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in Sapporo [Photograph]

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豊平川河川敷のヒバリ

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成長したマガモの親子

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山鼻川


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注目すべきアルゼンチンの実力派BERNARDO CASAGRANDEのアルバム(My favorite jazz) [Jazz]

bernardo.jpgBERNARDO CASAGRANDE QUINTETO + ORQUESTA COMUNION
アルゼンチンのラ・プラタを中心に活躍するBERNARDO CASAGRANDEは今年33歳になるサックス奏者。ギターを加えたカルテットにストリングス6とブラス4のオーケストラ+女性ボイスによるアルバムCOMUNIONは、聖体拝領(ミサ聖餐においてキリストの体となったとされるパンとぶどう酒を食すること)という意味。音楽に宗教臭は感じられないが、全体がひとつの組曲のような壮大な趣がある。オーケストラは控えめながら、女性ボイスとともに随所に効果的に使われ、サウンドに厚みを持たせている。ラテンテイストに貫かれながらも、独特の世界観=音楽観を紡ぎ出していて、何度聴いても飽きない。カルテットのメンバーも実力派揃いで、味のあるソロを聴かせてくれる。それらをバックに、テナー、アルト、ソプラノを自在に使い分けるBernardo Casagrandeのサックスが光る。けだし傑作!

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マガモの母子 [Photograph]

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このところ公園のマガモの雛に夢中!

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マガモの一家 [Photograph]

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(札幌市内で)

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傑作、名作とは?ー最近ダウンロードしたアルバム(10) [Jazz]

Apple Musicを聴き始めてこのブログでレビューを書くようになり1年が経つ。ライブラリーもだいぶたまって、そろそろ★4つのアルバムのうち、あまり聴かないものは削除していこうかと思っている。一方で、★5つのアルバムの中には、何度となく聴いてきたものも少なくない。これらの中から、10年後もずっと聞き続けるアルバムが残るだろう。そうしたアルバムが何年経っても色褪せない、古さを感じさせない真の傑作、名作と呼ぶにふさわしのだろう。今回取り上げたマイルス・デイビスのライブも60年以上経つが、少しも古さを感じさせない。
毎週、Apple MusicのJazzカテゴリーには何十曲というニューアルバムがアップされるが、それらのうち私がダウンロードするのは1~2曲だ。基準は1に好みのジャンルで、2にその中でも私のツボにはまったもの、3に演奏と曲の質の高さ、4つめは斬新さやオリジナリティー、といったところだろうか。
TSUTAYAで借りるDVDの映画の中には、時に「お金と時間を返してくれ」と言いたくなるような高校・大学の映研レベルの作品に出くわすこともあるが、世界中から集められるApple MusicのJazzアルバムは、さすがにいちおうプロのレベルに達している作品ばかりだ。しかし、その中で、ダウンロードして繰り返し聴きたくなる作品はそうそうない。また、そう思ってダウンロードしてはみたものの、実際にはあまり聴かなかった作品、次第に忘れていった作品もある。そうして淘汰されて残ったものが、少なくとも私にとっての名作、傑作といえる作品なのだろう。

7.jpgLOGAN RICHARDSON blues PEOPLE ★★★★★ Logan Richardsonはミズーリ州カンザスシティー出身で37歳になるアルトサックス奏者。2ギターのクインテット編成で、メンバーはほかにJUSTUS WESTのELECTRIC GUITAR & VOCALS 、IGOR OSYPOVのELECTRIC & ACOUSTIC GUITARS 、DeANDRE MANNINGのELECTRIC BASS 、RYAN LEEのDRUMS。そのうちIGOR OSYPOVはウクライナ出身のギタリスト。アルバムの重厚なサウンドはクリスチャン・スコットのそれに通じるものがあるが、曲はより多様で幅が広い。タイトルにもあるようにブルージーな曲調は、ジャズの目指すべき方向のひとつの可能性を示しているようにも思われる。傑作といっていい。


4.jpgMiles Davis & John Coltrane The Final Tour ★★★★★ マイルス・デイビスクインテットによる1960年3月のパリとストックフォルムでのライブ音源。マイルスの第1期クインテットはすでにこの時期、解体・再編期に入っており、ピアノはレッド・ガーランドからウィントン・ケリーへ、ドラムはフィリー・ジョー・ジョーンズからジミー・コブへ代わっており、前年、「Giant Steps」を発表していたジョン・コルトレーンはこのツアーの後、ほどなくコンボを抜けている。そのコルトレーンが独自の奏法を確立していく途上にある演奏はすでに巨匠の片鱗を示しており、マイルスのリーダーアルバムなのに2人の名が冠された理由がよく分かる。220分にも及ぶので、私は同じ曲はベストのものだけダウンロードした。


5.jpgERIK FRIEDLANDER ARTEMISIA ★★★★★ Erik Friedlanderは今年57歳になるジャズチェリスト。父親は著名な写真家だったという。ジャズバイオリンはよく聴くが、チェロのジャズを聴くのは初めてだ。しかも、ピアノトリオをバックに、比較的オーソドックスなジャズを演奏している。時にピッチカートも駆使した演奏は、低音のバイオリンを聴いているような感じがする。このアルバムを聴いていると、弦楽器のジャズのソロ楽器としては、音域的にバイオリンよりもチェロの方が合っているのではないか、などと思う。


