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極悪犯罪人アベシンゾウを逮捕はおろか辞任にも追い込めぬいじめ社会・ニッポンムラの絶望 [Criticism]

グローバルスタンダードでアベ辞任・アベ逮捕は当然
またも朝日新聞による森友事件有印公文書偽造のスクープ記事によって、今度こそ絶体絶命の危機に陥るだろうと思われたアベシンゾウだが、3月27日の佐川宜寿証人喚問の茶番劇で一件落着の様相さえ呈しつつある。首相とその夫人が首謀者である事件に関連する犯罪事実を決定的に裏付ける証拠が暴露され、自殺者まで出したというのに、当の首相が逮捕されないどころか辞任も内閣総辞職も行われない状態がここまで続いていることは、あまりに異常だ。アベ辞任もアベ逮捕も、もはや単に私の願望ではなく、グローバルスタンダードで見て極めて当然のことといっていいだろう。
隣の韓国で昨年、朴槿恵大統領辞任へと至った崔順実ゲートの発端となったJTBCの最初の報道は、一昨年10月24日のことだった。それからわずか5日後には大規模なデモが起こり、デモは日を追うごとに大規模化し、国会で大統領弾劾訴追案が可決された12月9日へ向けて、毎週土曜日、極寒の中、100万~200万の市民がソウル市中心部にキャンドルを灯して集まるようになった。それから朴槿恵が憲法裁判所によって最終的に大統領を罷免される3月10日まで、わずか4ヶ月あまりのできごとだった。

seoul.jpg

崔順実ゲート事件はアベの森友事件の足下にも及ばない事件だった。さらにそれに先立つセウォル号事件がらみの疑惑を加えても、森友事件に加計事件を加えたらつま先にも及ばない。なのに、森友事件発覚から早1年以上が経過し、アベシンゾウがもはやこれ以上言い逃れできない決定的証拠を突きつけられても、デモはやっと1万人、もっと驚くべきことに内閣支持率が30~40%もあるという。韓国では事件発覚後、1ヶ月で大統領支持率が5%を切ったのとは雲泥の差だ。
これは、韓国が特殊なのではなく、日本が超特殊なのだ。まさに、「外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ」。『フランス・ジャポン・エコー』編集長で仏フィガロ東京特派員のレジス・アルノーは次のように述べている。
こういった行為が処罰されなければ、もはや政府を信頼することなどできなくなる。「もしフランスで官僚が森友問題と同じ手口で公文書を改ざんしたとしたら、公務員から解雇され、刑務所に送られるだろう。処罰は迅速かつ容赦ないものとなることは間違いない」と、フランスの上級外交官は話す。
また、改ざんにかかわった官僚の自殺、といった由々しき事態が起これば、その時点で国を率いている政権が崩壊することは避けられない。しかし、どちらも日本ではこれまでに起こっていない。麻生太郎財務相と安倍首相は、このまま権力を維持すると明言している。
(東洋経済オンライン「外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ」)

日本人のアパシーをもたらしたムラ社会
この日本人のアパシー(政治的無関心)はどこから来るのか? 考えてみれば、戦後の55年体制下で同じひとつの政党が30年以上、政権交代なしに与党であり続けたこと自体、議会制民主主義が正常に機能している国ではありえないことだった。そんな国は、結社の自由が認められていない社会主義国か独裁国家のうわべだけの議会制度でしかありえないことだ。私が「戦後民主主義」とかっこつきで戦後の体制を呼ぶゆえんだ。
その55年体制下で育った私は、永遠に続くかと思われるその自民党支配体制、中でも小学生から高校生まで続いた佐藤内閣にどれだけうんざりさせられ、息苦しさを覚えたかしれない。普通の政治的センスを持った他国の国民なら、別に失政がなくとも同一の政党が長らく政権に居座り続けること自体が耐えきれずに、政権を替えていたに違いない。こうした日本の特殊な政治体制と経済成長を、皮肉たっぷりに「唯一成功した社会主義国」と呼ぶ海外の学者もいた。
この日本人のアパシーは、江戸時代の封建制度に根を持ち、明治の近代化に温存されて強化された「長いものに巻かれろ」「郷に入っては郷に従え」という体制順応、思考停止、同調圧力、空気を読むムラ社会(民主主義社会とはおよそ対照的なもの)の産物といえよう。
しかし、だとしても、いわゆる戦後社会においては、ロッキード事件リクルート事件では当時の首相が退陣に追い込まれ、前者では田中角栄は有罪判決を受けている。両事件とも大変な疑獄事件だったが、森友事件、加計事件のように私利私欲と「お友だち」優遇のために権力を乱用し、そのためにウソをウソで塗り固めて犯罪行為を重ねていくほど悪質ではなかったように思う。しかも、田中角栄は日中国交回復や「日本列島改造論」など、評価は分かれるにしろそれなりの仕事をした首相だった。対するアベシンゾウは、改憲という祖父の遺訓実現のみを政治目的とし、そのために秘密保護法、集団的自衛権容認、「戦争法」、共謀罪法などで強行突破を積み重ね、外交ではなにひとつ成果を上げず東北アジアで孤立し、「アベノミクス」も完全破綻した。要するに、なにひとつ国民のためになる政策をこの5年以上の間に実行してきていない。

いじめ社会が生んだアベシンゾウ
では、なぜかくも政治が劣化し、アベシンゾウのような無能な極悪犯罪人がことここに至っても逮捕はおろか自ら国会で約束した首相辞任・議員辞職すらせず居座り続けることを許しているのか? そこには、彼のバックボーンである日本会議の強力な意志がはたらいているだろうことが容易に推測されるが、やはりそれをも許さぬ国民の意志が全くはたらいていないことの方が問題だ。
私たち、戦後民主主義のもとで日教組が強かった教育現場で教育を受けてきた世代は、まかりなりにも政治に対する批判力だけは培われてきたと思う。ところが、そこに日本会議をはじめとするこの国の極右勢力の粘り強い草の根運動が徐々に功を奏して、1970年代頃から日教組は骨抜きにされ、実質的に解体されていった。以降、教育現場には事なかれ主義が蔓延し、学校は、政治がタブーとされ、主体的に考え行動できる人格を育てる教育とは真逆の、ひたすら空気を読んで大勢に順応する奴隷のような人間を大量生産するムラ社会養成工場と化していった。
そして、そうした教育現場の荒廃が、学校のいじめ社会化をもたらすことになる。私たちの世代にとってはアベシンゾウは極めて特殊で非常識きわまりない人間と写り、私などやつのことを考えただけで吐き気がしてくるのだが、いじめ社会で育った人たちには、アベシンゾウはごくありふれた存在に過ぎないようだ。確かに私たちの時代にも、学校にアベシンゾウはいたが、彼がクラスを牛耳るようなことはなかった。しかし、いつのころからか、アベシンゾウがクラスででかい顔をし、何をしても許されるようになり、それに反発し、反旗を翻す子どもは、いじめの対象となるか、シカトされ排除されるようになった。教師たちもアベシンゾウの悪行を見て見ぬ振りをし、そのうち、あろうことかアベシンゾウを特別待遇し、賞賛する教師まで現われた。そして、子どもたちは学んだ。世の中をうまく生きて行くには、アベシンゾウに逆らってはいけない。アベシンゾウにうまく合わせて生きていくことが最上の処世術だと。
そうして子どもたちはアベシンゾウにへつらう一部の人間と、距離を置きつつ見て見ぬ振りをしてやり過ごす一部の人間を両極とし、多くの子どもたちはその範囲内でうまく立ち回ることを学んでいった。

社会化したアベシンゾウ
しかし、今から20~30年前までは、それは学校内だけの特殊な社会であり、実社会にはたしかに様々な不合理・不条理が満ちあふれてはいても、それを正す正義の装置が働いていた。職場には労働組合があって働くものの権利を守るために活動していたし、組合のない会社にもその影響力は一定程度及んでいた。だが、非正規雇用化が進み、労働組合の組織率がどんどん低下していくにしたがい、職場のいじめ社会化が静かに進行していった。そして、やがて職場にもアベシンゾウが現われ、職場に君臨するようになった。職場に不合理・不条理が蔓延し、労働者の権利は剥奪され、低賃金、長時間労働を強いられても、誰も文句を言えない空気が支配していった。学校でいじめを受けても、問題化されるのはその子が自殺したあとのみであるように、職場でも過労死して初めて遺族が問題化することができるだけとなった。
かくして、アベ政治になる前に、すでに社会はアベシンゾウに支配されていた。3・11で原発が爆発し、世界が脱原発に動く中でも、アベシンゾウ社会は誰の責任も追及せず、再稼働を目指した。
よく、過労死するほど過酷な労働を強いられ、みんな生きることに必死だから、政治のことなど考えている暇もないのだ、という主張を聞くが、それは一見もっともらしく聞こえる理屈ではあるけれど、歴史的事実に完全に反する。資本主義成立以来、世界の労働者は常にそのような過酷な労働を強いられてきたが、だからこそ労働者は団結して立ち上がり、自ら労働基本権を獲得してきたというのが、歴史的事実だ。思考力・判断力を奪うような労働の強制は、資本主義的労働ですらない。それは奴隷社会での奴隷労働だ。もしこの国の国民が、疲れてものを考える気力さえ奪われるような労働を強いられているのだとしたら、それは奴隷労働にほかならない。

