埋没してすべての嫌疑を無罪とした一審判決を180度覆した。ジェンダーセンシティビティを忠実に反映した今回の判決は、権力型性暴力に厳重な警鐘を鳴らした里程標的判決として記録されるであろう。
控訴審裁判所が有罪を下した根拠は大きく2つある。まず、安前知事が現職道知事であり与党の有力大統領候補としての「威力」を利用して被害者キム・ジウンさんと性関係を持ったと判断した。「業務上の威力」が必ずしも被害者の自由意思を制圧するほどの「有形的威力」である必要はないともした。「威力が存在はしたが行使されなかった」という一審を否定したものである。また、裁判所はキム氏の陳述が具体的で一貫しており、信憑性があると見た。安前知事側が「被害者らしくない行動」を根拠にキム氏の陳述の信憑性を否認したのに対して、「被害者の性格や具体的状況によって対処は異なって現れる。弁護人の主張は定形化した被害者という偏狭な観点に基づいたもの」と一蹴した。
キムさんは判決直後、「言ったのに無視され、どこにも言えず私の裁判を見守っていた性暴力被害者に連帯の気持ちを伝えたい」と述べた。彼女をはじめとして性暴力を告発した被害者の勇気に今一度敬意を表す。彼女らの「#MeToo」は韓国社会に滔々たる変化の波を起こしている。MeToo運動の本格的出発点となった徐志賢(ソ・ジヒョン)検事のセクハラ加害者安泰根(アン・テグン)元検事長は、「報復人事」を行った嫌疑で最近、懲役2年の判決を受け収監された。劇団の団員を常習的に痴漢した嫌疑で起訴されたイ・ユンテク元「演戯団コリペ」の芸術監督も先に懲役6年を言い渡された。
被害者の陳述に耳を傾けた裁判所の相次ぐ判決は意味が大きいが、それだけでは十分でない。人生をかけて性暴力に対決してたたかう被害者がむしろ美人局とか嘘つきと陰口をたたかれる等、2次被害が深刻な状況にある。性差別的権力構造が変わらない限り、権力型性暴力は消えない。共同体の構成員すべてが日常に蔓延した差別と暴力を認識し、これに対して憤然と抵抗しなければならない。


社説にもある韓国の#MeToo運動の端緒ともなった徐志賢検事の告発から1年の間に、韓国では与党の有力政治家が実刑判決を受けるまで、運動の成果が上がり、裁かれるべき罪が裁かれ、罰せられるべき者が罰せられている。
一方、日本で孤立無援状態でアベ友「ジャーナリスト」を訴えた女性は、その後、事実上の「亡命生活」を余儀なくされ、セクハラ官僚は減給20%6カ月の処分で5千万の退職金をもらって退職。それを放置し、輪を掛けたセクハラ発言を繰り返した所管大臣は今もその席にのうのうと居座り続けている……。お友だちと政権私物化した大統領をわずか数ヶ月で引きずり下ろした韓国―もはやリスペクトするしかなすすべがない天と地の違い……。

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