6.jpgDAVE LIEBMAN JOHN STOWELL PETITE FLEUR: THE MUSIC OF SIDNEY BECHET ★★★★☆ オープニングのPETITE FLEURを聞いて懐かしさを覚えた。幼い頃よく耳にした曲だ。アメリカのクラリネット、ソプラノサックス奏者シドニー・ベシェによって作られたこの曲は、1959年、ザ・ピーナッツのデビュー曲として「可愛い花」のタイトルで日本でも知られた。マイルスのグループに「オン・ザ・コーナー」(1972年)前後に在籍したマルチリード奏者Dave Liebman は現在71歳だが、最近はフリーっぽいジャズをやっているかと思ったら、これまた一転してしっとりとしたスタンダードジャズを聴かせてくれる。PETITE FLEURは最初のデュオ以外にも、中ほどにJohn Stowellのソロ、そして最後になんとDave Liebmanのピアノソロでも演奏されている。また、Dave Liebmanはこのピアノとサマー・タイムでのウッド・フルートの演奏を除いて、ソプラノサックスのみ吹いている。

8.jpgANDREAS VARADY THE QUEST ★★★★☆ ハンガリーのロマ民族出身のAndreas Varadyは20歳のギタリスト。ロサンゼルスで録音されたこのアルバムでは父親のOndrej Bandiがベースで、15歳の弟Adrianがドラムで参加している。ほかにアルトサックスのRadovan Tariskaはスロバキア出身、ピアノのBenito Gonzalezはベネズエラ出身。Andreasのギターはパット・メセニー的な現在の主流派ジャズギター奏法。アルバムはニュー・メインストリーム的に仕上がっている。Radovan Tariska のサックスが活きている。9のRadiskaはBenito Gonzalezのマッコイ・タイナー的演奏が聴け、アルバム一番の盛り上がりを見せる。


10.jpgSPIRIT FINGERS SPIRIT FINGERS ★★★★☆ Greg Speroのピアノ、フランス出身のHadrien Feraudのエレクトリック・ベース、Mike Michelleのドラム、イタリア出身のDario Chiazzolinoのギターからなるカルテットの演奏。注目はなんといってもHadrien Feraudのエレクトリック・ベース。随所で彼のソロが光っている。反対に、Greg Speroの単一和音を連打するピアノが、通奏低音的効果を狙ったのだろうが、私にはアルバム全体を単調なイメージにしているようで残念なところだ。


2.jpgDAN WEISS STAREBABY ★★★★☆ ニューヨークで活躍するDan Weissのドラムにエレクトリックベース、ギター、2台のピアノ&キーボードを加えた演奏は、ヘビメタにアバンギャルドジャズが融合したような独特の世界を創り出している。




3.jpgPOLYPLUS release ★★★★☆ POLYPLUSは様々なバンドで活躍する5人組のパンクジャズバンド。文字通りのフュージョンミュージックだ。特にTSUUJIIのサックスが炸裂する最初のlimiterがいい。




1.jpgCOHERENCE QUARTET SAGAYE ★★★★☆ サックスのŁukasz Kluczniak、ピアノのRobert Jarmuzek、ベースのMarcin Lamch、ドラムのMarcin Lamchはともに30〜40代のポーランドのミュージシャン。ECMテーストの良質で伝統的なヨーロッパジャズを聴かせてくれる。


9.jpgNubya Garcia When We Are ★★★★☆ Nubya Garciaはカリブ海出身の両親の元に生まれたイギリスの20代女性テナーサックス奏者。カルテットによるロンドン録音のEP盤。後半2曲は前半2曲のリミックス。Nubya Garciaのサックスは確実性があり、曲はコンテンポラリーなジャズに仕上がっている。



「最近ダウンロードしたアルバム」はいちおう今回で終了します。今後はダウンロードしたアルバムの中から、「これは傑作!感動した!」と思った作品のみ、随時取り上げていこうと思っています。


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極悪犯罪人アベシンゾウを逮捕はおろか辞任にも追い込めぬいじめ社会・ニッポンムラの絶望 [Criticism]

グローバルスタンダードでアベ辞任・アベ逮捕は当然
またも朝日新聞による森友事件有印公文書偽造のスクープ記事によって、今度こそ絶体絶命の危機に陥るだろうと思われたアベシンゾウだが、3月27日の佐川宜寿証人喚問の茶番劇で一件落着の様相さえ呈しつつある。首相とその夫人が首謀者である事件に関連する犯罪事実を決定的に裏付ける証拠が暴露され、自殺者まで出したというのに、当の首相が逮捕されないどころか辞任も内閣総辞職も行われない状態がここまで続いていることは、あまりに異常だ。アベ辞任もアベ逮捕も、もはや単に私の願望ではなく、グローバルスタンダードで見て極めて当然のことといっていいだろう。
隣の韓国で昨年、朴槿恵大統領辞任へと至った崔順実ゲートの発端となったJTBCの最初の報道は、一昨年10月24日のことだった。それからわずか5日後には大規模なデモが起こり、デモは日を追うごとに大規模化し、国会で大統領弾劾訴追案が可決された12月9日へ向けて、毎週土曜日、極寒の中、100万~200万の市民がソウル市中心部にキャンドルを灯して集まるようになった。それから朴槿恵が憲法裁判所によって最終的に大統領を罷免される3月10日まで、わずか4ヶ月あまりのできごとだった。