ここでアベシンゾウを倒せなければ、やつが死ぬまで誰も止められない
私はまだ、完全にアベ退陣を諦めたわけではない。市民と野党の力で退陣に追い込めなくとも、9月の「自民党」総裁選でアベが敗れる可能性もある。そこまでは見届けたいと思う。
だが、アベがこのまま生き延び、9月の総裁選で再選されれば、もはやアベシンゾウを止めるものは何もない。9条のみならず、緊急事態条項、家族条項等を盛り込んだアベシンゾウと日本会議の悲願である「自主憲法」が必ずや成立するだろう。そして、おそらくアベシンゾウが死ぬまで、やつは権力を手放さないだろう。この国から完全に正義が消え去るだろう。
その時、私は海外移住、亡命、難民申請等、この国を棄てる道を探るだろう。

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3・11が産み落としたグロテスクな怪獣・晋ゴジラ。たとえ倒れても手放しでは喜べぬ [Criticism]

3・11と8・15
もうすぐ3・11から丸7年が経とうとしている。今を生きる私たちにとっての3・11とは、70年前に生きた人々にとっての8・15にも等しい重い意味を持つ。3・11も8・15も、明から暗へ、あるいはその逆へと歴史が転換したという意味ではなく、連綿と絶えることなく続く歴史のコインがただ単に裏返ったに過ぎないという意味において。
3・11から1年9ヶ月後、3・11を文字通り画期として飛躍を遂げる可能性を秘めていた脱原発運動は最終的に敗北し、戦後体制が臨界点を迎えてメルトダウンを起こした3・11の、放射能に汚染された腐敗した土壌の中から、最悪のアベ政権が産み落とされることになった。原子力緊急事態宣言下、原子力ムラの復活を密かに企む財界とその後ろ盾たるアメリカにとっては、平常時ならば許容範囲外にある改憲を最終目的とする日本会議=アベ独裁こそが、望ましい日本の政治形態だったからである。
そして事態は予想した通り、特定秘密保護法、‘戦争法’、共謀罪法の強権的制定を経て、憲法改悪へと突き進みつつある。しかし、私も想定外だったのは、独裁化を強めるアベが、国家を私物化し、違法行為を犯してまでも身内に便宜を図り、官僚を思いのままに操って国家犯罪を次々と重ねてきたことだった。
すでに森友疑惑が発覚してから1年以上経過したが、ここにきてメディアの最後の矜持をかけた朝日新聞のスクープを契機に、この1年間に及んだ一連のアベ疑獄事件は最終局面に突入した。どちらに転ぶにせよ、この一連のアベ疑獄事件は今後、数週間から2、3ヶ月以内に決着がつけられるだろう。つまりそれは、民主主義の側の勝利に終わるか、アベ終身独裁をも視野に入れた法治国家の死滅として帰結するかである。

不可欠な3・11と8・15への視点
後者に転んだとしても、幸いアベには金正恩のような血を分けた後継者がいないので、今後、数年後になるか、あるいは10年後、20年後になるかは分からないが、いつかは必ず夜が明ける。
いずれにしろ、ポストアベ政治の時代になったとき、私たちは初めてアベシンゾウという憲政史上まれに見る凶悪かつ醜悪な存在をまな板の上に載せて客観的に論じ、評価を下すときが訪れるだろう。その際、絶対忘れてならないのは、3・11と8・15への視点なのである。
私たちは本来なら、3・11がもたらした原発事故と放射能汚染という現実に真正面から向き合い、脱原発社会を志向しなければならなかったはずだが、現実には国民の多くがその問題から目を背け、考えることを放棄した。そして、その結果が怪獣・晋ゴジラの登場だった。だから、アベシンゾウを総括する際に、私たちはまずもって、3・11の総括から始めなければならない。3・11に改めて向き直ることから始めなければならない。アベの数々のフェイク量産を許すことになったのも、原発と放射能に関する数々のフェイクを、ろくに検証もせずに受容してきた結果であるといっても過言でないからだ。
と同時に、アベシンゾウの総括は8・15の総括までへと遡らなければならない。アベに反対する市民や野党の憲法(9条)守れの保守の論理は、改憲勢力の革新的情念の前に、余りに無力であった。それはひとつに、改憲派が主張するように、日本国憲法は日本の市民がたたかいとったものではなく、アメリカ占領軍によって与えられたものだったからであり、さらには戦後民主主義が、少なくとも形式的にはあの戦争の最高責任者であった大元帥=天皇裕仁をはじめとする戦争犯罪人たちを自ら裁き、国体を解体したうえに成立した革命政権ではなく、国体(天皇制)を維持したまま、GHQによって与えられた「民主主義」にすぎなかったからである。

転機となった2つの吉田証言と美味しんぼ鼻血事件
もし仮に、朝日新聞の頑張りによって数週後にアベ政権が倒れることがあろうとも、それで朝日を含む報道各社がアベに屈服を強いられてきた事実を帳消しにすることはできない。朝日が、2014年のアベ政権による2つの吉田証言攻撃に有効に反撃できず、その後しばし忖度報道を余儀なくされたことの意味は小さくない。
さらに同年のビッグコミックスピリッツにおける「美味しんぼ」放射能鼻血問題への原子力ムラによるフェイク攻撃に全マスコミが同調し、以降、「放射能」がマスコミで、次いで市民社会内でも実質的に禁句となったことの意味は計り知れない。当時あれほど気にしていた食品の産地表示も、7年経った今、どれだけの人が日々気にしながら食品を摂取しているだろうか? 例えばセシウム137の半減期が30年であることさえもう忘れてしまったのだろうか? 今日も東京電力福島第一原子力発電所跡の廃墟からは、大量の汚染水が太平洋に向けて垂れ流されていることも、もうとうに忘れてしまったのだろうか? 行政が認めただけでも150人以上の子どもたちが甲状腺がんの手術を受けており、また首都圏を中心に、3・11以前にはなかった列車内の急病人発生が日常茶飯事になっていること等々…脱原発派の人々でさえ、「いちいち気にしていたら生きていけない」とばかりに、考えることを放棄してしまっているのではないのか? しかし、そうした私たち一人ひとりの3・11への向き合い方が、怪獣・晋ゴジラを生み出したのである。そうである限り、永田町の怪獣・晋ゴジラは退治されても、私たちの心に棲みついた怪獣・晋ゴジラは消えることがない。

晋ゴジラを倒し、二度と生き返らせないために
また、韓国では数ヶ月の市民の闘争でアベほどではない政権私物化を行った朴槿恵政権さえ退陣に追い込まれたのに対し、日本は崔順実ゲートがふたつ、みっつと重なり、問題発覚後1年以上経過しても決着を見ないことの最大の原因は、ムラ社会の国民の無関心と諦めと長いものに巻かれろの奴隷根性にほかならない。
したがって、それはポストアベの対処法へも影響してこよう。アベが単に辞任するだけで、あるいは国会議員を辞職するだけでよしとするのか? あるいは韓国のように逮捕、起訴、有罪、下獄するまで許さないのか? 後者の場合は、もちろんアベシンゾウひとりに留まる問題ではない。萩生田元官房副長官、下村元文科相、麻生財務相、稲田元防衛相、菅官房長官らの政治家、迫田・佐川元理財局長、北村内閣情報官らの官僚、さらに安倍昭恵、そして加計孝太郎らの民間人まで含めて数十人の逮捕者を出すことが不可避だろうが、そこまで法治国家としての自浄作用がなされうるのか? それによっても、ポストアベ社会の様相は大きく異なってくる。
私も、数週間後になるのか、10年以上先のことになるのか、いつかアベ政権が倒れた暁には、まずは祝杯をあげて素直に喜びたい。しかし、喜びも八分、酔いも八分に抑えなければならない。そして、ポスト8・15、ポスト3・11の総括作業をしっかりとやり遂げなければならない。この国に、正義を取り戻し、真の民主主義社会を実現し、自立した市民が自分の頭で考え、自分の足で立って自己決定していく社会を実現し、二度と晋ゴジラのような奇っ怪な怪獣を生み出さないために。
怪獣・晋ゴジラが突きつけたこの国の未成熟な市民社会の課題は余りに重い。


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「あたしおかあさんだから」への返歌②ーぼくの体験に基づく「ぼくはおとうさんだから」 [Criticism]

ぼくはおとうさんだから[るんるん]

一人暮らししてたよ おとうさんになる前
ビール飲んで ジャズ聴いて
立派に働けるって強がってた
今は後回し 子供と遊ぶため
走れる服着るよ 公園いくから
ぼくは おとうさんだから
ぼくは おとうさんだから
眠いまま朝7時に起きるよ
ぼくは おとうさんだから
大好きな弁当つくるよ
ぼくは おとうさんだから
お友だちの名前覚えるよ
ぼくは おとうさんだから
ぼくよりあなたのことばかり
ぼくは おとうさんだから
ぼくは おとうさんだから
痩せてたのさ おとうさんになる前から
好きなことして 好きなもの買って
考えるのは自分のことばかり
今は服もご飯も 全部子どもばっかり
甘いカレーライス作って
テレビも子どもがみたいもの
ぼくは おとうさんだから
ぼくは おとうさんだから
得意なお料理頑張るよ
ぼくは おとうさんだから
こんなに愛せるの
ぼくは おとうさんだから
いいおとうさんでいようって頑張るよ
ぼくは おとうさんだから
ぼくよりあなたのことばかり
ぼくは おとうさんだから
ぼくは おとうさんだから
もしも おとうさんになる前に
戻れたなら 夜中に遊ぶよ
ライブに行くよ 自分のために服買うよ
それ ぜーんぶやめて
いま ぼくはおとうさん
それ全部より おとうさんになれてよかった
ぼくはおとうさんになれてよかった
ぼくはおとうさんになれてよかった
ぼくはおとうさんになれてよかった
だってあなたにあえたから

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「あたしおかあさんだから」への返歌ージェンダーに基づく理想の「ぼくはおとうさんだから」 [Criticism]

ぼくはおとうさんだから[るんるん]

一人暮らししてたよ おとうさんになるまえ
ビール飲んで ゲームして
立派に働けるって 強がってた
今ははりきるよ 子供を食わすため
丈夫な服着るよ 残業するから
ぼくは おとうさんだから
ぼくは おとうさんだから
眠いまま朝5時に起きるよ
ぼくは おとうさんだから
大好きなお酒やめるよ
ぼくは おとうさんだから
新幹線の指定ケチるよ
ぼくは おとうさんだから
あなたより仕事の事ばかり
ぼくは おとうさんだから
ぼくは おとうさんだから


太ってたんだ おとうさんになる前
好きなことして 好きな酒飲んで
考えるのは自分のことばかり
今は昼も夜も 全部仕事ばっかり
辛いカップラーメン食べて
テレビも見ずに残業だもの
ぼくは おとうさんだから
ぼくは おとうさんだから
苦手な上司ともつきあうよ
ぼくは おとうさんだから
こんなに我慢する
ぼくは おとうさんだから
いいおとうさんでいようって頑張るよ
ぼくは おとうさんだから
ぼくよりあなたのことばかり
ぼくは おとうさんだから
ぼくは おとうさんだから
もしも おとうさんになる前に
戻れたなら 夜中に遊ぶよ
ライブに行くよ 自分のために酒飲むよ
それ ぜーんぶやめて
いま ぼくはおとうさん
それ全部やめ おとうさんになってつらかった
ぼくはおとうさんになってつらかった
ぼくはおとうさんになってつらかった
ぼくはおとうさんになってつらかった
あなたと遊ぶ暇もない

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バラカーディストピアならぬ3・11リアル [Criticism]

baraka.jpg桐野夏生が2011年から4年かけて書き上げた『バラカ』が単行本化されたので読んでみだ。3・11から5年を前に、版元の集英社が新聞の全面広告で大々的に宣伝した時には、正直、羨望と嫉妬を禁じえなかったのだが、ベストセラー間違いなしと思ったのに、あに図らんや、集英社の目論見を裏切るような出足だったようだ。東日本大震災・原発事故から5年が経ち、人々の意識は「もう忘れてしまいたい過去。真実に蓋をしてでも、まやかしの日常に逃げ込みたい」のだろう。私は「亡国記、人の心は忘却記」と嘆いたが、直木賞はじめ数々の賞を受賞してきた大作家にしてこの有様だから、『亡国記』が浮かばれないのも無理はない。
それはさておき、「震災後」「原発事故後」をリアルタイムで追いながら書き継がれたこの作品は、前半はどちらかというと「震災−地震・津波」の自然災害に力点が置かれ、後半になって「福島」が前面に出てくる。しかし、小説では現実と異なり、原発事故は「すべての原子炉が核爆発する大事故が起きた」ことになっている。そして、東京を含めて東日本の広い範囲が人の住めない地域になって、首都は大阪に移転し、皇居も京都御所へ引っ越すのだが、東日本が完全に廃墟になったかというと、東京はアジアや南米の労働者が住み着き、地元福島さえ線量の低い地域には帰還が推進される。
多くの読者は、「こうであったかもしれないもうひとつのフクシマ」のディストピアとしてこれを読むだろうが、私には「ほんのちょっとだけ飛躍もある3・11後の原子力ムラと政府、そしてマスコミによって隠蔽されたフクシマの真実」そのものに思えてしまう。皇居の京都移転話は3・11当初からあったと聞くし、首都機能の地方分散化が昨今現実味を帯びてきている。そして、20mSvへの帰還政策が強力に推進され、やがて50mSvへまで拡大されそうな情勢の一方で、避難者への補償は打ち切られようとしている。サクラとタツヤが非合法に行い大金を稼いでいる「ダークツーリズム」は、東電・政府公認のもと正々堂々と行われている。甲状腺がんの手術を受けながらも健気に生きるバラカは原発推進派のプロパガンダに利用されるが、現実には100名以上の“バラカ”たちは原発事故と甲状腺がんの因果関係さえ否定され、汚染地帯に生きる子どもたちが帰還政策と復興のプロパガンダに利用されている。同様に、汚染された東京は、外国人労働者の溜まり場にすらならずに、1千万人の自国民が日々低レベル放射線にさらされて生活している。
しかし、多くの人々にはそのようには現実が写っていない。F1はアンダーコントロールされ、福島は確実に復興に向かっている。そして、2020年東京オリンピックに向かって、この国は復興と再生を果たしていくだろうと信じている。『バラカ』の世界で大阪オリンピックがそうであるように。
広告代理店に勤務、後に経営する川島はじめ、木下沙羅、田島優子、ヨシザキら邪悪な人々は、原子力ムラの化身か、あるいは原子力ムラを支えてきたもっと広いニッポンムラの象徴か? 一方、豊田老人や健太・康太をはじめとした「反原発派」に属する「良き人々」は、現実の反原発派の行く末を暗示しているのか? 不思議なことに、社会の底辺を被爆しながら支える外国人労働者たちは活写されるが、物言わぬ多くの国民がほとんど登場しない。
そして、悪の権化=川島が、バラカが死んだという誤報を聞くや、いとも易々服毒自殺してしまい、バラカは生き延び……という結末もちょっと謎だ。
作者はディストピアを描こうとしてリアルを描写したが、作者自身はそのディストピアの先に何を見出したのか? バラカはフクシマの子どもたちの未来か? 日本の子どもたちの希望か? それがいまいち伝わってこない後味のスッキリしない読了感だった。


地球温暖化の幻想-『地球はもう温暖化していない』という本 [Criticism]

私が子どもの頃、(温暖な湘南地方で育ったのだが)家の前を川が流れていたこともあってか、夏は夜、雨戸を閉め切って寝て、たまに小窓を開けたままだと寒いくらいだった。また、小中学生の頃に大雪が降り積もったことが何度かあった。
時が流れてバブルの頃、そのおこぼれに与った私はクーラーを買ったのだが、あいにくその夏は冷夏で、1、2度しか出番がなかったことを覚えている。
その後、3年間韓国暮らしをして90年代前半に日本に戻った翌年の夏はえらい暑さで、急遽エアコンを買って暑さを凌ぎ、それ以来、エアコンなしの夏は考えられなくなった。暖冬も続き、桜の開花時期も年々早まるように感じられた。
だから、90年代は「地球がCO2のせいで温暖化している」と言われると、経験的にそれを信じて疑うことはなかった。
ところが、今世紀に入ると、ゲリラ豪雨とか突風、竜巻があるかと思えば、年によっては寒い冬も多く、浦和に住んでいた10年前頃には、近くの見沼用水が凍るようなこともあった。そして、私自身は関東地方を離れていて実際に経験しなかったのだが、昨年冬の2度の大雪だ。単なる温暖化ではなく、気候の変動が激しくなったと感じられたが、テレビではこれも温暖化の影響だ、というような風説がまことしやかに語られていた。一方、数年前から「地球はむしろ寒冷化している」というような話も耳に入ってくるようになり、心のどこかに引っかかるものがあったのだが、「そのうち映画”Day after tomorrow”のようなことになるのだろうか」などと空想するくらいで、現実感は湧かなかった。
なんせ、日本では超党派的に「温暖化から地球を救うためCO2削減を!」と、政府やマスコミから環境NGO、市民団体まで一致しているのだから、それに反する意見を持つことはカルトに入信するくらいの覚悟がなければならないのではないかと思われるくらいで、あえて真面目にその説に耳を傾けることがなかったのだ。
CO22.jpg今回、ある種の覚悟を決めて深井有著『地球はもう温暖化していない』(平凡社新書)を読み、カルトになる覚悟を固めた(笑)。
上述したように、私の「温暖化」感覚は、せいぜい自分の数十年の人生に基づいた経験論に過ぎない。しかし、本書はまず、地球46億年の歴史、少なくとも人類誕生以来も何度となくくり返されてきた氷河期と間氷期の極端な温度差や海面の上昇・降下等を振り返れば、CO2温暖化説はせいぜい資本主義の時代のここ200~300年の地球の気温変化、とりわけ20世紀後半の数十年の気温変化しか見ていないという、極めて真っ当なことを指摘している。元来、地球46億年どころか宇宙138.2億年の歴史に興味のある私には、えらく説得力のある主張だ。
また、著者はCO2による温室効果の結果生じる気温上昇を否定はしていないが、地球の温度変化に最も大きな影響を与えるのは太陽の活動であり、主には黒点の変化がメルクマールになるものの、その他、地球の楕円軌道を描く公転、自転の傾き、さらにはわれわれ太陽系が銀河系の中を公転する壮大な運動まで含めて複雑な要因がからまりあっていること、地球上に目を転じても、わずかばかりの量のCO2の変化以外に、太陽風に影響される宇宙線が関係する雲の生成が大きく関係していることなど、地球の温度変化の分析は一筋縄でいかないことを説いている。
また、地球温暖化とヒートアイランド現象が往々にして混同され、後者がCO2温暖化説に利用されている実態も暴かれる。
なにより決定的なのは、日本のマスコミではほとんど報じられなかったIPCC(気候変動に関する政府間パネル)のクライメートゲート事件(2009年)によって、IPCCの数々のデータ捏造や不正が暴かれたことを知っては、これ以上CO2地球温暖化説を信じることができなくなる。
では、何故このような国際的な陰謀が繰り広げられてきたのか、日本の原子力ムラを一員とする国際核マフィアの「原子力の平和利用」陰謀のように、きっとそこには政治的・経済的に利益を得るマフィア的存在があると疑うのが筋だろうが、残念ながら本書は地球温暖化説のウソを学問的に実証し、それを平易に説くことを目的としているので、そこへは立ち入っていない。
CO2.jpgそこで他に類書がないか求めたのだが、驚くほどない! すぐに見つけたのは、広瀬隆氏が3.11以前の2010年に出した『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社新書)だった(広瀬氏が反温暖化論者であることは以前から知っていたが)。この本の前半は上述書で詳述されていることと大部分重複する。そして、後半では原子力ムラがCO2悪者説に便乗していかに「クリーンエネルギー」を装ってきたかが述べられているが、犯人ははたしてそれだけだろうか? 私には1970年代にOPEC(石油輸出国機構)が石油メジャーに対抗して石油権益を握るようになったことに危機感を覚えた先進諸国が、石油枯渇説とともに産油国を叩くためにCO2地球温暖化説を唱えるようになったのではないかという気がしてならない。そして、当時の産油国の大半はアラブのイスラム諸国だ。今日のイスラム原理主義やテロの淵源のひとつもその時代の対立に行き着くだろう。(もうひとつの淵源はいうまでもなくイスラエルのシオニズムだが)