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崔順実ゲート事件はアベの森友事件の足下にも及ばない事件だった。さらにそれに先立つセウォル号事件がらみの疑惑を加えても、森友事件に加計事件を加えたらつま先にも及ばない。なのに、森友事件発覚から早1年以上が経過し、アベシンゾウがもはやこれ以上言い逃れできない決定的証拠を突きつけられても、デモはやっと1万人、もっと驚くべきことに内閣支持率が30~40%もあるという。韓国では事件発覚後、1ヶ月で大統領支持率が5%を切ったのとは雲泥の差だ。
これは、韓国が特殊なのではなく、日本が超特殊なのだ。まさに、「外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ」。『フランス・ジャポン・エコー』編集長で仏フィガロ東京特派員のレジス・アルノーは次のように述べている。
こういった行為が処罰されなければ、もはや政府を信頼することなどできなくなる。「もしフランスで官僚が森友問題と同じ手口で公文書を改ざんしたとしたら、公務員から解雇され、刑務所に送られるだろう。処罰は迅速かつ容赦ないものとなることは間違いない」と、フランスの上級外交官は話す。
また、改ざんにかかわった官僚の自殺、といった由々しき事態が起これば、その時点で国を率いている政権が崩壊することは避けられない。しかし、どちらも日本ではこれまでに起こっていない。麻生太郎財務相と安倍首相は、このまま権力を維持すると明言している。
(東洋経済オンライン「外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ」)

日本人のアパシーをもたらしたムラ社会
この日本人のアパシー(政治的無関心)はどこから来るのか? 考えてみれば、戦後の55年体制下で同じひとつの政党が30年以上、政権交代なしに与党であり続けたこと自体、議会制民主主義が正常に機能している国ではありえないことだった。そんな国は、結社の自由が認められていない社会主義国か独裁国家のうわべだけの議会制度でしかありえないことだ。私が「戦後民主主義」とかっこつきで戦後の体制を呼ぶゆえんだ。
その55年体制下で育った私は、永遠に続くかと思われるその自民党支配体制、中でも小学生から高校生まで続いた佐藤内閣にどれだけうんざりさせられ、息苦しさを覚えたかしれない。普通の政治的センスを持った他国の国民なら、別に失政がなくとも同一の政党が長らく政権に居座り続けること自体が耐えきれずに、政権を替えていたに違いない。こうした日本の特殊な政治体制と経済成長を、皮肉たっぷりに「唯一成功した社会主義国」と呼ぶ海外の学者もいた。
この日本人のアパシーは、江戸時代の封建制度に根を持ち、明治の近代化に温存されて強化された「長いものに巻かれろ」「郷に入っては郷に従え」という体制順応、思考停止、同調圧力、空気を読むムラ社会(民主主義社会とはおよそ対照的なもの)の産物といえよう。
しかし、だとしても、いわゆる戦後社会においては、ロッキード事件リクルート事件では当時の首相が退陣に追い込まれ、前者では田中角栄は有罪判決を受けている。両事件とも大変な疑獄事件だったが、森友事件、加計事件のように私利私欲と「お友だち」優遇のために権力を乱用し、そのためにウソをウソで塗り固めて犯罪行為を重ねていくほど悪質ではなかったように思う。しかも、田中角栄は日中国交回復や「日本列島改造論」など、評価は分かれるにしろそれなりの仕事をした首相だった。対するアベシンゾウは、改憲という祖父の遺訓実現のみを政治目的とし、そのために秘密保護法、集団的自衛権容認、「戦争法」、共謀罪法などで強行突破を積み重ね、外交ではなにひとつ成果を上げず東北アジアで孤立し、「アベノミクス」も完全破綻した。要するに、なにひとつ国民のためになる政策をこの5年以上の間に実行してきていない。

いじめ社会が生んだアベシンゾウ
では、なぜかくも政治が劣化し、アベシンゾウのような無能な極悪犯罪人がことここに至っても逮捕はおろか自ら国会で約束した首相辞任・議員辞職すらせず居座り続けることを許しているのか? そこには、彼のバックボーンである日本会議の強力な意志がはたらいているだろうことが容易に推測されるが、やはりそれをも許さぬ国民の意志が全くはたらいていないことの方が問題だ。
私たち、戦後民主主義のもとで日教組が強かった教育現場で教育を受けてきた世代は、まかりなりにも政治に対する批判力だけは培われてきたと思う。ところが、そこに日本会議をはじめとするこの国の極右勢力の粘り強い草の根運動が徐々に功を奏して、1970年代頃から日教組は骨抜きにされ、実質的に解体されていった。以降、教育現場には事なかれ主義が蔓延し、学校は、政治がタブーとされ、主体的に考え行動できる人格を育てる教育とは真逆の、ひたすら空気を読んで大勢に順応する奴隷のような人間を大量生産するムラ社会養成工場と化していった。
そして、そうした教育現場の荒廃が、学校のいじめ社会化をもたらすことになる。私たちの世代にとってはアベシンゾウは極めて特殊で非常識きわまりない人間と写り、私などやつのことを考えただけで吐き気がしてくるのだが、いじめ社会で育った人たちには、アベシンゾウはごくありふれた存在に過ぎないようだ。確かに私たちの時代にも、学校にアベシンゾウはいたが、彼がクラスを牛耳るようなことはなかった。しかし、いつのころからか、アベシンゾウがクラスででかい顔をし、何をしても許されるようになり、それに反発し、反旗を翻す子どもは、いじめの対象となるか、シカトされ排除されるようになった。教師たちもアベシンゾウの悪行を見て見ぬ振りをし、そのうち、あろうことかアベシンゾウを特別待遇し、賞賛する教師まで現われた。そして、子どもたちは学んだ。世の中をうまく生きて行くには、アベシンゾウに逆らってはいけない。アベシンゾウにうまく合わせて生きていくことが最上の処世術だと。
そうして子どもたちはアベシンゾウにへつらう一部の人間と、距離を置きつつ見て見ぬ振りをしてやり過ごす一部の人間を両極とし、多くの子どもたちはその範囲内でうまく立ち回ることを学んでいった。

社会化したアベシンゾウ
しかし、今から20~30年前までは、それは学校内だけの特殊な社会であり、実社会にはたしかに様々な不合理・不条理が満ちあふれてはいても、それを正す正義の装置が働いていた。職場には労働組合があって働くものの権利を守るために活動していたし、組合のない会社にもその影響力は一定程度及んでいた。だが、非正規雇用化が進み、労働組合の組織率がどんどん低下していくにしたがい、職場のいじめ社会化が静かに進行していった。そして、やがて職場にもアベシンゾウが現われ、職場に君臨するようになった。職場に不合理・不条理が蔓延し、労働者の権利は剥奪され、低賃金、長時間労働を強いられても、誰も文句を言えない空気が支配していった。学校でいじめを受けても、問題化されるのはその子が自殺したあとのみであるように、職場でも過労死して初めて遺族が問題化することができるだけとなった。
かくして、アベ政治になる前に、すでに社会はアベシンゾウに支配されていた。3・11で原発が爆発し、世界が脱原発に動く中でも、アベシンゾウ社会は誰の責任も追及せず、再稼働を目指した。
よく、過労死するほど過酷な労働を強いられ、みんな生きることに必死だから、政治のことなど考えている暇もないのだ、という主張を聞くが、それは一見もっともらしく聞こえる理屈ではあるけれど、歴史的事実に完全に反する。資本主義成立以来、世界の労働者は常にそのような過酷な労働を強いられてきたが、だからこそ労働者は団結して立ち上がり、自ら労働基本権を獲得してきたというのが、歴史的事実だ。思考力・判断力を奪うような労働の強制は、資本主義的労働ですらない。それは奴隷社会での奴隷労働だ。もしこの国の国民が、疲れてものを考える気力さえ奪われるような労働を強いられているのだとしたら、それは奴隷労働にほかならない。

ここでアベシンゾウを倒せなければ、やつが死ぬまで誰も止められない
私はまだ、完全にアベ退陣を諦めたわけではない。市民と野党の力で退陣に追い込めなくとも、9月の「自民党」総裁選でアベが敗れる可能性もある。そこまでは見届けたいと思う。
だが、アベがこのまま生き延び、9月の総裁選で再選されれば、もはやアベシンゾウを止めるものは何もない。9条のみならず、緊急事態条項、家族条項等を盛り込んだアベシンゾウと日本会議の悲願である「自主憲法」が必ずや成立するだろう。そして、おそらくアベシンゾウが死ぬまで、やつは権力を手放さないだろう。この国から完全に正義が消え去るだろう。
その時、私は海外移住、亡命、難民申請等、この国を棄てる道を探るだろう。

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真実は埋もれないーアベ退陣までこの歌を歌い続けよう! [Politics]

[るんるん]
真実は埋もれない

闇は光に勝てぬ

嘘は真に勝てぬ

真実は埋もれない

われらは諦めない

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この歌は韓国のボブ・ディラン=ユン・ミンソクが2014年のセウォル号沈没事故に際して作詞作曲した歌だが、一昨年秋から年末にかけて朴槿恵退陣を求めるキャンドル革命の中で、100万、200万の市民たちによって歌い継がれた歌でもある。(原題の正確な訳は「真実は沈没しない」)
私は森友疑惑が持ち上がった昨春、アベ退陣を求めるデモで歌われることを願ってこの歌の訳詞をしてみた。

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ウソをウソで塗り固めるために公文書偽造という重大犯罪にまで手を染めた事実が発覚して以来、国民のアベ政権への不信がかつてなく高まっている。アベ退陣を求める市民のデモも、毎週金曜日夜の首相官邸前抗議行動をはじめ、全国に広がっている。
今こそ、この歌を歌ってアベを退陣に追い込もう!