余談になるが、実は私が温暖化説に疑問を抱いた最近の出来事に次のようなことがある。NHKは昨年8月31日、「NHKスペシャル 巨大災害 第2集「スーパー台風“海の異変”の最悪シナリオ」を放送した。地球温暖化により、当初海水表面の温度が上昇したが、それが今では深海の温度が上昇し、それが原因となって南の海で巨大台風が発生、日本近海の海水温も上昇しているため、勢力を弱めずに北上し、日本列島に甚大な被害を与えるだろうという、NHKらしからぬ、いたずらに国民の不安を煽るような内容の番組だった。そして、それを見たときは正直「恐い」と思った。完全に洗脳されたのだ。
ところが今年10月19日付の「朝日新聞」「(台風被害に学ぶ)巨大台風に襲われたら 湾岸地域、広範囲に浸水」という特集記事を読んで「おや?」と思った。そこには過去に日本を襲った巨大台風として1959年の伊勢湾台風と1961年の第2室戸台風の例などが載っていたのだが、前者の上陸時の気圧は929ヘクトパスカル、後者は925ヘクトパスカルだった。温暖化したはずの近年、これほど強力な台風が日本列島を襲ったことがあるだろうか? あの2005年にアメリカ南部を襲ったハリケーン・カトリーナでさえ920ヘクトパスカルだった。(戦後の上陸時の気圧が低い台風ベスト10のうち1980年代以降は3位の1993年13号台風・930、5位の1991年の19号・940[~10位まで同じ940]の2つだけ。7つは50~60年代)
おいおい、温暖化してからはそんなスーパー台風、ほとんど上陸していないのに「これから来るぞ!」と脅しておいて、実は温暖化する前の50~60年代にスーパー台風がいくつも来てたのかよ!
上述の2書を読むと、CO2地球温暖化説にはこの種の詐術に事欠かないことが顕わになる。

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元少年A著『絶歌-神戸連続児童殺傷事件』を読んで考えた様々なこと [Criticism]

10日の新聞で酒鬼薔薇聖斗の名で知られた神戸連続児童殺傷事件の元少年Aの手記が出版されることを知り、関心を持った。なぜなら、自身の少年時代の体験から、私は少年事件に昔から強い関心を抱いており、さらにこの事件に関しては、本ブログでも取り上げたことがあるが、かなり説得力のある〝冤罪説〟もあるからであり、私はぜひこの本を読んでみたいと思った。しかし、その日書店に行ってもまだ店頭に出ておらず、Amazonのサイトでも見当たらなかった。
ところが、翌日Amazonを再度閲覧すると、販売初日だというのにすでに在庫切れ、しかも驚いたことに、2桁のカスタマーレビューがもう上がっており、なおかつそのほとんどが☆ひとつの酷評だった。興味をもってそのレビューをひとつひとつ読んでみると、多くが「世に出してはならない本」「今すぐ出版を中止すべき」といった内容で、なかには正直に「本を読んでいないが……」と、レビューになっていないレビューもいくつか見受けられた。ある商品を使いもせずにダメだと☆ひとつをつけるなど、ルール違反も甚だしい。文句があるなら出版社に抗議するのが筋だろう。
このように、多くのレビューが本をよく読んだうえで冷静に判断・批評したものではなく、「被害者家族を傷つける」「更生していない証拠」などと感情的な決めつけに終始したもので、私は村八分という言葉を連想した。私は日本のムラ社会の構造は基本的に明治以降に形成されたものと思っているが、江戸の封建時代に根を持つ因習が連綿と現代まで地下茎でつながっていることも否定しがたい。そして、否定的なレビューを書いた人々は、それが「正義」と疑わずにいるようだが、そもそもその正義とは何かと問いかけざるを得ない。

凶悪犯罪は減っている
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図を見ると、戦後の一時期を除いて、殺人事件、未成年者のそれも一貫して減り続けているか、もしくは横ばいで、決して増えてはいないことが分かる。なのに私たちが凶悪犯罪を身近に感じるのは、テレビやネットを通じて質・量ともにそれらに関する情報が過剰に流布されているからである。とくに私たちが錯覚しやすいのは、いわゆる「凶悪犯罪」とか「猟奇事件」「無差別大量殺人」といった類いの事件は、せいぜいここ数十年の間に顕著になったという認識である。実はそうした事件は、少なくとも明治の昔からよく起きていたのである。しかし、新聞やラジオしかなかった当時は、そんな事件がどこかの地方で起きても、せいぜい新聞のベタ記事で「どこどこの男が村人7人を猟銃で殺害」などと数行で報じられるだけだった。だから、そんな情報は全国津々浦々に行き渡ることはなかったし、届いたとしても人々の関心をさほど引き起こさなかったのである。むしろ、阿部定事件のように大きな社会的反響を呼び起こした事件は例外的だった。
テレビが発達して、とりわけワイドショーの事件や事故の報道の過熱ぶりがとりざたされるようになって久しいが、その悪習はいっこうに改められる気配がない。かくいう私も、そうした報道のありかたに大いに疑問を抱きつつ、大きな事件や事故があると、ついつい野次馬根性から、少々遅い昼食時間に、「ミヤネヤ」や「ザ・ワイド」などを見てきた。それを見なくなったのは、報道ステーションの古賀茂明氏の事件に関して、「ミヤネヤ」で司会者・コメンテーター総掛かりになって稚拙な古賀叩きをする様を見た時、怒りを通り越してあきれ果て、「こんなくだらない番組を今までよく見てきたものだ!」と自己嫌悪に陥って以来のことだった。
それから数ヵ月が経ち、先日NHKのニュースを見ていたら、安保法制=戦争法案や年金情報流出問題を差し置いて、北海道の一家4人死亡事故がトップで報じられたのだが、その報道の仕方に驚かされた。ワイドショーよろしく、長男をひき逃げした容疑者の人物像を彼が住む自宅付近の住民のインタビューを交えて報じ、視聴者の怒りを買うような演出をしていた。ワイドショーを見ていた頃は、ニュースでもそうした切り口の報道があるのは承知していたが、質量ともにワイドショーのそれとは比べものにならないのでさして気にもとめていなかったが、ワイドショーを見なくなって数ヵ月が経った時点で、ニュースでそれを見せられると、明らかに客観性・中立性に欠くセンセーショナルな報道のしかたであることに今さらながら気づかされる。こうして、昔とは比べものにならないほど、重大事故や殺人事件の報道が1件ごとに詳細に、しかも被害者・加害者のプライバシーに渡るまで立ち入って報道されれば、事件や事故の絶対数は減っても、国民が重大事故や凶悪犯罪が増えているという錯覚に陥るのは無理もないことだ。