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最近ダウンロードしたアルバム(9)ー多様化するJジャズ [Jazz]

アジアで日本人ほどジャズ好きな国民も珍しい。戦前からジャズは受け容れられてきたが、戦後のアメリカ占領軍の進駐とともに、Jジャズが本格的に根付いた。秋吉敏子、渡辺貞夫らを嚆矢として、1970年前後には日野輝正、山下洋輔、ジョージ川口、菊地雅章らを排出し、その後、小曽根誠、大西順子、上原ひろみ、山中千尋ら、バークリー音楽大学を主席で卒業しなければ一流でないというような時期を経て、現在は国内外に世界的に通用するミュージシャンが数え切れないほどいる。第2次大戦後、同じようにアメリカ軍が駐留しながらも、つい最近までジャズがマイナーな存在に留まっていた隣の韓国とは好対照だ。私自身も含め、アフリカンアメリカンから始まったこの音楽が、なぜかくも日本人の心を惹きつけるのか謎だ。

6.jpgNat Birchall COSMIC LANGUAGE ★★★★★ Nat Birchall – tenor saxophone & percussion; Adam Fairhall – Indian harmonium; Michael Bardon – Bass; Andy Hay – Drums & percussion。イギリスのサックス奏者Nat Birchallのカルテットの演奏だが、ピアノの代わりにインディアンハーモニウムという楽器が用いられている。これはジャケットでも明らかなように、小型のオルガンのような楽器で、オルガンとアコーディオンの中間のような音色がする。その中世の教会音楽を思わせる旋律に乗せて、Nat Birchallのスピリチュアルな演奏が展開され、独特な世界観が醸し出される。この楽器が起用されなければ、★ひとつ減っていただろう。


1.jpgBRAD MEHLDAU After Bach ★★★★★ これまでの私のBRAD MEHLDAU評は、パット・メセニーをはじめ、多くのミュージシャンとの共演で抜群のピアノを弾くが、リーダーアルバムはちょっとね、「名脇役」といったところ? といったものだったが、このアルバムがそのような評価を一変させた。バッハの「平均律クラビーア曲集」から5曲をピックアップし、各曲の間にクラシカルなオリジナル曲を挿入し、全12曲で構成される。昔、山下洋輔もどこかで論じていたが、バロック時代の音楽は、不協和音を含む音階や対位法、通奏低音などジャズと共通する要素があるからか、古くからジャズミュージシャンによって取り上げられてきた。(私がクラシック音楽で唯一惹かれるのがバッハであるのも、そのことと関係があるのかもしれない。)しかし、このアルバムは、ジャック・ルーシェに代表されるようなそうしたジャズバロック、ジャズバッハではなく、J.S.Bachの作品に正面から取り組んでいる。そうしたバッハへのアプローチの先駆者としては、キース・ジャレットが名高い。キース・ジャレットも平均律のアルバムを出しており、彼の場合、第1巻はピアノで演奏したが、それに飽き足らず、第2巻ではチェンバロでレコーディングしたほどの熱の入れようだった。BRAD MEHLDAUのバッハはキース・ジャレットには及ばないが、After Bach的なクラシカルなオリジナル曲との調和もよく、バッハ好きな私を満足させてくれる。


4.jpgTOSHIO MATSUURA GROUP LOVEPLAYDANCE ★★★★☆ クラブジャズ、DJの松浦俊夫によるイギリスのミュージシャンを起用しロンドンで録音したジャズアルバム。といっても、松浦俊夫の過去の活躍については、私は一切知らない。でも、このアルバムでは、本欄でも以前に取り上げたカマシ・ワシントンやMAST、MENAGERIE等の音楽にも通じる21世紀のグローバルジャズの新しい潮流を体現することに成功していると思う。



5.jpg瀧北榮山、向井航、地代所悠、石若駿 innocence ★★★★☆ 最初に聴いた時は、よくある和楽器とジャズとのセッションかと思ったが、調べてみると、全員東京藝術大学を卒業し、様々な音楽シーンで活躍しているミュージシャンばかり。桑原あいとのデュオアルバムでも話題になったドラマーの石若駿を除いた3人は、藝大時代にバンドを組んでいたそうだ。瀧北の尺八はほとんどフルートに聞こえる。



2.jpgH ZETTRIO Mysterious Superheroes ★★★★☆ これぞある意味、Jジャズの典型のようなアルバム。ピアノのH ZETT Mはジャズにとらわれないあらゆるジャンルの音を融合させたような音楽を紡ぎ出すが、考えてみれば、彼の音の源流は(その派手なパフォーマンスも含めて)上原ひろみあたりにあるような気もする。


3.jpgYuji Masagaki birth ★★★★☆ 大阪でストリートライブ活動を行っていたというエレクトリック・ベーシスト正垣雄治のアルバム。私的には森田祐介のようなベースが好きで、マーカス・ミラー的な弾(はじ)くベースは好みでないが、ものすごいテクニックの持ち主であることは確か。本欄でも取り上げたことのあるポーランドの女性ベーシストKINGA GŁYKと似た音楽を作り出しているが、KINGA GŁYKの演奏が抑制的だったのに比べ、このアルバムで正垣は、これでもかというほどの超絶プレイを繰り広げている。それが前面に出すぎて、音楽自体はイマイチの水準だが、将来性に期待して★半分おまけ。名だたるミュージシャンと共演したメジャーデビュー5つ★のアルバムを待ってるよ。

(これらのアルバムは、最近Apple Musicを通してダウンロードしたアルバムを紹介しています。)

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クスリに生きる? 個性に生きる! [Anti-psychotropic drugs]

自分が飲んでいる向精神薬の薬害に気づいてちょうど6年。一度の断薬失敗経験を踏まえ、現在は最後まで残ったベンゾジアゼピンを数年計画で減薬中だ。この間、多くの薬害被害者や向精神薬服用者に接したり意見交換してきた。私のように向精神薬の薬害に苦しむ人をひとりでも救いたいという思いから、3年前に『のむな、危険!-抗うつ薬・睡眠薬・安定剤・抗精神病薬の罠』という本を出しもした。
ちょうどその頃、偶然知り合った30前後の若者が、パニック障害から向精神薬を服用するようになって間もないことを知り、自著を渡したものの、彼は「クスリが私を救ってくれた」と、私の言うことに聞く耳を持たず、ずいぶんと歯がゆい思いをしたこともあった。その後も、クスリについてツイートすると、反論のリプライをもらうことも少なくない。とくにそんなリプライをする人には、いわゆる「大人の発達障害」という人が少なからずいる。
正直、現在の私としては、自分が大切に思う身近な人でない限り、大人の場合、自分の飲んでいるクスリを含む向精神薬のことを十分勉強し、その危険性を十分認識したうえで服薬を選択するなら、それは自己責任自己決定権の問題であり、それをとやかく言うつもりはない。3年前のくだんの若者についていえば、当時、彼と同年代の薬害被害者の青年が「痛い目に遭えばいい」と突き放した言い方をし、私としては冷たいなと思ったものだが、今思えばそれこそ「知ったこっちゃない」。
ただ、現実には、かつての私のように、自分の飲んでいるクスリについてあまりに無知でその危険性を全く認識せずに、精神科医の言うがままに服薬している人が大多数であるという現実には、引き続き警鐘を鳴らしていかなければならないとは思う。もっとも、私が罠にはまった頃に比べれば、クスリに関する情報は数百倍もネットや書籍に溢れており、アクセスしようと思えばいつでも豊富な情報が得られるのだが……。(それについても、少しでも情報に触れる機会を増やすために、「お薬情報に医薬品添付文書情報の提供を求める運動」を実践し、人にも参加を呼びかけている。)
そして一方で、現在の精神医療のあり方やシステムの変革へ向けて、自分なりに微力を尽くしていかなければならないとも思う。

社会に自分を合わせて埋没させるか? 個性に合わせて社会との関係を築くか?
私の人生を振り返ってみれば、幼稚園という家族を出て初めて接した「社会」になじむことができず、場面緘黙症になり、学校社会での生きづらさは高校卒業まで続いた。高校のときには重度の強迫性障害にも苦しめられた。そのときには、病院に行って楽になりたいと思いつつも、誰にも打ち明けられずに苦しんだものだが、薬害を経験して、あの頃、もし病院へ行って大事な青春、ひいては人生を棒に振ることにならずによかったとつくづく思う。
私の生きづらさは大学に進学して一時期解消されたのだが、それは大学という「社会」に自分が溶け込めたからではなく、その中にたまたま学生運動という自分の居場所を見つけたことによる。そこで私は解放された自分の個性に出会うことができたのだ。
資本主義社会で生まれた義務教育制度を軸とする教育とは、子どもたちを社会に適合させるために剪定したり選別する過程にほかならないと私は思う。大部分の子どもたちはそれに適応してついていけるのだが、中には選別過程ではじかれたり、剪定が苦痛で悲鳴をあげる子どももいる。そういう子どもたちはやれ発達障害だ、情緒障害だ、知的障害だというレッテルを貼られて「特別支援学級」とかに送られる。そして、偏差値によって選別された子どもたちは、レベル分けされた高校、大学へ進み、イチゴに例えれば、やがて等級付けされたとちおとめとかさがほのかとかのブランドで市場に出され、一方、途中で落ちこぼれた子どもたちは「訳あり商品」としてセールでたたき売りされる。さらに、あらかじめはじかれてしまった子どもたちは、市場に出されることすらない。だから、なんとか少しでも高く売られる商品になろうと、子どもたちとその親は必死になり、レッテル貼りされた子どもたちとその親は、なんとかそのレッテルを剥がしてもらおうと必死になって、時にクスリの力を借りようとする。
私は、クスリの力こそ借りなかったけれど、そうした教育という見えない檻の中でもがき苦しみながら、振り落とされまいと必死に大学まで進んだが、そこで見つけた居場所は、考えてみればすでに半分以上、社会からはみ出した場所だった。それでも、そこで出会った仲間たちはその後、みんなそれなりにいい値段をつけることに成功して社会に出て行ったが、私はそこで、それ以上、社会に自分を合わせることをやめた。
大学を卒業して、私は大きな企業とか役所というような組織=社会に自己を埋没させる生き方ではなく、自分の個性に合った生き場所(小さな出版社や労働運動)を見つけて生きてきた。さらにそうした社会にもある種の違和感を覚えた私は、以降、フリーランスの仕事を選んで社会との距離感を保ちながら生きてきた。
そうした私も、結婚し子どもができ家庭を持ったとき、妻との軋轢が原因で自律神経失調症とパニック障害を発症するに至る。しかし、そこでも私は発症の原因が分かっていたので、対症療法としてクスリに頼ることがあっても、それを根本的に治すことができるのは精神療法・カウンセリングであろうと思ったため、わざわざカウンセラーのいる心療内科を紹介してもらったものの、そこで向精神薬の罠にはまることになってしまったのだった。それだけに、のちにその罠に気づいたときは、とても悔しい思いをした。その悔しさが、今、再度断薬に挑戦している私を支えている。
つまり、私は自分という個性に生きる道を選び、社会に自分を合わせるのではなく、自分に合った社会とのつながり方を模索することによって、自己をかろうじて保ってきた。
しかし、すべての人に私のような生き方が出来るわけでもなかろうし、すべての人がそういう選択をするわけではない。
むしろ、多くの人々が自分の個性を、時にはそれを殺してでも、自分を社会に合わせる生き方を選ぶ。あるいはそうせざるを得ない人生を送っている。そしてその中で生きづらさを覚え、ときにその生きづらさに耐えきれなくなってクスリに頼ることになる。
前述したように、大人の場合、精神医療なり向精神薬の本質を十分知ったうえでなら、そうした生き方も現実には認めざるを得ないだろう。ましてや、それでよしとする人に、私がとやかく言う筋合いは全くない。