加害者にも人権はある
1999年に起きた桶川ストーカー殺人事件をひとつの契機として犯罪被害者等基本法が制定され(2004年)、今日では裁判に犯罪被害者が関与できる等、犯罪被害者やその家族の人権が大幅に認められるようになった。しかし、それに反比例するように、犯罪加害者の人権は疎かにされていないだろうか? もちろん、容疑者は逮捕された瞬間から、その人権が大きく制約される。そして、その制約は裁判で有罪が確定して刑の執行を終えるか、刑の執行を受けることがなくなる日まで続く。逆に、万一無罪が確定すれば、その間に受けた人権侵害は損害賠償されることになる。
無知の涙.jpg例えば、表現の自由も被告人や受刑者にある程度認められる。連続射殺魔と呼ばれた永山則夫は事件の2年後、未決にもかかわらず『無知の涙』(1971年)という手記を出版し、大きな反響を呼んだ。当時高校生だった私も読んだ記憶がある。もうとっくに手元から失われているので数十年前の記憶を辿るしかないが、被害者への謝罪の念はほとんど表明されていなかったと思う。本の基調は、自分を犯罪行為へと駆り立てた貧困と無知を生んだ社会への弾劾、そしてそれを客観的に認識できるようになったのは獄中で猛勉強したからだという矜持に貫かれていた。そして彼はその後も獄中で執筆活動を続け、最高裁で係争中の1983年には自身の幼少期の体験をもとにした自伝的小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞した。彼を批判する人々も少なからずいたが、一方で彼の言動を支持したり、支持とまでいかずとも理解を示す文化人等もまた少なからずおり、新日本文学賞の受賞は作家としての彼の評価を不動のものにした証でもあった。
そのほか、死刑囚の獄中出版で有名なのは、連合赤軍事件の首謀者・永田洋子の『十六の墓標』があげられよう。この中で彼女は16人の同志殺しを、独特の左翼用語で「総括」しているが、その内容は今日いうところの「真摯な反省」とか「被害者・家族への心からの謝罪」とはおよそかけ離れていたように思う。
当時は被害者遺族の人権などこれっぽっちも認められていなかった時代だからだという反論もあろうが、被害者やその家族の人権が認められたからといって、反対に加害者の人権制限が強化されていいことにはならない。むしろ逆である。ときにそのふたつは対立することがあるだろうが、どちらも守られなければならない。

法治国家の原則に立ち返れ
どんな凶悪犯罪を犯した者であろうと、刑務所でその刑期を終えれば、文字どおりその「おつとめ」は果たしたことになるのであり、仮釈放後の保護観察期間などを除いたら、あとは再び犯罪を犯さない限り、その人は一市民としての権利を回復するというのが、法治国家の原則である。ところが、現実には就職をはじめ、彼には様々なハンディが課せられ、「前科者」というレッテルは一生剥がれることはない。
しかし、勘違いしてならないのは、法的なけじめと被害者-加害者の倫理的問題は別だということである。いくら刑期を全うしても、加害者の倫理的責任は一生ついて回るし、被害者の恨みもそう簡単に晴れるものでない。加害者は被害者にいつまで謝罪し続けなければならないのかといえば、被害者またはその遺族が「もういい」と言う時までだと答えるしかない。しかし、それはあくまで両者の倫理的な問題であり、そこに第三者は介入すべきでないし、介入すべき問題でもない。
また、犯罪被害者の権利が主張されるようになって、よく強調されるのは、被告は裁判を通して事件や事故の真相をすべて明らかにせよ、との要求である。だんまりを決め込んで死刑判決を受けたオウム真理教の麻原彰晃の裁判が典型例だ。しかし、一方で、とくに判決が出ると、被害者や遺族は「もう事件には触れたくない。そっとしておいてほしい」と言う。そのどちらも真実だろうがこれほど矛盾したことはない。裁判で明らかにされた事実がすべて真実とは限らない。いくら被告人が誠心誠意事実を陳述したとしても、少しでも軽い判決を受けたいと願うのが人間の心理だからだ。そういう意味では、むしろ刑が確定した後に受刑者なり元受刑者が書いた手記の中にこそ、事件の核心や真相が隠されている可能性は高い。

少年事件のジレンマ
神戸の事件に立ち返ると、元少年Aはこの事件を14歳の時に起こした。この事件を機に少年法が一部改正され(2000年)、14歳以上の少年も刑事裁判で刑事責任を問えるようになったが、A自身は旧少年法のもとで医療少年院へ送致され、2004年に更生保護施設へ送られた後、その年のうちに保護観察期間も終わり、完全に「自由の身」となった。少年法は「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」ことを目的としている。つまり、犯した罪を罰するのではなく、あくまで更生を目的としているのである。
大人の刑法犯でさえ、刑期を終えれば普通の市民生活が原則的に許されるのだから、少年法で少年院送りになった少年は、退院して保護観察期間が終われば、本来ひとりの青年としてその人格が全面的に認められてこそ、少年法の本来の目的に適うといえよう。なんといっても、未来のある青年(少年)だ。過去に犯した罪はすべて水に流して、二度と犯罪に手を染めることなく生きるべく、きちんと市民としての生活を保障されるべきではないのか?
しかし、現実はAのような凶悪犯罪を犯した少年は、一生十字架を背負って生きていかなければならない。それは単に内面の倫理的問題(被害者家族との問題を含む)にとどまらず、社会的な有形無形の「制裁」についてもだ。

『絶歌』を読んで
・A=冤罪説の崩壊
絶歌.jpg最初に述べたように、私が本書を手にした理由のひとつは、この事件に冤罪説があるからである。『神戸事件を読む』という本では、数々の疑問点が提起されていたが、もちろんAはその点に関して何も答えていない。しかし、もし仮にAが警察権力のでっち上げたダミーだったとしたら、Aは権力によって生活を保障される代わりに、一生日陰の人生を監視下で送ることになろう。今回のような手記の出版は権力にとって何のメリットもないはずだ。また、もし権力の意向に背いて彼が手記を出版したのだとしたら、その内容は冤罪を暴露するようなもっとセンセーショナルなものになったはずだ。
また、『神戸事件を読む』の著者はひとつ致命的な思い違いをしていたようである。それは、当時Aの学力、とくに国語の成績が悪かったことをもって、あのような脅迫文を書く能力はとうてい彼にはなかったという点を冤罪説の有力な証拠のひとつとしてあげていることである。しかし、本書の最初の数ページを読めば分かるように、Aは並外れた文章力の持ち主である。もちろん、その表現力は少年院やその後の社会生活の中で多くの本を読んで身につけた面も多分にあろうが、事件当時も、彼はホラーもののビデオやマンガに精通し、それらの台詞をつなぎ合わせた詩のような文章も書いており、例の酒鬼薔薇聖斗という名前も、小学生の頃に描いた自作の漫画のキャラクターにつけた名前だと告白している。学校の勉強ができないからといって、かならずしも国語力がないとか、頭が悪いということではないのである。本書を読めば、Aはかなりの知能の持ち主で、事件当時も決して単なるできの悪い落ちこぼれでなかったことが推測できる。そうすると、ここで冤罪説は大きく揺らぐことになる。
そこで、以下はA=真犯人という前提で話を進める。

・不十分な事件の自己分析
本書の前半は事件前後の生活から逮捕、医療少年院に至る経過を述べているのだが、まず驚かされるのが、上にも触れたように、その文学的表現力の豊かさである。この本が小説で、筋道だったストーリー展開があれば、もしかして純文学の新人賞でも受賞できるのではないかと思われるほどである。もちろん、それは、この20年近くの間に読んできた膨大な読書量に負うところが大きいだろう。しかし、いくら読書家でも、必ずしも名文家とはかぎらない。
ところが、その美しい文学的修飾語で彩られて語られる事件を巡る経過が、その美文故に大いなる違和感を醸し出す。小説ならふさわしい文体が、ここでは全くふさわしくないだけでなく、むしろAの事実と向き合うことへの恐れのカモフラージュであるかのようにすら思われなくもない。
実際、彼はなぜふたりの年下の子どもを殺すに至ったのか、その心理の自己解明が十分になされているとはいいがたい。というより、当の彼自身、まだそこにたどり着いていないのだろう。
最愛の祖母の死、それに加えて家族の一員であった犬の死が、彼に生と死への現実を遊離した興味を呼び起こし、たまたま祖母の遺品であったマッサージ器をいじっているうちに性の快感に目覚め、その快感が祖母の死と結びついたことから、以降猫の虐殺に手を染めエスカレートしていく……というストーリー展開は、いかにも説明力不足だ。唯一説得力がある場面は、当初庭の祖母が残した畑に埋めるつもりだった淳君の頭部を、処分前日の夜に急に学校の校門に置こうと思いついて実行するというくだりである。
校舎南側の壁沿いに二本並んだナツメヤシの葉が、降りかかる月の光屑を撒き散らすように音もなく擦れ合っている。呪詛と祝福はひとつに融け合い、僕の足元の、僕が愛してやまない淳君のその頭部に集約された。自分がもっとも憎んだものと、自分がもっとも愛したものが、ひとつになった。僕の設えた舞台の上で、はち切れんばかりに膨れ上がったこの世界への僕の憎悪と愛情が、今まさに交尾したのだ。
 告白しよう。僕はこの光景を「美しい」と思った。
嘘偽りのない告白だと思う。しかし、その憎悪した学校への憎悪の記述があまりにも不足している。勉強も運動もできないカオナシのような自己の存在、一方、勉強も運動もできるすぐ下の弟を虐めたこと、父が好きでなかったこと等が断片的に語られるが、それがひとつの像を結んでこのショッキングな場面の告白へ結びついたのではない。そこには大きな空白と断絶がある。彼自身、まだ自己分析が未整理なのか、故意かあるいは無意識的に何かを避けているのか?