放射能と共に生きる? 放射能を拒否して生きる!
こうしたことは、なにもクスリの問題に限ったことではない。例えば、3・11以降に私たちに否応なく降りかかってきた放射能社会とどう向き合うかといった問題も同じだ。本当はあのとき、国民的議論をへて、全国民が納得できる解決策を見つけ出すべきだったのだが、現実はそれとは全く逆に、真実を隠蔽し、「経済合理性」を優先する選択が強行されてきた。その中で、私自身は、自身の放射能への感受性の問題も含めて、自分は放射能と共存できないと結論を出し、放射能から遠ざかり、放射能を避ける生き方を積極的に追求してきたし、これからもそうした生き方をしていく。また、自分が大切と思う身近な人々にも、最大限、放射能から遠ざかるための支援をしている。
しかし、放射能に対する正確な知識を得たうえでなら、放射能と共に生きる生き方を選択した人、放射能と妥協しながら生きる生き方を選択した人に、(大人の場合)とやかく言うつもりは毛頭ない。もっとも、放射能に関する(正しい、正しくないの問題以前に)知識自体をほとんど持たずに日々放射能と共存・妥協した生活を送っている人々が大多数であるという嘆かわしい現実が横たわっているのも事実だが……。
つまるところ、究極的には人それぞれの人生観、生き方の問題にいきつく。その土俵の上に乗って、ああでもないこうでもないの議論を繰り広げることほど不毛なことはない。勝手にしやがれ。私は私の道を行く。あなたはあなたの道をどうぞ。最後はそれしかない。

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3・11が産み落としたグロテスクな怪獣・晋ゴジラ。たとえ倒れても手放しでは喜べぬ [Criticism]

3・11と8・15
もうすぐ3・11から丸7年が経とうとしている。今を生きる私たちにとっての3・11とは、70年前に生きた人々にとっての8・15にも等しい重い意味を持つ。3・11も8・15も、明から暗へ、あるいはその逆へと歴史が転換したという意味ではなく、連綿と絶えることなく続く歴史のコインがただ単に裏返ったに過ぎないという意味において。
3・11から1年9ヶ月後、3・11を文字通り画期として飛躍を遂げる可能性を秘めていた脱原発運動は最終的に敗北し、戦後体制が臨界点を迎えてメルトダウンを起こした3・11の、放射能に汚染された腐敗した土壌の中から、最悪のアベ政権が産み落とされることになった。原子力緊急事態宣言下、原子力ムラの復活を密かに企む財界とその後ろ盾たるアメリカにとっては、平常時ならば許容範囲外にある改憲を最終目的とする日本会議=アベ独裁こそが、望ましい日本の政治形態だったからである。
そして事態は予想した通り、特定秘密保護法、‘戦争法’、共謀罪法の強権的制定を経て、憲法改悪へと突き進みつつある。しかし、私も想定外だったのは、独裁化を強めるアベが、国家を私物化し、違法行為を犯してまでも身内に便宜を図り、官僚を思いのままに操って国家犯罪を次々と重ねてきたことだった。
すでに森友疑惑が発覚してから1年以上経過したが、ここにきてメディアの最後の矜持をかけた朝日新聞のスクープを契機に、この1年間に及んだ一連のアベ疑獄事件は最終局面に突入した。どちらに転ぶにせよ、この一連のアベ疑獄事件は今後、数週間から2、3ヶ月以内に決着がつけられるだろう。つまりそれは、民主主義の側の勝利に終わるか、アベ終身独裁をも視野に入れた法治国家の死滅として帰結するかである。

不可欠な3・11と8・15への視点
後者に転んだとしても、幸いアベには金正恩のような血を分けた後継者がいないので、今後、数年後になるか、あるいは10年後、20年後になるかは分からないが、いつかは必ず夜が明ける。
いずれにしろ、ポストアベ政治の時代になったとき、私たちは初めてアベシンゾウという憲政史上まれに見る凶悪かつ醜悪な存在をまな板の上に載せて客観的に論じ、評価を下すときが訪れるだろう。その際、絶対忘れてならないのは、3・11と8・15への視点なのである。
私たちは本来なら、3・11がもたらした原発事故と放射能汚染という現実に真正面から向き合い、脱原発社会を志向しなければならなかったはずだが、現実には国民の多くがその問題から目を背け、考えることを放棄した。そして、その結果が怪獣・晋ゴジラの登場だった。だから、アベシンゾウを総括する際に、私たちはまずもって、3・11の総括から始めなければならない。3・11に改めて向き直ることから始めなければならない。アベの数々のフェイク量産を許すことになったのも、原発と放射能に関する数々のフェイクを、ろくに検証もせずに受容してきた結果であるといっても過言でないからだ。
と同時に、アベシンゾウの総括は8・15の総括までへと遡らなければならない。アベに反対する市民や野党の憲法(9条)守れの保守の論理は、改憲勢力の革新的情念の前に、余りに無力であった。それはひとつに、改憲派が主張するように、日本国憲法は日本の市民がたたかいとったものではなく、アメリカ占領軍によって与えられたものだったからであり、さらには戦後民主主義が、少なくとも形式的にはあの戦争の最高責任者であった大元帥=天皇裕仁をはじめとする戦争犯罪人たちを自ら裁き、国体を解体したうえに成立した革命政権ではなく、国体(天皇制)を維持したまま、GHQによって与えられた「民主主義」にすぎなかったからである。

転機となった2つの吉田証言と美味しんぼ鼻血事件
もし仮に、朝日新聞の頑張りによって数週後にアベ政権が倒れることがあろうとも、それで朝日を含む報道各社がアベに屈服を強いられてきた事実を帳消しにすることはできない。朝日が、2014年のアベ政権による2つの吉田証言攻撃に有効に反撃できず、その後しばし忖度報道を余儀なくされたことの意味は小さくない。
さらに同年のビッグコミックスピリッツにおける「美味しんぼ」放射能鼻血問題への原子力ムラによるフェイク攻撃に全マスコミが同調し、以降、「放射能」がマスコミで、次いで市民社会内でも実質的に禁句となったことの意味は計り知れない。当時あれほど気にしていた食品の産地表示も、7年経った今、どれだけの人が日々気にしながら食品を摂取しているだろうか? 例えばセシウム137の半減期が30年であることさえもう忘れてしまったのだろうか? 今日も東京電力福島第一原子力発電所跡の廃墟からは、大量の汚染水が太平洋に向けて垂れ流されていることも、もうとうに忘れてしまったのだろうか? 行政が認めただけでも150人以上の子どもたちが甲状腺がんの手術を受けており、また首都圏を中心に、3・11以前にはなかった列車内の急病人発生が日常茶飯事になっていること等々…脱原発派の人々でさえ、「いちいち気にしていたら生きていけない」とばかりに、考えることを放棄してしまっているのではないのか? しかし、そうした私たち一人ひとりの3・11への向き合い方が、怪獣・晋ゴジラを生み出したのである。そうである限り、永田町の怪獣・晋ゴジラは退治されても、私たちの心に棲みついた怪獣・晋ゴジラは消えることがない。

晋ゴジラを倒し、二度と生き返らせないために
また、韓国では数ヶ月の市民の闘争でアベほどではない政権私物化を行った朴槿恵政権さえ退陣に追い込まれたのに対し、日本は崔順実ゲートがふたつ、みっつと重なり、問題発覚後1年以上経過しても決着を見ないことの最大の原因は、ムラ社会の国民の無関心と諦めと長いものに巻かれろの奴隷根性にほかならない。
したがって、それはポストアベの対処法へも影響してこよう。アベが単に辞任するだけで、あるいは国会議員を辞職するだけでよしとするのか? あるいは韓国のように逮捕、起訴、有罪、下獄するまで許さないのか? 後者の場合は、もちろんアベシンゾウひとりに留まる問題ではない。萩生田元官房副長官、下村元文科相、麻生財務相、稲田元防衛相、菅官房長官らの政治家、迫田・佐川元理財局長、北村内閣情報官らの官僚、さらに安倍昭恵、そして加計孝太郎らの民間人まで含めて数十人の逮捕者を出すことが不可避だろうが、そこまで法治国家としての自浄作用がなされうるのか? それによっても、ポストアベ社会の様相は大きく異なってくる。
私も、数週間後になるのか、10年以上先のことになるのか、いつかアベ政権が倒れた暁には、まずは祝杯をあげて素直に喜びたい。しかし、喜びも八分、酔いも八分に抑えなければならない。そして、ポスト8・15、ポスト3・11の総括作業をしっかりとやり遂げなければならない。この国に、正義を取り戻し、真の民主主義社会を実現し、自立した市民が自分の頭で考え、自分の足で立って自己決定していく社会を実現し、二度と晋ゴジラのような奇っ怪な怪獣を生み出さないために。
怪獣・晋ゴジラが突きつけたこの国の未成熟な市民社会の課題は余りに重い。


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