・「書く」ことと「世に問う」ことの意味
後半は社会に出てからどんな生活を送ってきたのかについて、時系列的にかなり詳しく描かれている。それによると、彼は事件前からもその傾向があったようだが、人と交わり、回りの空気を読むのが苦手な、多少「自閉症的」傾向があるようだ。そうした傾向のある人に多いことだが、彼もひとつのことにとことんこだわり、熱中するタイプであるようだ。手先の器用さも手伝って、だから就いた仕事はどこでも器用にこなすし、ひといちばい仕事熱心だ。
終盤に至って、彼はある確信にたどり着く。それは「僕にとって「書く」ことは、自分で自分の存在を確認し、自らの生を取り戻す作業だった。」「そうして僕が最後に行き着いた治療法が文章だった。もはや僕には言葉しか残らなかった。」「居場所を求めて彷徨い続けた。どこへ行っても僕はストレンジャーだった。長い彷徨の果てに僕が最後に辿り着いた居場所、自分が自分でいられる安息の地は、自分の中にしかなかった。自分を掻き捌き、自分の内側に、自分の居場所を、自分の言葉で築き上げる以外に、もう僕には生きる術がなかった。」
何と身勝手な!と非難することはたやすい。あるいは、これは自己逃避、退行だと分析することも可能だろう。しかし、私はこれを彼の魂の叫びと受け取った。そしてまた、正しい選択だとも思う。
実際、青少年期の私、いや、つい十数年前までの私も、実は書くことによって自己を対象化し、それを踏み台にして次のステージへと上り詰めてきた人間だった。とりわけ、青少年期の思春期危機や学生時代の挫折体験を乗り切るために、私には書くこと以上の手段は残されていなかった。彼も私も、話すのが苦手で、人と交わるのが苦手で、逆に書くことだけが得意だ。そういう人間にとって、書くということは自己と向き合う手段であり、自己を対象化し分析しうる武器なのだ。
であっても、何も本にして出版しなくてもいいだろう。日記を毎日つけていればいいじゃないか、という反論があるかもしれない。私も中学生のある時期から結婚するまで20年ほど日記をつけていた。しかし、日記はその日、あるいはある一時期の「自己対象化」「自己総括」を可能にする手段ではあっても、人生に立ちはだかった大きな難題を解く手段にはなりえない。私の場合、それを可能にするのは小説という形以外になかった。学生時代の学生運動の挫折体験を乗り越えることができたのは、10年間も苦闘して『極北のレクイエム』という小説を脱稿して出版したことによる。高校生の時にぶち当たった思春期危機という絶体絶命の危機は「無意識の認知行動療法」によって自ら克服したとはいえ、それを客観的に対象化できたのも、それから十数年後にひとつの小説を完成したことによる。結婚-離婚という出来事も、その数年後にいくつかの小説を書き上げて初めて区切りをつけることができた。
そして何より、人間は社会的動物であり、人との関係性によってのみ自己を確認することができる。孤立し自己の内面にしか自分の居場所を見いだせないAにしたところで、だからこそなおのこと、社会との繋がりを通してしか自己の存在意味を確認できないだろう。書かれたものは、読まれることによって初めてその価値を発揮するのだ。そして、その価値はA自身だけでなく、Aが社会にあれだけのショックを与えた事件を引き起こした張本人であってみれば、少し大げさにいって〝歴史的〟資料としての価値がある。この場合の歴史とは、犯罪史程度のものかもしれないが……。
手記の出版を感情的に許せないという淳君の父親の気持ちは分かる。しかし、その被害者の感情に便乗して、本をろくに読みもせずにAや版元の出版社をバッシングすることは許されない。最低限、本を精読すれば、この本が自己満足や印税目的で書かれたものでないことは、一切の予断や偏見を排除すれば、誰の目にも明かだと思う。ただ、十全ではない、完璧ではない、第一歩に過ぎない。

・真の更生、被害者・加害者の真の救済とは何か?
実は本書を読んでいて最も物足りなかった点、本来最も本質的な問題として何よりも語られなければならないのに語られていない点は、「性の問題」だと思った。確かに、上述したように、事件へ至る性倒錯については触れられている。ところが、後半では、本来なら20~30代と最も異性に対する関心の高い年代、性欲の最も強い年代であるにもかかわらず、本書にはAのそれへの言及が一切ない。「はたして彼の性倒錯は「矯正」されたのだろうか?」という疑問も解消されずじまいだ。そうであっても、彼は倫理的に「人を殺してはいけない」という強い確信と信念に辿り着いているようなので、まかり間違っても同じような犯罪を再び犯すことはないとは思うのだが……。
恐らくこの点は医療少年院で法務教官や精神科医が彼を矯正すべき最大課題であったはずだ。そして、この点に関して彼にはみっつの解決方法があったはずだ。ひとつは「治療」がうまくいき、性倒錯が矯正されること。ふたつめは矯正は不可能であり、一生その欲望を抑圧しコントロールして生きていく以外にないという道。そして、もしありうるとしたら、その欲望を文学やマンガや絵画や映画などの芸術に「昇華」させる方法。
もしかしたら、彼の「書く」ことへの渇望は、このみっつめの表現行為なのかもしれない。だとしたら、彼は書くことが許されるべきだというにとどまらず、是非とも書き続けなければならないだろう。事件そのものを小説にすることはできないが、今後もこの本で解明しきれなかった自己とのたたかいをし続けること、また、事件とは直接関係のないフィクションを創作することは、あらゆる意味で良いことであっても、決して非難されるべきことではないと、私は思う。
彼がもっと年を重ねてからあの犯罪を犯していたならば、彼は確実に死刑宣告を受けていただろう。そして、永山則夫のように、あるいは宅間守のように、さらに本書でAが触れている山地悠紀夫のように、今ごろはあるいは自ら望んだように、死刑に処せられ、死ぬまで続く贖罪の苦しみから解放されていたかもしれない。死刑を望んで多数の罪なき民を殺した者に望んだ死刑を与えられ、生と死の意味も分からず犯した未熟な未成年の犯罪者が、一生重い十字架を背負って生きていかなければならないとしたら、それはどう考えても不合理ではないか? やはり死刑は廃止して終身刑が導入されるべきだと思うと同時に、罪を犯した者が死ぬまで十字架の責め苦を負う不合理も解消されなければならないとも思う。
本書の最後に、ある晴れた春の休日に、Aが公園で赤ん坊を連れた若い夫婦に出会う場面が描かれている。彼はそれを見て、自分はその場にふさわしくない、いてはいけない存在だと思い立ち去るのだが、私はいつの日か、彼がそのような幸せな家族の一員になることが、彼の最終的な救済であるだけでなく、実は被害者家族にとっても、最終的な救済に結びつくのではないかと密かに思ってみたりする。

『宰相A』―パラレルワールド? 現実世界の鏡像 [Criticism]

正直に告白すれば、私は著者の田中慎弥という作家をこの『宰相A』を通して初めて知った。当然、彼が2012年に「共喰い」で芥川賞を受賞したほか、様々な文学賞を受賞してきた作家であることも。だいたい、芥川賞とかに関心を失って十数年経つ。芥川賞に最後に注目し、読んでみようと単行本化される以前に「文藝春秋」を買って読んだのが、平野啓一郎の「日蝕」だった。そのうえ、ここ何年も、私は小説そのものを年に1冊くらいしか読んでいない。自分自身、たまに下手な小説を書くにもかかわらずだ。せめて月に1冊くらい読んでいれば、私ももう少し小説の腕を上げていたかもしれないのだが……。
私が小説をよく読んでいたのは30代前半までで、それも当時の最先端をいく流行作家の作品ではなく、カビの生えかけた戦後文学とか在日朝鮮人文学ばかり読んでいた。一度、毎年のようにノーベル文学賞候補にあがる売れっ子作家の作品を読んでみたが、私の悪い癖で一度読み始めた本はいくら退屈でも最後まで読まないと気がすまないためなんとか読み終えたものの、二度と彼の他の作品を読む気にはなれなかった。
そんな私がなぜ本書を読む気になったかといえば、「宰相A」のAは安倍晋三のAだとネットで話題になっているのを目にしたからにほかならない。それで早速Amazonで検索してみたところ、新品は品切れで何倍ものプレミアのついた中古品が何点か出品されているだけだった。市内の書店も探してみたが、どこも在庫切れ。その後、何日かして再びAmazonをのぞくと、入荷待ち状態になっていたので予約し、だいぶ待たされた後、1週間ほど前にようやく重版本が手元に届いた。
ちょうどその頃、新聞に「『宰相A』のAは安倍晋三のAです」という著者自身のコメントが載った新潮社の広告が掲載されていた。Aはアドルフ(ヒットラー)のAでもあり安倍晋三のAでもあるという話もどこかで耳にした。
一方で、4月5日付の朝日新聞の書評でも本書が取り上げられていたが、そこには内容紹介が紙幅の半分以上を占め、あとは「読者は自分の中に抱えて見つめるのみだ。知っているはずの世界こそ未知の図式で成り立っているのだから」などと訳の分からない言説でお茶を濁し、何を恐れているのやら、安倍晋三はおろかアドルフの話も登場しない蜂飼耳という詩人兼作家の、書評というのも憚られるようなお粗末な文章も目にした。むろん、田中慎弥さえ知らなかった私は、蜂飼耳という名前もこの時初めて目にした。
それで早速、送られてきた本書を興味津々読み始めたのだが、三百数十枚の原稿なので面白ければまる2日もあれば読み終えるものを、暇な時期だったにもかかわらず4日もかけて読んだということは、それほど〝面白い〟といえる小説ではなかったということなのかもしれない。

A.jpg母親の墓参りにO町を訪れた作家Tは、そこがアングロサクソン系の日本人によって支配され、本来の日本人は旧日本人として居住区に隔離されている不思議な世界に行きつく。いわゆるパラレルワールド(平行宇宙)に迷い込んでしまったというわけだ。しかし、この一見奇想天外、奇妙奇天烈な「もうひとつの日本」は、「同胞が同胞を貶めるこの精神は、しかし、偽物政府による国家運営、旧日本人とその居住区というシステムが生んだものなのだろうか? でなければこれもまた、無抵抗や諦めなどと同じ、かつて日本人でありいま旧日本人である我々の、システムと関わりのない、岩盤状の特質なのではあるまいか?」「ミンナソロッテセイフクヲキル、ソンナジユウヲアジワイタイ、ムサボッテミタイ、という欲望……」等々、「もうひとつの日本」の描写を辿っていくうちに、もしかしてこれはパラレルワールドなどではない、現実の今の日本のメタファーに過ぎないのでは――ということに気づく。大きくは、アメリカに戦争で負けつつそれを認めようとしないままそのアメリカに事実上支配されてきた戦後の日本、狭くは安倍政権以降の今の日本。
「アメリカとともに世界の平和と安寧を目差して、積極的かつ民主的に地球規模の戦闘を継続しなければなりません。それこそが、我が国の目差すべき、戦争主義的世界的平和主義に基づく平和的民主主義的戦争の帰結たる、戦争及び民主主義が支配する完全なる国家主義的国家たる我が国によってもたらされるところの、地球的平和を国家的平和として確立する人類史上初の試みであるところの、完全平和国家樹立へ向けての宇宙的第一歩なのであります……」旧日本人でありながら、多数民族である旧日本人を懐柔するために日本人によって首相の座に据えられた傀儡にすぎない首相Aが英語で述べる演説内容は、全く無意味で形容矛盾に満ちて論理破綻しているのだが、「戦争主義的世界的平和主義」が「積極的平和主義」のパロディーに過ぎないのは誰でもすぐに分かることだろうが、それにとどまらず、昨今テレビのニュースで流れてくる例えば「緊急事態」をめぐる「武力攻撃事態」「武力攻撃予測事態」「緊急対処事態」「存立事態」「重要影響事態」等の言葉、報道ステーションの報道内容に対して自民党が「公平中立な番組作成」を要請する事態等々、政権によって語られる「言葉」の無意味さ、軽さ、空虚さ、すり替え等々と何が異なるのかと思い至ると、その滑稽さは空恐ろしさへと変わる。
そこまで思い至ると、本書の最後の数ページで語られる新しい日本は、まさに今現在の日本であることに、はたと気づくのである。
では私たちは今、どうすればいいのか?
「であれば私は、私にとって迷惑でしかない物語を覆す別の物語を描き出すしかないのではなかろうか? 作家の本分を発揮することがいまほど必要だった例しがあっただろうか? 周りが勝手に仕立てて稼働させる物語が気に食わないなら、自分の手で物語を産み出し、対抗すべきではあるまいか?」

なお、作者は本書を安倍首相に送ったというので、おせっかいにも彼の身の安全を心配していたのだが、本書を読んでひとまず安心した。何故なら、恐らく私以上に小説(特に純文学)など読まないその人は、仮に側近のチェックを通って彼の手元に本が届いたとしても、田中慎弥などという聞いたことのない作者のさして興味を惹かないタイトルの小説など目もくれず、長いこと私邸の書斎(そんなものがあったとして)の片隅で埃を被っていたことだろう。そして最近、取り巻きの口かネットでAが安倍総理を指しているという噂を聞きつけ、新橋あたりで寿司か天ぷらでも食った後帰宅して、寝床に潜り込み最初の1、2ページまで読んだところで、重たい上瞼が下瞼にくっついたきり、二度と読まれることはなかったに違いない。もし仮に、奇跡的に最後まで読み終える忍耐力があったとしても、その人がこの小説の真の意味を理解するとはとうてい思えない。「真っさらな地面に湧き出る泉の一滴。ものを見る、という本来の機能から解放された光に満ちている」目、「何かを見ようという意思が綺麗に欠けている」その人の目では。
ちなみに、あの新潮社がよくこのような本を出版したものだと思うのだが、最初は純文学小説として数千部を適当にばらまいて「はい、それまでよ」のつもりだったものが、想定外の売れいきで話題になったため、普通だったら即重版といきたいところだが、時節柄その方への配慮もあり慎重に検討した結果、もちろん担当編集者の強力な作者擁護もあっただろうが、要は上層部が、上述したように「単刀直入にテレビで政権批判した古賀茂明さんとは違い、難解な純文学作家の地味な小説だから、あの人も本質をよく理解できないだろう」「『I am not ABE』はさすがにあの人も理解し逆鱗に触れるだろうが、『宰相A』だったらいいんとちゃう」という判断に傾き、初版から2ヶ月近く経ってようやく重版となった次第と思われる。

3.11が産み落とした「安倍晋三」という怪獣 [Criticism]

もうすぐ3.11から4年が経とうとしている。あれから私の人生にはすごくいろいろなことがあり、あの頃のことを思い出すと、まだ4年しかたっていない…という気がする。一方、世の中に目を向けても、この4年であまりに多くのことがあり、激しく変化し、なのにまだ4年…と思う。そして、フクシマに目を向ければ、何も終わってはいないし、何もコントロールできていないし、放射能は制御できていない、まだたったの4年しか経っていないのだ。
なのに世間は、もう3.11のことなどはるか昔のことのように、もうとっくに過去の出来事のように思っているようだ。この1年間だけでも、フクシマや原発の報道がどれほど減ったことか!? そして、たとえ報じられたとしても、NHKをはじめ、復興、帰還へバイアスのかかった歪んだ報道が多い。
このブログで何度も繰り返してきたように、3.11こそ、その悲劇を糧にして、日本がいい方向へ変われる最後のチャンスだった。(今やはっきりと過去形で言おう。)実際、3.11によって目覚めた少なからぬ市民が、理不尽な原発を止めようと立ち上がり、翌2012年の夏へ向けて、放射能雲が垂れ込める梅雨空に咲く紫陽花のように、人々の群が大きな塊となって花開いたのだ。
しかし、ターニングポイントはあまりに早かった。野田の自爆解散によるその年の年末総選挙によって、花の果実はすべて摘み取られ、この国が真の民主主義国家へと生まれ変わるチャンスは永遠に奪い去られた。思えば3.11を間に挟んで、戦後初めて選挙によって政権交代を実現した民主党政権も、この時ともに、あだ花として摘み取られた。
そしてそれに代わって登場した安倍政権は、決して3.11以前の自民党政権への回帰ではなかった。3.11はよくも悪しくもこの国を後戻りできない新たな地平へと押し出したのだ。
だからこそ、敗戦後、米占領軍によって与えられた「戦後民主主義」の下、すべて他人任せのお任せ主義で築き上げてきた一億総無責任体制に終止符を打ち、今こそ、3.11によって明らかになった原子力ムラの理不尽をはじめとするこの国の隠された真実と、すべての国民は真正面から向き合い、そして自分の頭で考え、自らの意思で行動することが求められたはずだった。
しかし、この国の多くの人々はまたとないその機会をふいにした。フクシマの事態をわがことと受け止め、原発問題、放射能の問題と正面から取り組んで考えることを放棄し、政府・マスコミの垂れ流す情報を鵜呑みにして、フクシマの現実をなきものにし、3.11を忘却の彼方へ流そうとした。2012年12.16はその答えだった。かくして「安倍晋三」は、3.11の放射能によって受胎したわれわれ日本国民が産み落とした奇っ怪な怪獣であったのだ。だから、その後の安倍政権の暴走は、すべてその結果に過ぎない。
不謹慎な喩えかもしれないが、上村遼太君の死を、多くの国民は悼み、加害少年らに憤りをぶつけている。しかし、そうした人々は上村遼太君にはならないだろう。上村君は自ら意識せずに引き込まれた加害少年らのムラの正体に気づき、その真実と向き合い、そこから逃れるべく行動したために殺された。しかし、彼の死を悼み、加害少年らを指弾する多くの大人たちは、喩えていえば少年Bであり、少年Cなのだ。上村君のように自分を変えようとして、新たな未来を目ざして行動することもなく、いや、そんなことすら考える思考力もなければ、当然それに伴う行動力もなく、主犯の少年Aの言いなりになっていた少年B、少年Cに過ぎない。
上村君もそのように考えることをやめ、ひたすら少年Aの命令に忠実に、万引きをしたりパシリをしている限り、たまにAの気まぐれで殴られることはあっても、生きる自由=奴隷の自由を維持することはできただろう。
たまたま今話題の上村君を引き合いに出したけれど、これはイジメ社会に普遍的な構造であり、未成年のイジメ社会こそ、大人社会=ニッポンムラの原型である。
もうすぐオウム事件20年を迎えるが、今この国自体がオウム的カルト国家になっていることに、多くの人が気づかずに過ごしている。この国は、もはや政府の言う公式見解に背き、真実や事実をはっきりと主張する言論を許さない病に冒されつつある。フクシマオキナワは、いってみればニッポンムラにとっての上村君だ。一部の心ある友人が助けようとしてAの所へ押しかけても、それを人々は傍観するだけであり、それを報じるマスコミもない。彼らの行動に怒ったAが「上村君」のみならず、彼の味方をする人々をも圧殺しようとして、取り返しのつかないことをしたとしても、現実の社会はそれを隠蔽すらするかもしれない。そんな国や国民には、本当は「イスラム国」の残虐性を批判する権利も資格もないのかもしれない。
だが、奴隷の自由を享受する少年Bや少年Cも、実はいつ「次の上村君」になるか分からないのだ。その恐怖から逃れようとして、彼らはいっそう思考停止状態に陥るのだ。

九州電力の杜撰な再稼働申請のお陰で、川内原発1、2号機の再稼働は今秋にずれ込みそうだが、関電高浜原発3、4号機の再稼働もその頃になる見通しだ。ひとたび再稼働を認めれば、いよいよこの国は決して後戻りできない滅亡への道を歩み始めるだろう。最悪の場合は、関西以西で起きる第2のフクシマによって文字通り国土が人の住めなくなる滅亡をもたらすだろうし、そうでなくとも、そのような経済合理性にすら背く病的社会は、早晩経済的破綻を迎えるだろう。あるいは、再稼働で勢いづいた政権が一気に改憲へと突っ走り、「有志連合」の一員となって自ら泥沼の戦争へ足を踏み入れて滅んでいくかもしれない。
そうなっても、あなたがたは「少年A」の暴力的支配に黙ってひたすら耐え偲ぶのですか?

3.11以降強化された〈ムラ社会〉-美味しんぼとgodzilla [Criticism]

3.11から3年余り。あの地震と津波と原発の爆発を経験した私(たち)は、常にこうあるべき日本と、こうでしかなかった日本のギャップに引き裂かれてきた。あるべき日本の姿をいえば、東電福島第一原子力発電所の爆発事故のみならず、千年ぶりに襲った大地震と大津波に直面し、そこから本来、過去60年余りにわたって繁栄してきた戦後の経済的発展の遺産の上に、今こそそこから訣別して21世紀の世界に先駆ける新しい社会へ向けて真の復興と再生を遂げていくべきであった。そして、3年前の津波と原発の爆発によって荒涼と広がった瓦礫の山を前に呆然と佇む私(たち)は、それに敗戦後の2発の原子爆弾に焼き払われた広島と長崎に象徴される焼け野原の瓦礫を重ね、そこから奇跡の復興を遂げた戦後日本を思い起こし、新たな奇跡を信じようとした。しかし、現実の日本は、それとは全く逆の方向へと舵を切った。現状を1948年のありえなかった像に喩えてみれば、闇経済が国を蝕み、悪と暴力が社会を支配し、多くの無辜の民が餓死していく飢えと貧困の1948年である。
戦後日本社会は、〈ムラ社会〉を土台にして、その上に「民主主義」の外套を身にまとうことによって近代国家の装いを整えた。その装置は、平和国家の上に安定した経済成長を遂げていくには格好の組合せであった。しかし、3.11はその外套を引きはがし、この国をむき出しの〈ムラ社会〉にしてしまった。
〈ムラ社会〉の極端系は〈ムラ社会〉の再生産工場でもある学校における〈いじめ社会〉である。学校(クラス)という特殊な閉鎖空間では、いじめ加害者という特殊なリーダーの嗜好が「疑似社会」の常識として流通する。それがいかに一般社会の常識からかけ離れていていようと、クラスという閉鎖空間の中では一般常識が通用せず、いじめ加害者の嗜好が常識としてまかり通り、クラスの空気を支配する。そして、ひとたびいじめ加害者の眼鏡に適わないと判断された対象は、徹底的にいじめつくされ、排斥される。いじめの対象者は文字通り丸裸にされ、その人格を根こそぎ否定されつくされる。加害者にとっては被害者はうざいから、死ぬしか価値がない存在と見なされる。そうした特殊空間に身を置く者は、自分がそのいじめの対象にならないことだけを考え、それ以外の思考を停止する。そうした閉鎖社会にも、ときおり空気を読めない正義漢が登場する。彼は多くの「中立者」が見て見ぬ振りをするいじめ被害者に味方し、加害者を指弾する。そうすると、加害者の暴力の矛先はそのKYな「正義漢」へと向けられる。彼は彼を取り巻く同調者とともにその「正義漢」を二度と立ち上がれないほどボコボコに打ちのめす。多くの「中立者」は傍観を決め込むが、心情的に「正義漢」に同感する者はまれである。なぜなら、すでに彼らは、外の世界の常識を喪失し、加害者のコントロール下に置かれているのだから。それだけでない、徹底的に人格を破壊され尽くしたいじめ被害者も、必ずしも「正義漢」の登場を歓迎するわけではない。なぜなら、「正義漢」がボコボコにやられた後に、加害者のさらに凶暴化した暴力が自身に及ぶことを知っているからだ。
3.11以降の〈ニッポンムラ〉にとって、いじめの第一の対象はまさにフクシマの民である。彼らはことの発端からすでに棄民と決定された。やろうと思えばできたヨウ素剤の配布SPEEDIの公表も意図的にサボり、大量の初期被曝という暴力に晒された。さらにクラス(県)の加害者は被害者をクラスの外に出さずにクラスの勢力を維持するために、遠くのクラスから被害者をクラスの外に逃がさないための洗脳工作員を呼んだ。そうして県民を閉鎖空間に封じ込め、その多くをマインドコントロール下に置くことに成功した。しかし、忘れてならないのは、加害者にとって被害者はうざい存在、死ぬしか価値のない存在にすぎないことである。加害者にとってクラス内での絶対優位さえ確保できれば、被害者は死のうが病気になろうが知ったことではない。ただ、その原因が自分にはないと思い込ませればいいだけのことである。
そこに今回登場した空気の読めない正義漢は、雁屋哲という人物である。彼はクラスの外、そして学校の外の常識をもって、フクシマの異常さを告発した。だから、彼が加害者とその同調者によってボコボコに叩かれるのは、ある意味当然のなりゆきであった。そして、多くの傍観者らも、彼に同調するのは少数者であり、大部分は思考停止か加害者の消極的同調者である。
こうした異常ないじめ社会は、フクシマのみならず、今や日本社会そのものを支配する空気となってしまった。〈ニッポンムラ〉の加害者集団は、今や世界の常識から大きく逸脱し、理性も知性もかなぐり捨てて、ひたすら自分の嗜好、情念の赴くままに勝手に振る舞い、その同調者らは悪乗りして「○○殺せ!」と憎しみを限りに叫び続け、いじめ被害者に暴力をふるう。3.11から3年余りを経て、今この国は、水爆実験に汚染された島から目覚めた怪獣ゴジラのような奇怪な風景をさらけ出している。

ゴジラといえば、もうすぐハリウッド版GODZILLAがアメリカで封切られる。日本でも7月頃上映されるそうだ。しかし、もしこの映画が、日本で制作されていたら、おそらく国をあげて上映阻止に動いたであろう。「福島の風評被害を煽る」「福島県民に対する差別だ」というような理屈をつけて。上映禁止というような強権的措置はとらないだろうが、同調者をして上映館に圧力をかけさせ、空気を読んだ上映館は次々と上映を中止し、結局上映不能に陥るのだ。
さすがのこの国の加害者集団も、アメリカ製のこの映画にそのような乱暴な措置を強行する可能性は低いだろう。もしそんなことをすれば、またまた世界の常識の笑いものにされるだけだから。
いじめ加害者も「正義漢」が影響力を行使できないマイナーな存在だとシカトを決め込む。例えば、「朝日のあたる家」とか「希望の国」、はたまたフクシマの真実のみならず〈ムラ社会〉の本質にも迫った「おだやかな日常」等というマイナーな反原発映画はほっておけばいいのである。だが、「美味しんぼ」のように、大手出版社の出す社会的影響力のあるエンタメまんが雑誌の人気まんがの「正義漢」は、「たかがまんが」としかとするわけにはいかなかった。
ゴジラの話に戻るが、アメリカのオフィシャルサイトの予告編では、どういうわけかアジア版のみ、原発が爆発するシーンがのっていない(http://www.godzillamovie.com/)。ワーナー側の配慮か東宝等日本サイドの要求なのか、7月上映に向けて日本版予告編が各映画館で上映される際には、原発爆発シーンはおろか、少しでも原発を連想させるようなシーンは一切カットされることだろう。(下手をすると本編にも手が加えられる可能性すら否定できない。)

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かくして、あるべき日本とこうでしかなかった日本のギャップに引き裂かれ、もだえ苦しんでいるのは、この国で私ひとりだけなのだろうか?